プロフィール

田部康喜

01 略歴

 昭和29(1954)年、福島県会津若松市で生まれました。生後間もなく、祖父の実家がある耶麻郡高郷村(現喜多方市)に移りました。新潟県に近い阿賀野川沿いの山村で幼少時代を過ごしました。祖父は漆を採取する職人でした。

 幼稚園の年長組に入る年に、会津若松市に戻りました。カナダに本拠を置く、カトリックの無原罪聖母修道院が戦後に開いた私立ザベリオ学園の幼稚園に入園しました。園長をはじめ、カナダ人の修道女たちが教育にかかわっていました。

 昭和38(1963)年の夏、父の転勤で仙台市に転居しました。大学を卒業するまで過ごすことになります。仙台は、わたしの「第2のふるさと」です。

 市立連坊小路小学校から、東北大学教育学部附属中学校に入学しました。県立仙台第二高校から、東北大学法学部へ。
 幼いころから作文が得意だったので、新聞記者に挑戦してみようと思い立ち、朝日新聞社を受験しました。

 昭和53(1978)年4月1日、朝日新聞社に入社。初任地は佐賀支局でした。司法担当や県政担当など、駆け出し記者の修行後、昭和56(1981)年2月、九州と山口県をエリアとする西部本社の経済部に配属されました。朝日ジャーナル編集部で雑誌編集・記者を務めたほかは、ほとんどの期間を経済記者として過ごしました。

 平成14(2002)年8月1日、ソフトバンクに入社しました。朝日ジャーナルの休刊にともなって、東京経済部に復帰して、産業キャップ時代に取材で知り合った孫正義代表のお誘いがきっかけでした。わたしの入社に合わせて、新設された広報室長に就任しました。

 スマートフォンやiPad向けに新聞や雑誌の記事を配信する、社内ベンチャーを起案し、その準備のために、平成21(2009)年7月、顧問となり、新会社設立準備に入りました。

 平成22年(2010)年3月、ソフトバンクと毎日新聞社、電通、西日本新聞社に出資していただき、株式会社ビューンが創業しました。取締役会長となって、経営の舵取りをしてきました。

田部 康喜 (たべ・こうき)

福島県会津若松市生まれ
本籍 仙台市

1973年3月 宮城県立仙台第二高等学校卒
1978年3月 東北大学法学部卒
1978年4月 朝日新聞社入社
1985年8月 東京本社経済部(流通、金融担当)
1990年4月 朝日ジャーナル編集部
1992年6月 東京本社経済部(産業、証券、通産省、大蔵省キャップ)
1996年4月 大阪本社経済部 次長
1997年7月 東京本社経済部 次長
1999年2月 東京本社企画報道室 副室長(くらしのあした=社会保障チーム担当)
2000年2月 論説委員(経済、農業、IT産業、社会保障担当)
2002年1月 be編集部 bエディター
2002年8月 ソフトバンク入社 広報室長
2010年3月 株式会社ビューン 取締役会長
2012年4月 一般社団法人 麻布調査研究機構 代表理事(理事長)
株式会社ベネル 取締役

公職

サイバー大学客員教授(2007年10月~)
財団法人 太陽の船研究所 理事(2008年〜)
東京都私立学校助成審議会委員(2001年度、2002年度)

著作

『ジャーナリズムは死なず ― メディアの危機と再生を巡る23考』
(2012年秋 ミネルヴァ書房より刊行予定)

共著
『新産業地図』(朝日新聞刊)
『農業』(同)
『雇用』(同)
『会社86』(同)
『トウキョウ マネー』(同)
編著 『なにわ金融事件簿』(かもがわ出版)

02 経営者として

 ソフトバンクに入社した理由は、「孫正義の旗」のもとに働いてみたい、というのが一番でした。取材で知り合ってまもなく、当時ソフトバンクのビジネスの主軸だった出版部門の責任者に誘われたことは、わたしの誇りでした。
 もうひとつ大きな理由があります。ブロードバンドの発展のなかで、メディアの出身者として、いずれプレイヤーとなれるのではないか、という期待でした。

 広報室長の仕事のかたわら、最初の挑戦は、入社4年目のことでした。全国の主要な地方紙をネットで結んで、バーチャルな全国紙をつくろう、という構想でした。有力な地方紙を結ぶと、全国紙を上回る読者と多様な地域のニュースを発信することができます。
 全国の地方紙を行脚して、構想への参加を働きかけました。

 ソフトバンクの孫正義代表が、韓国の「オー・マイニュース」という市民記者が記事を書くジャーナリズムに共鳴して、日本語のサイトを立ち上げる、というプロジェクトが浮上しました。
 メディアの出身ということから、わたしが日本法人を立ち上げるプロジェクトリーダーとなりました。韓国の創業者であるオー・ヨンホ氏を側面で支援して、日本法人を立ち上げました。初代の編集長には鳥越俊太郎氏を迎えました。

 起業にこぎつけたのが、スマートフォンやiPadなどに、新聞、雑誌、テレビのニュースを配信する新しいサービスです。2009年夏ごろから、準備にとりかかりました。
 2010年6月のiPad発売に向けて、ソフトバンクモバイルのキラーコンテンツにしよう、という位置づけをもらったのは、2009年12月のことでした。

経営理念

 事業を立ち上げるに際して、孫正義代表は、必ず次の5つのステップを踏まなければならない、としています。
 まず、企業の理念を定める。次に、その企業の発展のビジョンを考える。次に、その戦略、そして戦術、最後が事業計画だと。理念なき起業は失敗する、という考えです。

 「企業理念」について、わたしは、次のような「設立趣意書」にまとめました。

世界史の大きな流れを決める知識と文化は、樹木や石の板、竹、パピルス、紙、そして、ラジオの受信機やテレビの受像機、さらにコンピューター、携帯電話の画面によって、人々に伝えられてきました。
人々が知識と文化を取り入れる手段と方法、その機器はこれからも変化していくことでしょう。  知識、文化の作り手と人々の仲立ちであり、担い手である存在を、現代社会はメディアと呼び、それは新聞であり、出版であり、放送、広告、ネットメディアです。
現代の民主主義の基盤であるジャーナリズムと、人々の暮らしを支える情報の源です。メディアもいま、大きな変化の流れのなかにあります。
 わたしたちは、知識と文化、そして、その担い手に大いなる敬意を表します。
 わたしたちの使命は、知識と文化の担い手の方々とご一緒になって、人々がいつでも、どこでも、誰でもが、より簡単に、より便利に知識と文化に触れることができる環境をつくることです。
 そして、知識と文化が永続的に創り続けられるために、その正当な対価を作り手が得られる仕組みづくりに取り組みます。
 わたしたちの会社は、たまたま極東の日本列島の上に誕生しました。日本の北端から南端までの距離は、地中海ではジェノバからアスワンまで、北米大陸ではシアトルからメキシコ中部までに匹敵する大きな国です。この国土のうえに、地中海文明と北米から中南米にかけての地域が多様な文明を生んだように、さまざまな文化を生んできました。
 日本文明が育んできた多様な文化を地球の裏側の人々にまで、あまねく伝えたい。
 文明は衝突するのではなく、それぞれが敬意を払い、吸収しあってきたのが、世界の歴史であると考えます。
 世界各地の多様な文化を日本列島の隅々まで伝えていきます。
 国家はいつの時代にも孤立していきることはできません。
 わたしたちの試みは、日本列島に蒔かれた小さな種です。芽吹き、花が咲き、実をつけ、そして新しい種が、知識と文化の風に乗って、国境を越えて、地球のさまざまな土地で芽吹くことを確信しています。

03 広報室長として

 入社3年目の2004年2月、インターネット接続サービスのヤフーBBの会員情報が約500万人分漏洩した事件は、広報室長として試練のときでした。
 個人情報を盗み出した犯人が数十億円の要求をしてきた恐喝事件でした。
 犯人たちはまず、子会社の幹部に接触してきました。そのことを知って、孫社長ら役員と少数の幹部に緊急事態であることを指摘し、会議を招集しました。
 孫社長が指示した3つの原則で、事件を乗り切ることができたと確信しています。
 第1は、悪に屈しない、つまり1円たりとも犯人に支払わない。第2は、事件の発表、説明に際して、ウソをつかない。第3は、いったん流れた個人情報が2次的に利用されて、お客様の被害を拡大しない、というものでした。

 経済事件記者として、多くの事件を手がけてきましたが、この事件ほど、複雑怪奇なものはありません。裁判の過程でも、十分に明らかになったとはいえません。

 世界的な経営者である孫代表のもとで、日本テレコム、プロ野球球団ダイエーホークス、ボーダフォン・ジャパンの買収、アップルのiPhone、iPadの独占販売など、広報戦略で重要な役割と担ったという自負もあります。

04 大学人として

 ソフトバンクが、日本で初めて、株式会社立の大学として設立した、サイバー大学の広報活動にかかわった縁で、大学人としての経験も積み重ねています。
 初代学長に就任された、早稲田大学名誉教授の吉村作治先生のお勧めで、客員教授となりました。「ウェブ時代のジャーナリズム」講座を担当しています。
 メディアの先輩たちが教えている大学院、大学での講師としてお話しする機会も多いです。

05 論説委員として

 経済担当論説委員として、幅広い分野を担当しました。年金や介護や医療問題、証券市場の改革問題なども手がけました。エネルギー問題の担当として、電力自由化問題にも取り組みました。
 コンピューターやネットワークの取材が長い経験を買われて、ITに関する政策や事象に関する社説も書きました。それまで社説であまり取り上げられていなかったテーマです。農業問題に取り組んだのは、九州時代以来のことでした。若き日に宮崎や鹿児島の肉牛産地や早場米の産地を歩いた体験から、現実を踏まえて社説になったのではないか、と思っています。
 新しい経済の牽引役である情報通信産業に関する政策にも、批判ばかりではなく、提言をしていきました。総務省主体ではなく、情報政策にかかわる米国のFCCのような組織の必要性を唱えたり、政府がいま検討を開始した、電波のオークション制度について提案したりしたことは、当時としてはかなり進んだ議論ではなかったかと思います。

06 コラム二ストとして

 論説委員は、コラム二ストとして、夕刊の「窓 論説委員室から」で筆を競います。それぞれが、ペンネームを持ちます。
 わたしは、<会>としました。会津出身であるという意味と、本の引用中心ではなく、ひとに会ってコラムを書こう、という姿勢を込めたものでした。ひとに会って、取材して書くものですから、本数はあまり多くはありません。ただ、いま読み返すと、出会った人々がはっきりと浮かびます。

07 経済記者として

 経済記者としての期間のそのほとんどを、民間企業を担当しました。霞ヶ関の旧通産省と旧大蔵省取材は、キャップというなかば管理職に近い立場でした。
 民間の産業や金融を理解していないと、官庁取材が困難な時代になっていました。
 旧通産省時代に遭遇したのは、日米自動車交渉でした。自動車産業の取材経験が生きました。旧大蔵省キャップになったときは、財政や税制を勉強できるよい機会にめぐまれた、と思ったものです。しかしながら、直面したのは、金融不安であり、住宅金融専門会社の破綻、という大きな問題でした。
 政策には政治が大きくからみます。わたしにとって、政府と政治の関係を考えるたいへんに貴重な体験になったと思っています。

08 雑誌記者・編集者として

 朝日ジャーナルは、高校生時代から愛読していた雑誌です。朝日新聞社入社後も秘かに志望していた異動先でもありました。
 1990年4月、編集部に挨拶に行きますと、編集長の伊藤正孝さんがこういいました。
「編集長がいい、といえばどんなテーマでもいいんですよ。どんな大きな事件や事故あったって、政変があったって、君がこれがいま一番大切だって、思えば、それで雑誌を作ろう、っていう場ですから」
 伊藤さんの前任が筑紫哲也さん。伊藤さんは就任直後の巻頭言で「ソフトスーツから戦闘服へ」という挑発的なコラムを書かれて、アフリカや中南米を取材して回った記者の魂をみせた方でした。
 伊藤編集長時代は、半年余りで過ぎ去り、下村満子さんと休刊まで2年間を過ごすことになりました。ニューヨーク市立大学の大学院とハーバード大学のジャーナリストスクールを出られたかたで、無類のディスカッション好きです。意見が異なっても、相手の論点を尊重する素晴らしい上司でした。
 この時代に、カバーストーリーつまりトップ記事を書いたり、編集したりした本数は、2年半近くで、記録を見ますと計30本近くになります。いまから思えば、たいへんな本数です。熱狂の30代後半だったのでしょう。