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「太陽の季節」と法華経を結ぶ線 石原慎太郎論

2013年1月25日

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 「暴走老人」石原慎太郎論  なぜ首相になれないのか  「太陽の季節」と法華経を結ぶ線

法華経を生きる

石原慎太郎

幻冬舎文庫 ¥600

 

太陽の季節

石原慎太郎

新潮文庫 ¥514

  「暴走老人」――前民主党代議士の田中眞紀子の命名を、石原慎太郎は気に入ったようで、今回の総選挙の街頭演説の冒頭で必ずといっていいほど、このフレーズを使っていた。

  太陽の党を立ち上げ、そして日本維新の会に合流して臨んだ選挙は、自民、民主に継ぐ第3党となった。

  維新の会の橋下との合流にあたって、「わたしは1回限りのショートリリーフ、あとは橋下さんに繋ぐ」と語っていた石原が、首相の座を目指していたのは間違いないであろう。

 「最後のご奉公」とも語っていた。

 終戦時の首相であった、鈴木貫太郎になぞらえて、平成の鈴木貫太郎になる、との見方も政界ではあった。

  総選挙前の各種の世論調査通りに、維新が支持を集め、予想議席が100前後になっていれば、自民党あるいは自公との連立の中で、石原総理の可能性はあったとわたしは考えるが、いかがだろうか。

  維新の失速については、メディアにおける、政治のプロフェッショナルたちの分析は多々あるので、それに譲りたい。

 ただ、それらは、隔靴掻痒の感がある。大げさにいえば、プロの見方ほど、なにか現実の社会から遊離しているように思えるからである。

  政党をひとつの「商品」とみたたて、総選挙を商品の販売合戦と考える視点から、論じみてはどうだろうか。

  維新はまず、ブランド戦略に大きな過ちを犯したといえるだろう。「石原」ブランドと「橋下」ブランドの二重ブランドである。

 パナソニックとナショナルの二重ブランドの克服に、松下電器が半世紀以上もかかったことを考えれば、維新という「政党」を売り込むにあたって、このブランド戦略の誤りは惜しかったと考える。

 維新の選挙キャンペーンを統括する参謀の不在を想起させる。

  「政党」の販売戦略の責任者が明確ではなかった。CEOが石原で、COOが橋下であったのだろうか。石原と橋下の組織上の役割が明確ではなかった。代表が石原、代表代行が橋下と名目上はそうなっていたとしても。

  組織をいかに作るのか、という戦略こそ、販売の成否を決めることを維新の事務方は知らなかったのであろうか。

 政党もまた、企業と同じ組織である。組織論を確立していないものが、政党間の競争には勝てないし、仮に政権の座に就いたとしても、官僚組織を動かすことは難しいと考える。

 ドラッカーのいう「マネジメント」の問題である。20世紀の産業社会は、マネジメントという概念を構築したのである。

 もとより、商業資本のなかにもマネジメントはある。大店の主人と番頭、丁稚の関係もまたマネジメントである。

 ただ、産業社会は知的労働者を巻き込んでいくなかで、大組織を動かしていくマネジメントを確立していったのである。

 ドラッカーが指摘しているように、そのマネジメントは、NPOなど非営利の組織にも生かされなければならない。

  大阪発祥の維新をひとつの企業として考えるとき、関西企業がいかにして、東京に進出するかの戦略についても、過去の関西企業に学ぶべきだったと、わたしは考える。

 あまりにもその例は多く、学ぶべき教訓も多いのではあるが、ここは、百貨店業界の例を引いてみよう。

  関西発祥の高島屋は、東京では日本橋に高級百貨店を構え、東急沿線の二子玉川には大型ショッピングセンター、そして、新宿駅南口にも大型店を進出させて、東京の百貨店と思っている首都圏の住民は多いのではないか。

 しかも、東京では高島屋は高級百貨店の代名詞である。ブルーミングデールやハロッズといった欧米の百貨店に匹敵すると、わたしも考える。

  大阪の高島屋本店は、南海電車のターミナルである難波に本拠を置く。関西の高級百貨店は、阪急と相場が決まっている。

  高島屋は戦後、本格的に東京に進出した。日本橋店を拠点として、「ダイヤモンドカット」戦略と名づけた店舗の朱出計画によって、つまりダイヤモンドのカットのように放射線状に店舗を拡大していったのである。

 いまや首都圏の代表的なショッピングモールである、二子玉川店が、モータリゼーションの端緒がみえるか、みえないかの1960年代の「作品」であることを知って、驚かないひとがあろうか。

  関西発祥の政党である、維新は、高島屋のような東京攻略戦略を建てるべきであった。まずは、関西の地盤を固める。難波の本店を拠点として、南海沿線を和歌山方面にかけて、顧客を囲っていった高島屋に学んで、関西の自民党や公明党などの阪急に相当する政党に対抗する道をまずはとる。

 そして、独力で首都圏を攻める。これが正攻法だったと、わたしは考えるがどうか。

 おそらくこの考えには、「時間を買った」という反論があろう。つまり、石原新党という東京の企業との合併を図ることによって、政界の主導権を握るために、「時間」を節約したのだと。

 しかしながら、ブランドの確立は、やはり独自路線こそとるべきであったろう。独自路線をとらなかったことが、「石原」と「橋下」という二重ブランドの結果を生んだといっても過言ではない。

 ブランド戦略と首都圏進出計画のいずれもが存在しなかったのではなかったか。

  関西発祥の「維新」について、企業戦略という視点からみた、わたしなりの結論である。これは、石原新党にもいえることである。

 ブランド戦略と地域からの全国戦略のふたつの視点から、戦略ミスがあったのは、石原新党もしかりではなかったかと考える。

  歴史に「イフ(if)はない」といわれる。しかしながら、平成の鈴木貫太郎に石原はなりえた、とわたしは思う。企業戦略さえあったとしたらなら。

 ブランドイメージがあいまいになったのは、石原の側もそうなのである。全国に浸透するのに、維新との合流は不要ではなかったか。

  選挙で個人が獲得した得票数のランキングは、今回の東京都知事選で当選した、猪瀬直樹が434万票を記録するまでは、第1位が1971年都知事選の美濃部亮吉の361万票、第2位が2003年同選挙の石原の308万票である。第3位は、石原が参議院全国区で獲得した301万票である。

  東京比例区で、維新が獲得した得票は、130万票である。石原が後継指名した猪瀬が、434万票であった。

 石原新党は、石原をそのトップとして、まじりけなしの「石原」ブランドを確立していたとしたら、東京比例区の獲得票数は100万台でとどまらなかったのではなかったか。

  石原が総理になる可能性は、今回の総選挙でついえたといえよう。

 ブランド戦略と企業戦略のプロフェッショナルが側近にいれば、この事態は変わっていたと考える。あるいは、そうした側近は存在したが、急な選挙のために時間がなかったであろうか。

  「暴走老人」のネーミングの話に戻りたい。石原はどうしてこの言葉を引用するのだろうか。

 それは、自らが「暴走」しない性格であることをよく知っているからではなかったか。つまり、石原は、自分にないあるいは、自分の性格にあったらよいと思っている点を、田中眞紀子がいってくれたから、この言葉がお気に入りなのではないか、と考える。

  石原の個人史を振り返るとき、実は暴走しない彼の性格が浮かび上がる。

 彼は自らが暴走することはない、誰かに担がれた結果として、異彩を放つのである。

 東京都知事選を4回も勝ち抜いた、政治家もその政治人生は順風満帆とはいえない。しかも、比喩的にいうならば、いくたの挫折は「暴走」しなかった結果である、とわたしは考える。

  参議院全国で301万票を獲得した石原が、1975年の都知事選で、美濃部の268万票に対して、233万票で敗れる。この屈辱は、誇り高い彼にとって忘れがたい痛恨事であったろう。

 しかも、2003年の都知事選において、得票率で70%以上を占めながら、投票率が40%台だったために、308万票と、個人獲得票数の第1位の美濃部の1971年都知事選の361万票を抜けなかったことも悔しかったのではなかったか。投票率さえ高ければ、軽々と美濃部を抜いて、1975年の敗北の過去を雪いだに違いない。

 後継指名した猪瀬が、美濃部の前人未到といわれた得票数を抜いたことで、石原は救われたと思うが、うがち過ぎだろうか。

  石原のもうひとつの痛恨事は、1982年の自民党総裁選で推した中川一郎が自殺したことであろう。中川派に属して参謀役を務めた。

 その後、中川派を引き継ぐが、維持できなかった。石原派は、福田派に吸収されるのである。

  1995年の都知事選において、青島幸男が170万票の票数で都知事に就任する。石原が1975年に獲得した200万票台の得票に比べるべくもない数字である。

  そして、石原は国会議員25年表彰の国会演説で突然、議員辞職を表明したのだった。

  暴走する、つまり自分の政治的な野心に忠実に、まっしぐらに突き進んでいたとしたら、石原はかなり以前に都知事にも、そして首相にもなれたのではなかったか。

  作家である、石原を分析するとき、政治的な個人史ばかりではなく、その作品に学ばなければならないだろう。

 政治のプロフェッショナルである、メディアの住人たちに、石原の作品の再読を勧めたい。

  一橋大学在学中の1955年に芥川賞を受賞した「太陽の季節」(新潮文庫)である。

 わたしが東北の寒村で生まれた翌年のこの年、そして東北で青春時代を過ごした青年にとって、この作品が描いている若者たちは、わたしの住む世界とはまったく異なる人々であった。作品が発表されてから20年後の感慨であった。

 いま再読しても、作品の若者たちのような人々に出会ったことはない。

  そうした感傷はさておき、再読して思うのは、主人公のなんともにえきらないその性格にある。自らが招いた事態のなかで、自らが進んで事態を解決しようとはしない。

 彼らの風俗は、わたしの過去とはまったく交錯しない世界の出来事であるが、主人公のあいまいな感覚はよくわかる。

 戦後の文壇がこの作品に驚愕したのは、その風俗描写ではなく、「もはや戦後ではない」といわれた時代の若者たちが、自分たちの世界を構築する考えがないことのほうではなかったろうか。

 そうした「アプレゲール」の時代の若者の気分は、第2の敗戦といわれるデフレ経済下の若者と重なり合う。

 石原の人気が高齢者ばかりではなく、若者層に及んでいる由縁ではないか、とわたしは考える。

 石原の最後の都知事選である2011年選挙は、若者層と女性層からの支持があったのである。

  「太陽の季節」の主人公である竜哉は、恋人の英子を妊娠させるが、日数が過ぎて、4ヶ月となった段階で、通常の堕胎手術では間に合わず、帝王切開の結果として腹膜炎を起こして、死ぬのである。

  英子の葬式の直後、ボクシングクラブに所属している竜哉は学校のジムに行く。

  「シャドウを終え、パンチングバッグを打ちながら竜哉はふと英子の言葉を思い出した。

 “――何故貴方は、もっと率直に愛することができないの”

 その瞬間、跳ね廻るパンチングバッグの後ろに竜哉の幻覚は英子の笑顔を見た。彼は夢中でそれを殴りつけた」

  もうひとりの石原を発見したいならば、「法華経を生きる」(幻冬舎文庫)である。

  石原は毎日のように、法華経を読んでいると述べている。

  法華経の真髄について、石原は次の10点を挙げている。

  「相」 そこのあるものの生来の姿

 「性」 相をあらわす生来の性質

 「体」 その本体から生まれてくるもの

 「力」 目にみえない確かな力

 「作」 その力がもたらす作用

 「因」 すべての現象

 「縁」 さまざまな機会の訪れ

 「果」 ことの結果

 「報」 必ずなにかを残す

 「本末究竟等(ほんまつきょうとう)」 宇宙の現象すべてを支配する法則

  最後の「本末究竟等」に至る道を、法華経は説く、としている。

  こうした石原の法華経に対する深い理解の先には、静かな心の安定はあっても、暴走して、自らの政治的な野心を遂げる意思の力はないのではないか。

  これが、わたしの石原慎太郎論である。 (敬称略)     

                        

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