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ずばり東京

2013年2月6日

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ずばり東京

 開高健

 開高健ルポルタージュ選集

光文社文庫

2007年9月20日 初版1刷

  「前白―悪酔の日々―」から始まって、「後白―酔いざめの今―」まで、その間の40編のルポルタージュは、1964年10月の東京五輪の開会式と閉会式に向かって書き進められる。

  ひとつのルポルタージュは400字詰めの原稿用紙にして14枚。開高は70枚から90枚の取材はした、と後白で述べている。週刊朝日に1年余りにわたって連載している。1回に5人以上の人から取材しているので、ざっと335人から350人に取材したと。

  40編の作品は、それぞれが独立したテーマを追いかけている。文体がさまざまである。1960年代当時、ルポルタージュを描く文体が確立していなかったことを物語る。開高はテーマによって文体を変えたのではなく、文体を探ったのである。

  作品を一貫しているのは、事実を突き放して描写している手法と、限りない数値との組み合わせである。事実と数値がからみあって、テーマが浮かびあがる。

  東京五輪の閉会式をみにいった、開高は、寺の梵鐘の音を題材にした黛敏郎作曲のテーマ曲を聴いて、次のように述べる。

  「いよいよこちらはおとむらい気分になってくる。暗い、陰惨な、いやなことばかり考えて、どうしても陰々滅々になってゆくのである」

  そのうえで、取材に同行した記者が調べてきた、五輪関係の工事で何人の人が死んだかという数字を列挙していく。

  「▽高層ビル・・・・・・・・・・・(競技場・ホテルなどを含む)16人

▽     地下鉄工事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16人

▽     高速道路・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55人

▽     モノレール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5人

▽     東海道新幹線・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・211人

                             合計303人

 これが死人の数である。

 病人、負傷者の数となると、もっとふえる。“8日以上の休職者”という官庁用語に含められる人びとであって、これは新幹線関係が入っていないが、合計、1755人という数字になる。新幹線関係の数字を入れるともっと増えるだろう。件の役所の話によれば、この1755人のうち、統計的にはほぼ1割近くが障害者になるのだそうである。つまり、約170人が障害者になるのである」

  日本経済が高度成長にのぼろうとしている、とば口で開催された東京五輪は栄光に包まれて語られる。昭和ブームともいえる、テレビドラマと映画の数々はこの時代をあたたかい地縁と血縁があった時代として描いている。

  いつの時代も光と影はあるものだ。開高のルポルタージュは、影の部分をことさら描いているわけではない。

 いまここに、開高の作品を論じようとしているのは、2020年の東京五輪の招致活動が展開されている、この瞬間を考えたいからだ。

  わたしが少年時代をすごした昭和30年代は、中国の歴史的な区分によれば、自分の記憶のある「現代」である。それ以前は近代となる。

  現代のなかで、いまこの瞬間を考える。そのためには、現代の過去をみつめることが必要である。

  人は経験した過去の現代を、その年齢やそのときについていた職業や地位の視点から語りがちである。よき思い出であったのか、つらい思い出であったのか。

 その時代の体験を昇華して、普遍的な考えにいたるひとはほとんどいない。

 わたしもそのひとりである。

 東京五輪の開会式は、あの年の10月10日は全国的に休日となって、列島の人々はテレビの前にいたであった。わたしも父母も、弟も。東北の中核都市の旧国鉄のアパートの一室であった。

 開会式の光景をみながら、父は泣いた。終戦直前に幹部候補生となり、通信隊の小隊長の少尉となった父は、朝鮮半島に渡るとすぐに敗戦、シベリアに送られた。

 五輪の開催は、戦後20年の父の人生と日本の復興を思い返させたのであろう。

  まだできて真新しいアパートは、風呂はガスであり、トイレは水洗であった。五輪からしばらくすると、電話が引かれた。

 高度経済成長はひたひたと東北の地方都市にもその波が打ち寄せていたのであろう。

  そうした少年の視点からその時代を考えると、昭和ブームの映像の数々に違和感がない。しかしながら、それはあの時代の小さな一点にすぎない。

  「ずばり東京」のルポルタージュの数々は、いまこの瞬間にあるもののほとんどが、当時も存在したことがわかる。

 開高があの瞬間に過去を振り返って、なくなったものを懐かしむ。

 いま驚くのは、開高が描いたものがいまもれっきとしてあることである。もとより、なくなってしまったものもいくつかあるが。

 あたかも開高は、2020年の五輪招致に向けた活動が展開されている、東京にあの瞬間にあったものが残されて、そして再び吟味されることを予想していたかのようだ。

  「お犬さまの天国」はペットブームとその周辺に花咲いたビジネスを取り上げている。

  「この(犬の)学校では、いちいち飼主の家へでかけて授業する“出張訓練”もするし、また、飼主が旅行にでるようなときにはそのあいだずっと犬を預かって世話してやる。また、夏になると、『夏期軽井沢教室』といって、犬を軽井沢につれていってやる。そのためわざわざ別荘を建て、電話をひいた。これはためしにやってみたのだがたいへん人気がよくて、客の数はふえるいっぽうで、毎年どうしても欠かせない行事となった」

  「夫婦の対話『トルコ風呂』」はいまのソープについて、妻との対話によるルポルタージュである。

  「『こういうトルコ風呂が流行るのは結局のところ日本の貧しさだ。田舎のポット出の女の子がコネも縁故もなくて都会の会社に入ってBGになる。収入はタカが知れている。貯金もろくにできない。…バーやキャバレーにでると、空気はわるいし、肺は痛むし、お化粧代の、ドレスだのとバカ銭かかる。とられるばかりであんいものこらない。そこで考えたあげくトルコ風呂にやってくる。ここなら口紅もドレスもいらず、裸で稼ぐことができる…』

 『体を汚さんですむ』

 『くだらんことをいうな。体なんていくら汚したっていいじゃないか。きれいなつらしやがってどれだけ男のことも知らず無知傲慢で澄ましかえってやがる低脳高級女が多いことか…』」

  市川崑監督の記録映画「東京五輪」は幾度となく、DVDで観て、父と同じようにその開会式のシーンは涙がでる。なぜなのかはわからない。それは追体験というものなのかもしれない。

  このルポルタージュの取材のために、開高は国立競技場の会場にいる。彼が描く開会式の細部が、市川崑の映画のとらえている細部と同じであることに驚く。

 市川の映画の「文体」が正調であるとすると、開高は擬古文体を駆使して、そのこっけいさを描く。

  「7万の観客、水をうったように息をひそめるうちに、ぶらす・ばんどの入場。陸上自衛隊音楽隊、これは北口と南口とにふたつから入ります。…

 各国の選手団の紹介申し上げます。エコひいきや、政治の介入などがあってはいけませんので、お国お国の食べもの、飲みものでいくことにいたしましょう。

  遠からん者は瓶でも見ろ。近くば寄って飲んでみろ。まず筆頭は松脂入りぶどう酒うまいぎりしゃでござる。あるふぁべっと順に入場するのだがおりんぽす山があるので先陣承る。次は羊の串焙りうまいあふがにすたんでござる。三番が肉団子のあるじぇりあでござる……

  組織委員会会長挨拶。

 国際オリンピック委員会会長ぶらんでいじ氏登場。英語と日本語で各国選手を歓迎する旨の言葉を述べます。すると陛下が御起立になり、ぶらんでいじ氏に答えて開会を御宣言遊ばします。10万の諸人…玉音凛々と響きました。たちまち起こる楽の音。陸上自衛隊のぶらすばんどでございます」

  「サヨナラ・トウキョウ」のなかで、開高は東京について、簡潔にその定義をする。

  「東京には中心がない。この都は多頭多足である。いたるところに関節があり、どの関節にも心臓がある。人びとは熱と埃と響きと人塵芥のなかに浮いたり沈んだりして毎日を送り迎えしているが、自分のことを考えるのにせいいっぱいで、誰も隣人には関心を持たない。膨張と激動をつづける広大な土地に暮らしているが、一人一人の行動範囲はネズミのそれのように固定され、眼と心はモグラモチのそれに似て、ごくわずかばかりの身のまわりを用心深く眺めまわすだけである。ある意味で東京人の心理は隠者のそれに通じるものがある。朝となく夜とない膨張の衝動にくらべると、私たちの心のある部分の収縮ぶりは奇妙な対照となる」

  開高はこのルポルタージュのあと、ベトナムにそして南米など世界各地に向かうのである。

 東京論としてばかりではなく、日本のルポルタージュの手法と文体を確立した記念碑的な作品である。

 ノンフィクションのありかたについても、開高は「ずばり東京」のなかで、スケッチのように簡略に述べている。別稿の大きなテーマのなかで取り上げたいと思う。   (了)

                                 

 

 

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