政治経済情報誌・ELNEOS 4月号寄稿 ほまれもなく そしりもなく 「田部康喜」広報マンの攻防」
森友学園めぐる公文書について財務省が改ざんを行った事件は、本稿執筆時点の三月中旬、安倍内閣と財務省がどのような決着を図るのか、その方向性はまったくみえない。
公文書の改ざんは、刑法に抵触する可能性がある。
財務省は伏魔殿である。
今回の事件の決着について、永田町と霞ヶ関では、前例主義が原則となる。
政治家や官僚たち、そしてメディアの脳裏に浮かぶのは、旧大蔵省を舞台とした一九九八年の「接待汚職事件」である。事件が発覚する直前に新聞記者として、旧通産省(現在の経済産業省)と大蔵省を担当していた。国を動かしているという官僚たちの自負と逸脱が、霞ヶ関には存在していた。
銀行と証券会社による官僚に対する接待は、大蔵省から証券監視委員会、日本銀行までに及んだ。
東京地検特捜部は、大蔵官僚と日銀の課長を逮捕した。大蔵省は内部調査に基づいて多数の官僚を懲戒処分にした。三塚博・大蔵相と松下康雄・日銀総裁、小村武・大蔵事務次官は辞任した。
日本の統治機構はいうまでもなく、議院内閣制である。政府は議会の信任によって成立する。
しかし、「接待汚職事件」が明らかにした官僚の、官僚による、官僚のための「官僚内閣制」ともいうべき宿痾(しゅくあ)は、依然として統治機構に巣くっている。
このシリーズで紹介した「なぜか、『異論』の出ない組織は間違うのか」(宇田左近著・黒川清解説)は、公共機関にみられる「マインドセット」の問題を提起している。
「実行を担保するにあたってはスキルよりも権限を重視し、成果よりも手続きと年次ヒエラルキーを重視し、無謬性に固執するがゆえに改善を否定し、そして形式主義に基づく組織の操作でその場を乗り切ることを是と信じて疑わないマインドセットである」と。
「接待汚職事件」の前例にならうとすれば、麻生太郎・財務相の辞任と、財務省の内部調査に基づく官僚の懲戒処分は当然である。
ここで重要なのは、「官僚内閣制」の打破である。
歴史的にみれば、敗戦という事態に直面しても、連合最高司令官総司令部(GHQ)が占領統治に活用したこともあって、「官僚内閣制」は生き延びた。「接待汚職事件」によって、大蔵省は金融部門を金融庁として切り離さ、権限が削減されたが、生き延びた。
「内閣人事局」が官僚たちを委縮された元凶である、との言説も広がっている。それは「官僚内閣制」の温存につながりかねない。人事権と査定権限なしに官僚たちを統率することはできない。
霞ヶ関の事務次官経験者の経歴をみると、広報室長あるいは広報担当の文字が浮かび上がることはまれではない。
「議院内閣制」vs「官僚内閣制」の世論工作は始まっている。
日本のメディアは権力に近い担当ほど、社内で格が上であるという「官尊民卑」であることも、官僚たちにとっては都合がよい。(了)