ブログ

書評

ずばり東京

2013年2月6日

このエントリーをはてなブックマークに追加

ずばり東京

 開高健

 開高健ルポルタージュ選集

光文社文庫

2007年9月20日 初版1刷

  「前白―悪酔の日々―」から始まって、「後白―酔いざめの今―」まで、その間の40編のルポルタージュは、1964年10月の東京五輪の開会式と閉会式に向かって書き進められる。

  ひとつのルポルタージュは400字詰めの原稿用紙にして14枚。開高は70枚から90枚の取材はした、と後白で述べている。週刊朝日に1年余りにわたって連載している。1回に5人以上の人から取材しているので、ざっと335人から350人に取材したと。

  40編の作品は、それぞれが独立したテーマを追いかけている。文体がさまざまである。1960年代当時、ルポルタージュを描く文体が確立していなかったことを物語る。開高はテーマによって文体を変えたのではなく、文体を探ったのである。

  作品を一貫しているのは、事実を突き放して描写している手法と、限りない数値との組み合わせである。事実と数値がからみあって、テーマが浮かびあがる。

  東京五輪の閉会式をみにいった、開高は、寺の梵鐘の音を題材にした黛敏郎作曲のテーマ曲を聴いて、次のように述べる。

  「いよいよこちらはおとむらい気分になってくる。暗い、陰惨な、いやなことばかり考えて、どうしても陰々滅々になってゆくのである」

  そのうえで、取材に同行した記者が調べてきた、五輪関係の工事で何人の人が死んだかという数字を列挙していく。

  「▽高層ビル・・・・・・・・・・・(競技場・ホテルなどを含む)16人

▽     地下鉄工事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16人

▽     高速道路・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55人

▽     モノレール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5人

▽     東海道新幹線・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・211人

                             合計303人

 これが死人の数である。

 病人、負傷者の数となると、もっとふえる。“8日以上の休職者”という官庁用語に含められる人びとであって、これは新幹線関係が入っていないが、合計、1755人という数字になる。新幹線関係の数字を入れるともっと増えるだろう。件の役所の話によれば、この1755人のうち、統計的にはほぼ1割近くが障害者になるのだそうである。つまり、約170人が障害者になるのである」

  日本経済が高度成長にのぼろうとしている、とば口で開催された東京五輪は栄光に包まれて語られる。昭和ブームともいえる、テレビドラマと映画の数々はこの時代をあたたかい地縁と血縁があった時代として描いている。

  いつの時代も光と影はあるものだ。開高のルポルタージュは、影の部分をことさら描いているわけではない。

 いまここに、開高の作品を論じようとしているのは、2020年の東京五輪の招致活動が展開されている、この瞬間を考えたいからだ。

  わたしが少年時代をすごした昭和30年代は、中国の歴史的な区分によれば、自分の記憶のある「現代」である。それ以前は近代となる。

  現代のなかで、いまこの瞬間を考える。そのためには、現代の過去をみつめることが必要である。

  人は経験した過去の現代を、その年齢やそのときについていた職業や地位の視点から語りがちである。よき思い出であったのか、つらい思い出であったのか。

 その時代の体験を昇華して、普遍的な考えにいたるひとはほとんどいない。

 わたしもそのひとりである。

 東京五輪の開会式は、あの年の10月10日は全国的に休日となって、列島の人々はテレビの前にいたであった。わたしも父母も、弟も。東北の中核都市の旧国鉄のアパートの一室であった。

 開会式の光景をみながら、父は泣いた。終戦直前に幹部候補生となり、通信隊の小隊長の少尉となった父は、朝鮮半島に渡るとすぐに敗戦、シベリアに送られた。

 五輪の開催は、戦後20年の父の人生と日本の復興を思い返させたのであろう。

  まだできて真新しいアパートは、風呂はガスであり、トイレは水洗であった。五輪からしばらくすると、電話が引かれた。

 高度経済成長はひたひたと東北の地方都市にもその波が打ち寄せていたのであろう。

  そうした少年の視点からその時代を考えると、昭和ブームの映像の数々に違和感がない。しかしながら、それはあの時代の小さな一点にすぎない。

  「ずばり東京」のルポルタージュの数々は、いまこの瞬間にあるもののほとんどが、当時も存在したことがわかる。

 開高があの瞬間に過去を振り返って、なくなったものを懐かしむ。

 いま驚くのは、開高が描いたものがいまもれっきとしてあることである。もとより、なくなってしまったものもいくつかあるが。

 あたかも開高は、2020年の五輪招致に向けた活動が展開されている、東京にあの瞬間にあったものが残されて、そして再び吟味されることを予想していたかのようだ。

  「お犬さまの天国」はペットブームとその周辺に花咲いたビジネスを取り上げている。

  「この(犬の)学校では、いちいち飼主の家へでかけて授業する“出張訓練”もするし、また、飼主が旅行にでるようなときにはそのあいだずっと犬を預かって世話してやる。また、夏になると、『夏期軽井沢教室』といって、犬を軽井沢につれていってやる。そのためわざわざ別荘を建て、電話をひいた。これはためしにやってみたのだがたいへん人気がよくて、客の数はふえるいっぽうで、毎年どうしても欠かせない行事となった」

  「夫婦の対話『トルコ風呂』」はいまのソープについて、妻との対話によるルポルタージュである。

  「『こういうトルコ風呂が流行るのは結局のところ日本の貧しさだ。田舎のポット出の女の子がコネも縁故もなくて都会の会社に入ってBGになる。収入はタカが知れている。貯金もろくにできない。…バーやキャバレーにでると、空気はわるいし、肺は痛むし、お化粧代の、ドレスだのとバカ銭かかる。とられるばかりであんいものこらない。そこで考えたあげくトルコ風呂にやってくる。ここなら口紅もドレスもいらず、裸で稼ぐことができる…』

 『体を汚さんですむ』

 『くだらんことをいうな。体なんていくら汚したっていいじゃないか。きれいなつらしやがってどれだけ男のことも知らず無知傲慢で澄ましかえってやがる低脳高級女が多いことか…』」

  市川崑監督の記録映画「東京五輪」は幾度となく、DVDで観て、父と同じようにその開会式のシーンは涙がでる。なぜなのかはわからない。それは追体験というものなのかもしれない。

  このルポルタージュの取材のために、開高は国立競技場の会場にいる。彼が描く開会式の細部が、市川崑の映画のとらえている細部と同じであることに驚く。

 市川の映画の「文体」が正調であるとすると、開高は擬古文体を駆使して、そのこっけいさを描く。

  「7万の観客、水をうったように息をひそめるうちに、ぶらす・ばんどの入場。陸上自衛隊音楽隊、これは北口と南口とにふたつから入ります。…

 各国の選手団の紹介申し上げます。エコひいきや、政治の介入などがあってはいけませんので、お国お国の食べもの、飲みものでいくことにいたしましょう。

  遠からん者は瓶でも見ろ。近くば寄って飲んでみろ。まず筆頭は松脂入りぶどう酒うまいぎりしゃでござる。あるふぁべっと順に入場するのだがおりんぽす山があるので先陣承る。次は羊の串焙りうまいあふがにすたんでござる。三番が肉団子のあるじぇりあでござる……

  組織委員会会長挨拶。

 国際オリンピック委員会会長ぶらんでいじ氏登場。英語と日本語で各国選手を歓迎する旨の言葉を述べます。すると陛下が御起立になり、ぶらんでいじ氏に答えて開会を御宣言遊ばします。10万の諸人…玉音凛々と響きました。たちまち起こる楽の音。陸上自衛隊のぶらすばんどでございます」

  「サヨナラ・トウキョウ」のなかで、開高は東京について、簡潔にその定義をする。

  「東京には中心がない。この都は多頭多足である。いたるところに関節があり、どの関節にも心臓がある。人びとは熱と埃と響きと人塵芥のなかに浮いたり沈んだりして毎日を送り迎えしているが、自分のことを考えるのにせいいっぱいで、誰も隣人には関心を持たない。膨張と激動をつづける広大な土地に暮らしているが、一人一人の行動範囲はネズミのそれのように固定され、眼と心はモグラモチのそれに似て、ごくわずかばかりの身のまわりを用心深く眺めまわすだけである。ある意味で東京人の心理は隠者のそれに通じるものがある。朝となく夜とない膨張の衝動にくらべると、私たちの心のある部分の収縮ぶりは奇妙な対照となる」

  開高はこのルポルタージュのあと、ベトナムにそして南米など世界各地に向かうのである。

 東京論としてばかりではなく、日本のルポルタージュの手法と文体を確立した記念碑的な作品である。

 ノンフィクションのありかたについても、開高は「ずばり東京」のなかで、スケッチのように簡略に述べている。別稿の大きなテーマのなかで取り上げたいと思う。   (了)

                                 

 

  Read the rest of this entry »

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

 「暴走老人」石原慎太郎論  なぜ首相になれないのか  「太陽の季節」と法華経を結ぶ線

法華経を生きる

石原慎太郎

幻冬舎文庫 ¥600

 

太陽の季節

石原慎太郎

新潮文庫 ¥514

  「暴走老人」――前民主党代議士の田中眞紀子の命名を、石原慎太郎は気に入ったようで、今回の総選挙の街頭演説の冒頭で必ずといっていいほど、このフレーズを使っていた。

  太陽の党を立ち上げ、そして日本維新の会に合流して臨んだ選挙は、自民、民主に継ぐ第3党となった。

  維新の会の橋下との合流にあたって、「わたしは1回限りのショートリリーフ、あとは橋下さんに繋ぐ」と語っていた石原が、首相の座を目指していたのは間違いないであろう。

 「最後のご奉公」とも語っていた。

 終戦時の首相であった、鈴木貫太郎になぞらえて、平成の鈴木貫太郎になる、との見方も政界ではあった。

  総選挙前の各種の世論調査通りに、維新が支持を集め、予想議席が100前後になっていれば、自民党あるいは自公との連立の中で、石原総理の可能性はあったとわたしは考えるが、いかがだろうか。

  維新の失速については、メディアにおける、政治のプロフェッショナルたちの分析は多々あるので、それに譲りたい。

 ただ、それらは、隔靴掻痒の感がある。大げさにいえば、プロの見方ほど、なにか現実の社会から遊離しているように思えるからである。

  政党をひとつの「商品」とみたたて、総選挙を商品の販売合戦と考える視点から、論じみてはどうだろうか。

  維新はまず、ブランド戦略に大きな過ちを犯したといえるだろう。「石原」ブランドと「橋下」ブランドの二重ブランドである。

 パナソニックとナショナルの二重ブランドの克服に、松下電器が半世紀以上もかかったことを考えれば、維新という「政党」を売り込むにあたって、このブランド戦略の誤りは惜しかったと考える。

 維新の選挙キャンペーンを統括する参謀の不在を想起させる。

  「政党」の販売戦略の責任者が明確ではなかった。CEOが石原で、COOが橋下であったのだろうか。石原と橋下の組織上の役割が明確ではなかった。代表が石原、代表代行が橋下と名目上はそうなっていたとしても。

  組織をいかに作るのか、という戦略こそ、販売の成否を決めることを維新の事務方は知らなかったのであろうか。

 政党もまた、企業と同じ組織である。組織論を確立していないものが、政党間の競争には勝てないし、仮に政権の座に就いたとしても、官僚組織を動かすことは難しいと考える。

 ドラッカーのいう「マネジメント」の問題である。20世紀の産業社会は、マネジメントという概念を構築したのである。

 もとより、商業資本のなかにもマネジメントはある。大店の主人と番頭、丁稚の関係もまたマネジメントである。

 ただ、産業社会は知的労働者を巻き込んでいくなかで、大組織を動かしていくマネジメントを確立していったのである。

 ドラッカーが指摘しているように、そのマネジメントは、NPOなど非営利の組織にも生かされなければならない。

  大阪発祥の維新をひとつの企業として考えるとき、関西企業がいかにして、東京に進出するかの戦略についても、過去の関西企業に学ぶべきだったと、わたしは考える。

 あまりにもその例は多く、学ぶべき教訓も多いのではあるが、ここは、百貨店業界の例を引いてみよう。

  関西発祥の高島屋は、東京では日本橋に高級百貨店を構え、東急沿線の二子玉川には大型ショッピングセンター、そして、新宿駅南口にも大型店を進出させて、東京の百貨店と思っている首都圏の住民は多いのではないか。

 しかも、東京では高島屋は高級百貨店の代名詞である。ブルーミングデールやハロッズといった欧米の百貨店に匹敵すると、わたしも考える。

  大阪の高島屋本店は、南海電車のターミナルである難波に本拠を置く。関西の高級百貨店は、阪急と相場が決まっている。

  高島屋は戦後、本格的に東京に進出した。日本橋店を拠点として、「ダイヤモンドカット」戦略と名づけた店舗の朱出計画によって、つまりダイヤモンドのカットのように放射線状に店舗を拡大していったのである。

 いまや首都圏の代表的なショッピングモールである、二子玉川店が、モータリゼーションの端緒がみえるか、みえないかの1960年代の「作品」であることを知って、驚かないひとがあろうか。

  関西発祥の政党である、維新は、高島屋のような東京攻略戦略を建てるべきであった。まずは、関西の地盤を固める。難波の本店を拠点として、南海沿線を和歌山方面にかけて、顧客を囲っていった高島屋に学んで、関西の自民党や公明党などの阪急に相当する政党に対抗する道をまずはとる。

 そして、独力で首都圏を攻める。これが正攻法だったと、わたしは考えるがどうか。

 おそらくこの考えには、「時間を買った」という反論があろう。つまり、石原新党という東京の企業との合併を図ることによって、政界の主導権を握るために、「時間」を節約したのだと。

 しかしながら、ブランドの確立は、やはり独自路線こそとるべきであったろう。独自路線をとらなかったことが、「石原」と「橋下」という二重ブランドの結果を生んだといっても過言ではない。

 ブランド戦略と首都圏進出計画のいずれもが存在しなかったのではなかったか。

  関西発祥の「維新」について、企業戦略という視点からみた、わたしなりの結論である。これは、石原新党にもいえることである。

 ブランド戦略と地域からの全国戦略のふたつの視点から、戦略ミスがあったのは、石原新党もしかりではなかったかと考える。

  歴史に「イフ(if)はない」といわれる。しかしながら、平成の鈴木貫太郎に石原はなりえた、とわたしは思う。企業戦略さえあったとしたらなら。

 ブランドイメージがあいまいになったのは、石原の側もそうなのである。全国に浸透するのに、維新との合流は不要ではなかったか。

  選挙で個人が獲得した得票数のランキングは、今回の東京都知事選で当選した、猪瀬直樹が434万票を記録するまでは、第1位が1971年都知事選の美濃部亮吉の361万票、第2位が2003年同選挙の石原の308万票である。第3位は、石原が参議院全国区で獲得した301万票である。

  東京比例区で、維新が獲得した得票は、130万票である。石原が後継指名した猪瀬が、434万票であった。

 石原新党は、石原をそのトップとして、まじりけなしの「石原」ブランドを確立していたとしたら、東京比例区の獲得票数は100万台でとどまらなかったのではなかったか。

  石原が総理になる可能性は、今回の総選挙でついえたといえよう。

 ブランド戦略と企業戦略のプロフェッショナルが側近にいれば、この事態は変わっていたと考える。あるいは、そうした側近は存在したが、急な選挙のために時間がなかったであろうか。

  「暴走老人」のネーミングの話に戻りたい。石原はどうしてこの言葉を引用するのだろうか。

 それは、自らが「暴走」しない性格であることをよく知っているからではなかったか。つまり、石原は、自分にないあるいは、自分の性格にあったらよいと思っている点を、田中眞紀子がいってくれたから、この言葉がお気に入りなのではないか、と考える。

  石原の個人史を振り返るとき、実は暴走しない彼の性格が浮かび上がる。

 彼は自らが暴走することはない、誰かに担がれた結果として、異彩を放つのである。

 東京都知事選を4回も勝ち抜いた、政治家もその政治人生は順風満帆とはいえない。しかも、比喩的にいうならば、いくたの挫折は「暴走」しなかった結果である、とわたしは考える。

  参議院全国で301万票を獲得した石原が、1975年の都知事選で、美濃部の268万票に対して、233万票で敗れる。この屈辱は、誇り高い彼にとって忘れがたい痛恨事であったろう。

 しかも、2003年の都知事選において、得票率で70%以上を占めながら、投票率が40%台だったために、308万票と、個人獲得票数の第1位の美濃部の1971年都知事選の361万票を抜けなかったことも悔しかったのではなかったか。投票率さえ高ければ、軽々と美濃部を抜いて、1975年の敗北の過去を雪いだに違いない。

 後継指名した猪瀬が、美濃部の前人未到といわれた得票数を抜いたことで、石原は救われたと思うが、うがち過ぎだろうか。

  石原のもうひとつの痛恨事は、1982年の自民党総裁選で推した中川一郎が自殺したことであろう。中川派に属して参謀役を務めた。

 その後、中川派を引き継ぐが、維持できなかった。石原派は、福田派に吸収されるのである。

  1995年の都知事選において、青島幸男が170万票の票数で都知事に就任する。石原が1975年に獲得した200万票台の得票に比べるべくもない数字である。

  そして、石原は国会議員25年表彰の国会演説で突然、議員辞職を表明したのだった。

  暴走する、つまり自分の政治的な野心に忠実に、まっしぐらに突き進んでいたとしたら、石原はかなり以前に都知事にも、そして首相にもなれたのではなかったか。

  作家である、石原を分析するとき、政治的な個人史ばかりではなく、その作品に学ばなければならないだろう。

 政治のプロフェッショナルである、メディアの住人たちに、石原の作品の再読を勧めたい。

  一橋大学在学中の1955年に芥川賞を受賞した「太陽の季節」(新潮文庫)である。

 わたしが東北の寒村で生まれた翌年のこの年、そして東北で青春時代を過ごした青年にとって、この作品が描いている若者たちは、わたしの住む世界とはまったく異なる人々であった。作品が発表されてから20年後の感慨であった。

 いま再読しても、作品の若者たちのような人々に出会ったことはない。

  そうした感傷はさておき、再読して思うのは、主人公のなんともにえきらないその性格にある。自らが招いた事態のなかで、自らが進んで事態を解決しようとはしない。

 彼らの風俗は、わたしの過去とはまったく交錯しない世界の出来事であるが、主人公のあいまいな感覚はよくわかる。

 戦後の文壇がこの作品に驚愕したのは、その風俗描写ではなく、「もはや戦後ではない」といわれた時代の若者たちが、自分たちの世界を構築する考えがないことのほうではなかったろうか。

 そうした「アプレゲール」の時代の若者の気分は、第2の敗戦といわれるデフレ経済下の若者と重なり合う。

 石原の人気が高齢者ばかりではなく、若者層に及んでいる由縁ではないか、とわたしは考える。

 石原の最後の都知事選である2011年選挙は、若者層と女性層からの支持があったのである。

  「太陽の季節」の主人公である竜哉は、恋人の英子を妊娠させるが、日数が過ぎて、4ヶ月となった段階で、通常の堕胎手術では間に合わず、帝王切開の結果として腹膜炎を起こして、死ぬのである。

  英子の葬式の直後、ボクシングクラブに所属している竜哉は学校のジムに行く。

  「シャドウを終え、パンチングバッグを打ちながら竜哉はふと英子の言葉を思い出した。

 “――何故貴方は、もっと率直に愛することができないの”

 その瞬間、跳ね廻るパンチングバッグの後ろに竜哉の幻覚は英子の笑顔を見た。彼は夢中でそれを殴りつけた」

  もうひとりの石原を発見したいならば、「法華経を生きる」(幻冬舎文庫)である。

  石原は毎日のように、法華経を読んでいると述べている。

  法華経の真髄について、石原は次の10点を挙げている。

  「相」 そこのあるものの生来の姿

 「性」 相をあらわす生来の性質

 「体」 その本体から生まれてくるもの

 「力」 目にみえない確かな力

 「作」 その力がもたらす作用

 「因」 すべての現象

 「縁」 さまざまな機会の訪れ

 「果」 ことの結果

 「報」 必ずなにかを残す

 「本末究竟等(ほんまつきょうとう)」 宇宙の現象すべてを支配する法則

  最後の「本末究竟等」に至る道を、法華経は説く、としている。

  こうした石原の法華経に対する深い理解の先には、静かな心の安定はあっても、暴走して、自らの政治的な野心を遂げる意思の力はないのではないか。

  これが、わたしの石原慎太郎論である。 (敬称略)     

                        

このエントリーをはてなブックマークに追加

東京の未来戦略

2013年1月21日

このエントリーをはてなブックマークに追加

東京の未来戦略

 市川宏雄・久保隆行著

 東洋経済新報社

2012年11月22日

 

 世界的な大都市として、東京は20年後に生き残っているのか。日本経済の心臓であるこの都市は、どうなるのか。

  著者のふたりはこれまで、森記念財団・都市戦略研究所をベースとして都市のあり方を提言してきた。理事の市川は明治大学専門職大学院長として、都市政策などの専門家である。同研究所の前研究員である久保は、サムソン物産開発事業部長複合開発本部部長である。

  東京が都市間競争のなかでどのような位置にあるのか、まず知らなければならない。都市戦略研究所は2008年以来、世界の都市ランキングを発表している。

  分析の対象となる6分野は、「経済」「研究・開発」「文化・交流」「居住」「環境」「交通・アクセス」である。統計データやインタビューを通じて、計70の指標を算出し、それらのスコア合計によってランキングをつけている。対象は、アジア・オセアニア13、北米・南米10、欧州・アフリカ17の計40都市である。

  最新の2012年版にかけて、東京は4位の座を守っている。トップ4の顔ぶれは変わっていないが、首位の座が最新版でニューヨークからロンドンに交代した。

  ロンドン、ニューヨーク、パリ、東京の順番である。これらの都市のスコアと、続くシンガポール、ソウル、アムステルダムなどの都市との差は大きい。

  東京の中心から半径60キロメートルの「東京都市圏」についてみると、東京は人口とGDPにおいて、世界最大の都市圏である。

  同研究所の2025年における推定でも、東京都市圏は2008年のトップの座が揺るがない。それぞれの時点における人口は、364万人と356万人、GDPは1兆9810億ドルと1兆4790億ドルである。

  世界史的にも巨大都市東京の存在はあきらかである。ロンドンとニューヨークが17世紀に50万都市であった当時、江戸は80万都市の威容を整えていた。

  「東京の未来戦略」は2035年の時点で、東京が世界の都市間競争に打ち勝って、グローバル都市としての存在を誇るための計画を提言している。その詳細を紹介するとともに、私見を述べる前に、都市とはなにかについて考えてみたい。

  マルクス主義の経済発展史的な視点から考えると、農業社会から商業資本社会に移る過程のなかで都市は成立すると思われる。

 これに対して、東洋史の権威である東京外国語大学名誉教授の岡田英弘氏は、農業があって商業都市ができるという考えは間違いであると説く。

  中国の黄河流域で都市ができるのは、さまざまな民族が物産を交易から始まる。都市ができたあとに、その住民が消費する食糧を生産するために、都市の周囲に農業が勃興する。

 日本の都市もまた、中国の交易船がまず沿岸に碇を下ろして、まずは安全を確保して、土地の種族と交易をはじめることによって、都市ができたのであるという説である。交易が発展する過程で、その地に交易のための都市ができる。

 世界なかで、中国人ほど大量の野菜を食する民族はないので、都市の周囲に農業が開けていく。

  岡田教授の説を下敷きにして、都市としての東京あるいは江戸は、どのような交易によって巨大都市を成立させたのであろうかと考える。

 幕府や諸藩の財政が、コメの生産高や特産物によって決定的だった江戸時代、コメの交易は大坂が中心であった。

 シカゴ取引所など現代の金融取引所が先物を始めるに際して、大坂の米相場の先物を参考にした。江戸と大坂の交易の決済手段として、為替も存在していた。

  岡田説を大胆に敷衍するとしたならば、江戸は「情報」を交易する都市として発展したのではなかったか。

 諸藩はコメの交易については、大坂屋敷を持っていた。幕府のお膝元であり、参勤交代の地である江戸は、列島を統治する「情報」のやりとりをする場所であった。「情報」とは利益なかんずく金融の利鞘をもたらす源である。

 金融機能において、高度に成熟した江戸時代において、情報のるつぼである江戸が世界的な大都市になりえたのは当然であったろう。

  日本は明治維新によって、国民国家の列強の仲間に滑り込んだ。産業革命の潮流にも追いついた。国民国家を建設する司令塔となった東京は、「情報」の交易の場所としての地位を守った。貿易の産物は、当初は絹であったが、工業製品が加わっていく。戦後の高度経済成長もまた、その東京の地位を確固たるものにした。

  「東京の未来戦略」というまさにそのタイトルの課題について考えるとき、農業革命から産業革命から、そして情報革命つまり、トフラーのいう「第三の波」に、日本と東京が洗われていることを認識しなければならないのだろう。

 東京において、交易される「情報」とはなにかということでもある。

 かつては国民国家建設に向けた情報であったろう、工業製品についての情報であった時代もある。

 この議論は、日本あるいは東京がこれから、なにをもって世界に貢献できるか、という課題である。

  「東京の未来戦略」は2035年に向かって進む東京について、4つのシナリオを提示している。シナリオは天気になぞらえている。

 「豪雨シナリオ」

 「長雨シナリオ」

 「曇天シナリオ」

 「青空シナリオ」

  豪雨、長雨、曇天のシナリオは、少子高齢化と都市インフラの改良も、産業の振興も進まない未来を描いている。

  最後のシナリオは、「ここにいると五感が刺激されて心地よい」という言葉で象徴されている。

 「東京が2035年までに『社会構造の変革』をともなう『パラダイムシフト』を実現し……持てる真のポテンシャルを変革の原動力と位置づけることができれば……『世界を牽引する“和”のグローバル都市』へと進化を遂げているにちがいない」

  そのために、「経済・産業」「空間・環境」「生活・社会」の3分野についてそれぞれ、3段階で取り組むべき計45のメニューを提示している。

  「経済・産業」の経済成長の項目では、第1段階として「経済成長を阻害する要素を明確にして徹底的に排除せよ」、第2段階としては「より活発で健全な競争を促して質の高い経済成長を実現せよ」、最終段階は「(高齢者や女性、外国人を含めた多様な)参加率と生産性の高い持続的な経済成長を実現せよ」

  「空間・環境」の都市構造の項目では、「都市構造を柔軟に変化させよ」から「都心部への集中投資を促し都市構造モデルを構築せよ」の段階を経て、「リアルとバーチャルが融合した環境負荷の低い21世紀型の都市構造へと移行せよ」となる。

  「生活・社会」の文化・価値観の項目では、「異なる文化や価値観に対する許容範囲をひろげよ」から「海外からの来訪者に向けて日本的な価値観を正しく伝え、理解と共有を深めよ」、そして最後に「余暇を拡大させてより新しい文化や価値観への接触機会を増やせ」である。

 さらに、「東京の未来戦略」は、こうした「青空シナリオ」に向けた、具体的な「ブレイクスルー・プロジェクト」を提言している。

 成田と羽田空港とを時間距離を短縮して結ぶ「成羽線」であり、都内4地域計2530ヘクタールに未来都市のモデルを建設することであり、すでに計画が立案されている「アジアヘッドクォーター特区」の実現である。この特区には、世界的な企業500社を5年計画で誘致する計画である。

 そして、首都圏の電力をまかなう「東京天然ガスプロジェクト」と、2020年の東京五輪招致、首都高速道路を活用した都市計画も。

 提言が実現すれば、東京はポスト工業社会つまり情報革命後の都市の器を作ることができるのは間違いないだろう。

 そのときに、東京が交易する情報あるいは知恵とはいったいなんなのだろうか。東京が世界に貢献する知識とはなにか。

 「ポスト資本主義時代」に、東京はいったいなにをなすべきなのだろうか。  (了)

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

iPhone5発売狂想曲

スティーブ・ジョブズ Ⅰ Ⅱ

ウォルター・アイザックソン著、 井口 耕二訳

講談社 (各巻 ¥1,995)

 

 東京・銀座のアップルショップに、開店前から並ぶ人の長い列、銀座通りに沿ってほど近いソフトバンクモバイルの旗艦店にも。テレビ局のカメラと報道陣のカメラの放列。

 「iPhone 狂想曲」は再び、メディアによって奏でられた。アップルは9月21日、最新鋭の「iPhone 5」を日本でも売り出した。

  「iPhone 3G」が登場したのは、2008年7月である。そして、10年6月の「4」、11年10月の「4S」。さらに、「5」に至ってもなお、その人気は衰えず、加熱している。

  アメリカの調査会社のIDCによると、2012年上期の世界のスマートフォンのシェアは、サムスンが31%、iPhoneが21%、ノキアが7%である。

 ちなみに、タブレットでは、アップルのiPadが71%、サムスン9%である。

  ある調査会社の推定によると、スマートフォン市場の利益のうち、アップルがその70%以上を占め、サムスンは26%に過ぎないという。他のメーカーはほとんど利益を出していない。

  アップルの一人勝ちである。

  日本のメディアの「iPhone 狂想曲」も、投入された機種の数を模していうなら、第4楽章に入って、アップルの戦略やその新製品の機能の分析をする主旋律から、日本のメーカーのふがいなさを嘆く哀調を帯びた旋律を奏で始めたようにみえる。

  スマートフォンの大きな潮流を、日本メーカーは見逃したという、批判の強い調子も加わって、「失われた20年」の記憶が蘇って、読者にはいささか耐えがたいのではないか。

  今日を記録する、という意味であるジャーナリズムは、日々の出来事を追いながら、その一方で歴史的な潮流をみなければならない。日本のメディアは、「ウチ」を攻撃するに際して「ソト」をもってする傾向が強い。

 それは、日本が過去の歴史のなかで、「ソト」からの衝撃によって、「ウチ」の変化を遂げてきたことと無縁ではない。黒船の来襲によって、近代化を成し遂げた列島の現実である。

  「ソト」によって、「ウチ」を攻撃する、日本のメディアの自虐性がいかんなく発揮されるのは、「iPhone 狂想曲」に限ったことではない。

  日本のメディアのそうした視点は、「ソト」が実は「ウチ」つまり日本がそもそも、開発したものである、という事実が明らかになったときに、動揺をきたして対応ができない。

  アップルとサムスンのスマートフォンをめぐる訴訟合戦のなかで、アップルのオリジナリティを否定する証拠として、サムスンが提出した証拠の衝撃である。

  サムスンによれば、iPhoneのデザインの発想は、ソニーが極力ボタンを少なくした携帯電話の開発をしている、という記事が発端だった、とする。アップルはこれをきっかけとして、社内の日本人デザイナーに対して「ソニーが(iPhoneを)作るとしたら、どのようなデザインになるか」と、試作させたとしている。しかも、その試作機にソニーのロゴを入れていた、という。

  日本のメディアはこの事実をどのように「消化」したであろうか。日本メーカーはその当時はモデルにされるほどに優れていたが、いまはすっかりその勢いを失ってしまった、あるいは逆に、日本メーカーも捨てたものではない、というものであった。

 アップルもソニーもまた、「ソト」と「ウチ」という思考の国境線などない、国際企業であることを忘れたかのようであった。

  ピューリツァー賞の受賞者という、ジャーナリストとして高い水準にあるウォルター・アイザックソンの「スティーブ・ジョブズ Ⅰ Ⅱ」(井口 耕二訳、講談社)は、日本でもベストセラーになった。

 スティーブ・ジョブズが死を覚悟して、アイザックソンを筆者に選んで、幾度となくインタビューに応じ、しかも、「自分の悪いところも書いてもらいたい」といっさい原稿に口をはさまなかった。

  「ソト」をもって「ウチ」を批判する、日本のメディアの宿痾(しゅくあ・治らない病)を考えるうえで、よい教科書である。

 「スティーブ・ジョブズ」伝が綴る、ジョブズの東洋ことに日本に対する憧れと傾倒ぶりは、その宿命とともに胸を打つ。

  スティーブ・ジョブズは、青年のときにインドに憧れて放浪し、舞い戻ったカリフォルニアで日本の禅僧に出会い、禅に取り組んだ。

 京都はジョブズの愛した町である。死を悟ったジョブズが、家族と最後の旅行先として選んだ町でもある。彼の体調が悪化して、家族はその実現が一時は困難であると考えた。

  ジョブズが起業したばかりのころ、近所にあったソニーショップにいっては、新製品のカタログを繰り返し見たエピソードもある。

  アップルの復活の大きなきっかとなった、iPodの記録媒体として、最小のものを捜し求めていたジョブズに、朗報をもたらしたのは、日本メーカーであった。そのときの興奮ぶりもまた、筆者のアイザックソンはていねいに描いている。

  アップルの製品を貫く、ジョブズのムダをぎりぎりまで省いたシンプルなデザインは、日本文明の簡素をもって尊しとする精神に富んでいるのではないか。

  豪邸に住まず、室内も簡素なものである。どんな家具を入れるかに迷い続けて、ほとんどがらんどうの部屋で撮影された自画像を、ジョブズは愛した。「スティーブ・ジョブズ」伝にも織り込まれている。

  菜食主義を貫き、それが癌の手術後の彼の回復を妨げたのみならず、自然治癒の治療に時間をかけたために、最後の手術の時期が遅れることになったのではないか、とアイザックソンは記している。ひょっとすると、ジョブズはいまも生きていた可能性があるとも読める。

  ある企業について書くならば、その社史と、創業者の伝記を読まなければならないと考える。そこには、国境の「ウチ」と「ソト」を超えた思想がみえてくる。

 それは、アップルを筆頭とする欧米の企業に限らない。日本の企業もしかりである。

  日本の経済ジャーナリズムの成熟を期待したい。      (敬称略)

  Business Journal 新メディア時評

 http://biz-journal.jp/2012/09/post_675.htm

 

 

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

理念も戦略も問わず 権力維持の戦術を説く

「ツイッターを持った橋下徹は小泉純一郎を超える」

真柄昭宏

(講談社・定価1000円)

大阪市長の橋下徹のツイッターが止まったのは、7日午前6時48分27秒だった。この日は17回つぶやいている。最後のツイッターが「posted at 06:48:27」である。教育について、教育委員会と首長がどのように関与していくべきか、がつぶやかれている。

 橋下のフォロワーは82万2763人、フォローしているは中田宏や東国原英夫ら28人である。政治家としてそのフォロワーの数はトップクラスである。1日に10回以上もつぶやくことがある橋下のツイッターが2昼夜にわたって止まったのである。

  大阪市長の橋下徹が率いる大阪維新の会は9日、国政への進出を目指してまず、政党を設立ために自民、民主、みんなの国会議員7人と討論会を開いた。政党要件である5人以上の国会議員の参加を得て、総選挙に打ってでる構えである。 

 そして、橋下のツイッターは止まってから4日目の10日の朝を迎えても、沈黙を守っている。

  「ツイッターを持った橋下徹は小泉純一郎を超える」(講談社)は、小泉純一郎内閣のもとで総務相や金融担当相など務めた、竹中平蔵の政策秘書だった真柄昭宏(まがら・あきひろ)による橋下論である。

 「ラジオを駆使したヒトラー、テレビを駆使した小泉純一郎、そしてツイッターを駆使している橋下徹は、まったく異なるメディアを使ったまったく異なるリーダーである」――本の「腰巻」と呼ばれる本の内容を盛り込んだ、表紙の巻き紙は、世界を惨禍に陥れた独裁者と長期政権を樹立した首相を並べる。

  しかしながら、「ツイッターを持った」が多くの頁を割いて綴っているのは、リーダー論ではない。書名にあらわれているように、著者の真柄は橋下にシンパシーを抱くものであるが、大阪維新の会の政策を論じてその優れた点を指摘するのでもない。ましてや、橋下を批判する学者らがよくなぞらえる、ヒトラーとの比較論ではまったくない。

  つまり、ある政治勢力が権力をつかむために掲げる「理念」となる政策や、権力の頂上にのぼりつめる「戦略」を説く書籍ではない。なにをなすべきかあるいは、それをどのように実現していくかを語る軍略書ではない。

  それでは、「ツイッターを持った」はなにを描こうとしているのか。橋下が政権をにぎったときに、その権力を長期に維持する「戦術」について多くのページを割いている。

 ドイツの社会学者のマックス・ウェーバーは「職業としての政治」のなかで、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という有名な言葉を語っている。

 この著作は、1919年1月にミュンヘンにおいて学生を対象にした講演録である。ドイツは第1次世界大戦の敗北から帝政の廃止に向かって、さまざまな政党が乱立していた。

 この混乱のなかから、民主主義の精華といわれたワイマール体制が生まれ、それがヒトラーによって全体主義へと導かれるのである。

 ドイツ国民である学生に対して、近い過去の経験に学ぶのではなく、歴史に学べと訴えたウェーバーの警句は生かされなかった。

  「ツイッターを持った」のなかで、真柄が多くのページを割いて綴っているのは、小泉政権の経験である。現代史ともいえないきわめて近い過去から、橋下の権力維持の「戦術」を説く。

小泉政権の経済政策とくに不良債権処理などの拠点となった、経済戦略会議の主導権をにぎる竹中の戦術に光をあてる。橋下のもとに大阪市役所顧問などの肩書きで参集している、「改革派官僚」たちが、省庁の外で集まって政策を立案する。政策秘書であった、著者の真柄もメンバーである。事務局が書き上げた政策案が決定する直前に、改革派が練った政策を実現するために報告書などに重要な文言を加える。

 改革派官僚と呼ばれる元官僚たちの著作に必ず現れるシーンである。

 真柄は彼らが橋下のもとに集まり、維新の政策を練っていることを高く評価する。橋下が権力をにぎった際には、彼らの戦術を使うことを勧めている。

 小泉政権はいわば、現代史にもなっていない。その政策の是非について正当な評価が下るまでには時の砂が落ちるのを待たなければならない。

 いま学ぶべきは、歴史である。国民による国家すなわち国民国家は、フランス革命とアメリカ独立によって「発明された」新しい歴史的な枠組みである。おおざっぱにいえば、国旗と国家に忠実を誓えば、その国の国民となる。

この国民国家は戦争をはじめ、それまでの王政に比べてきわめて強力であった。欧米諸国はこぞって国民国家の建設を目指したのである。明治維新によって、日本はアジアのなかで唯一、国民国家の設立に成功し、列強の位置に滑り込んだ。

 尖閣列島と竹島の問題は、日本人に国民国家の意識を覚醒させた。

そして、東日本大震災である。戦後の死者の数としては最大であり、戦争の犠牲と同様の思いを国民に想起させるものである。

 いままさにウェーバーが学生に向かって講演していたときのような瞬間に日本はあるのではないか。

  民主党と自民党の代表、総裁選、維新の政党化……この混沌とした政局のなかでいったいなにが起ころうとするのか。歴史に学ぶ視点を固く持ちながら、経験を語る「ツイッターを持った」を読むのは悪くない。

日本を再生に導く政治家は誰なのか。歴史にならない経験をみていけば、愚者がわかるであろう。それは政治家に限らない。彼らの周辺でうごめく者たちも含めて。

Business Journal 新メディア時評

http://biz-journal.jp/2012/09/post_675.htm

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加