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津波をファインダーはとらえた

 2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源地とするマグニチュード9・0の巨大地震が東日本の太平洋沿岸地域を襲った。強震のあとに巨大津波が押し寄せた。

 毎日新聞東京本社写真部の手塚耕一郎は、その時ヘリコプターの機上にいた。

 

 私はヘリコプターで航空部のクルー3人と共に青森県八戸市での空撮取材を終えてヘリで南下していた。仙台空港で給して羽田に戻る予定だった。

 午後2時46分、松島沖で低い雲に覆われた鉛色の海を眺めている時だった。パイロットが航空自衛隊の松島基地と無線交信している最中「大地震が発生した」という声が、無線のインカム(ヘッドホン)から突然聞こえてきた。

 地震発生から約8分後、ヘリは仙台港上空に達した。その後、県北部で震度7と分かり、北へ向かうことも考えた。しかし燃料が減ってきたため、午後3時40分過ぎ、給油ができないかと仙台空港に着陸した。空港の滑走路に普段と変わった様子はない。しかし人は誰もいなかった。ほとんどの職員は建物の屋上に避難していた。残りの燃料は、飛行時間で30分程度、状況からして給油はできそうにない。ヘリの回転翼を止めずに、しばらく様子を見ていたが、パイロットが航空無線で津波が迫っているという話を聞き、再び飛び立った。

 離陸直後、海岸線に黄土色の土ぼこりが巻き上がり、巨大な津波が防風林を越えてくる様子が目に飛び込んできた。

 私は目の前にあったカメラを手にとり、無我夢中でシャッターを切った。黒い巨大な生き物が地面を侵食していくかのように、津波は内陸へと広がっていく。直後からあちこちで火の手も上がった。とてつもない光景に、血の気が引くような感覚に襲われながら、撮影を続けた。

 ヘリは津波地域から離脱し、内陸に向かった。そして、午後4時20分頃、宮城県角田市の工場空き地に緊急着陸した。

 「なんとかしてでも写真を本社に送らなければ」。山間部の着陸地点では、手持ちの通信機器がすべて圏外だった。

 しかし、運が再び味方してくれた。工場入り口にあった唯一の公衆電話が使用可能だった。カードは使えず、手持ちの10円玉や100円玉をかき集め、着陸したことを東京本社に連絡。タクシーを呼ぶこともできた。

 途中の国道は大渋滞だった。ほとんど動かないタクシーは、時々余震で大きく揺れる。通信規制により電話は相変わらずつながらない。通信カードも駄目。しかし、携帯メールの送受信は可能だった。パソコンから映像を携帯電話のメモリーカードに移し、メール添付で送信するとうまくいった。この方法で写真7枚を送信し、朝刊に間に合わせることができた。

 

 「沿岸の防風林を越えて押し寄せる大津に、一気にのみ込まれる住宅地=宮城県名取市、3月11日午後3時55分」のキャプションで翌日の朝刊に掲載された写真は、日本新聞協会長賞を受賞した。

 毎日新聞社は、共同通信の加盟社であることから、この写真は共同通信から国内外のメディアに配信された。巨大津波の凄まじさを世界に伝えた写真となった。

 

――

参考文献

新聞研究(日本新聞協会刊)2011年6月
膨大な被災者の今を伝え続ける  河北新報社・編集局長 太田巌
地方の視点で震災と原発に向き合う  福島民報社・編集局次長 安田信二
求められる情報、総力で迫る  朝日新聞東京本社・社会グループ 石田博士 | 朝日新聞名古屋本社・報道センター次長 日浦統
最初の6時間 テレビは何を伝えたか  日本放送協会「ニュース7」編集責任者・等々木健

新聞研究2011年7月号
危機に問われる新聞力  岩手日報社・常務取締役編集局長 東根千万億
未曾有の災害連鎖を伝える報道  福島民友新聞社・編集局長 加藤卓哉
総合力で新聞の力を示すために  読売新聞東京本社・編集局総務 松田陽三
特別紙面「希望新聞」の取り組み  毎日新聞東京本社・生活報道部長 尾崎敦
現場取材で感じる人々の思い  茨城新聞社・日立支社 川崎勉
被災者基点と共助を座標軸に  河北新報社・論説委員長 鈴木素雄

新聞研究2011年8月号
激動の原発事故報道  朝日新聞東京本社・前科学医療エディター 大牟田透 | 朝日新聞東京本社・政治グループ 林尚行
率直な疑問をぶつけていく  東京新聞・科学部 永井理
地元の安全対策論議に応える  静岡新聞社・社会部長 植松恒裕
食の安全・安心と報道の役割  日本農業新聞・農政経済部長 吉田聡
市民による震災報道プロジェクト  OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代

新聞研究9月号
地域社会との新たな関係づくり  河北新報社・メディア局長 佐藤和文
原発災害報道にツイッターを利用  日本放送協会 科学・文化部長 木俣晃
新聞社の高い取材力を実感  グーグル・プロダクトマーケティングマネージャー 長谷川泰
長野県栄の震災をどう報じたか  信濃毎日新聞社・飯山支局長 東圭吾
感情を抑えて、被災地に寄り添う  河北新報社・写真部 佐々木 浩明

新聞研究2011年10月号
取材で感じた報道写真の役割  毎日新聞東京本社 編集編成写真部 手塚耕一郎
後世に「教訓」を伝える  岩手日報社・編集局報道部次長 熊谷真也
全社的訓練とノウハウが結実  日本放送協会・福島放送局放送部 鉾井喬
頼られる存在であり続けるために  岩手日報社・編集局報道部長 川村公司
震災のさなかのある地から  河北新報社・編集局長 太田巌

調査情報(TBS刊)2011年7-8月号
未だ蘇る声  東北放送・報道部 武田弘克
震災特番 Web配信  TBSテレビ 報道局デジタル編集部担当部長 鈴木宏友

調査情報2011年9-10月号
テレビ報道が信頼を回復するために  映画作家 想田和弘
震災の前と後で日本の政治は変わっていないし、私も変わらない  文芸評論家・文化史研究家 坪内祐三
「災後」社会を「つなぐ」  政治学者 御厨貴
「焼け太り」のひとつだに無きぞ悲しき  フリープロデューサー 藤岡和賀夫
気仙沼で生まれた自分しか話せないことがあると思うから  スポーツジャーナリスト 生島淳
三陸彷徨 魂と出会う地で  JNN三陸臨時支局長 龍崎孝
結局私は、記者ではなかった  TBSテレビ・報道ニュース部「Nスタ」 森岡梢

放送研究と調査(NHK放送文化研究所刊)2011年6月号
東日本大震災発生時 テレビは何を伝えたか(2)  メディア研究部 番組研究グループ
東日本大震災・放送事業者はインターネットをどう活用したか  メディア研究部 村上聖一

放送研究と調査2011年7月号
3月11日、東日本大震災の緊急報道はどのように見られたのか  メディア研究部 瓜知生
東日本大震災に見る大震災時のソーシャルメディアの役割  メディア研究部 吉次由美

放送研究と調査2011年8月号
東日本大震災・ネットユーザーはソーシャルメディアをどのように利用したか  メディア研究部 執行文子

放送研究と調査2011年9月号
原子力災害と避難情報・メディア  メディア研究部 福長秀彦
東日本大震災・被災者はメディアをどのように利用したか  世論調査部 執行文子
大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか  メディア研究部 井上裕之

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 福島県の南会津地方を源流とする阿賀野川は、会津盆地を抜け、急峻な山地を縫うように、細い帯となって日本海に向かう。水力発電所のダムに行く手を阻まれて、ゆったりとした流れを見せる耶麻郡高郷村の川沿いの集落で、わたしは育った。村役場の近くに創立した保育園まで、森を抜ける2キロほどの道を歩いた。道すがら採って食べた野いちごのすっぱさが、いまも口に広がる。

 「さんぱち(38)豪雪」といわれた1963(昭和38)年は春の彼岸も雪がうず高く、小学2年生のわたしの前を歩く小柄な祖父が雪の壁に押しつぶされそうに見えた。この夏、わたしたち家族は、父の転勤に伴って、会津盆地と別れを告げ仙台市に移り住んだ。

 転校生は孤独である。母に伴われて、校長室で待っていると担任が現れる。その後ろに従って、教室までの階段を上っていく。友だちはできるだろうか、勉強はついていけるだろうか。不安にかられる少年のわたしを思い出すと、胸が熱くなる。

 仙台市に住み慣れたころ、引越しによって、再び転校生となった。わたしは3つの小学校を経験した。受験して入学した中学校も転校生のようなものだった。幼稚園、小学校と下から上がってきた生徒たちが大半だった。

 わたしは話し言葉を失っている。会津弁も仙台弁も耳では理解できるし、話せもするが、それはからだの奥底から発せられる言葉ではない。

 どこから来て、どこにいて、どこへ向かっているのか。

 デラシネつまり故郷を喪失した、根無し草である。

 会津から仙台へ、東京、佐賀、北九州、福岡、東京、仙台、大阪、東京。海外の町々も取材で歩いた。香港、サンフランシスコ、サンジエゴ、ニューヨーク、ワシントン、ウィーン、ブタペスト、ワルシャワ、シテチェン、ハバロフスク、ソウル、上海、バンコク、ジャカルタ、クアラルンプール、マラッカ・・・・・

  2012年3月11日未明、いわき市の薄磯浜にわたしは立った。東日本大震災から1周年を迎える日に参加者が手と手をつないで、日の出に鎮魂と復興を祈る。地元の人々に加えて、東京や高知、長崎からもやってきた。

 海水浴場として知られている美しい浜辺に2000人近い人々が海に向かって並んだ。背中の後ろは、巨大津波に襲われて土台だけが残った家屋の跡。うず高い瓦礫のヤマも迫る。

 ご来光は臨めなかったが、薄日が差し始めた日の出時刻の午前6時前、参加者たちが歌う小学校唱歌「ふるさと」のメロディーと歌詞が、波に巻き取られるようにして、海に溶けていった。

  「ポスト・東日本大震災時代の政治、経済、社会、文化について、新たな思想と知識を結集する」を理念として、一般社団法人と個人会社を設立して、独立しようとしていたわたしだった。

  潮風に強く髪と頬を打たれながら、「ふるさと」を口ずさむ。東北で過ごした日々のさまざまな思い出が、怒涛のごとくわたしの心を満たした。

 わたしはデラシネではない。会津でも仙台でもない、東北こそわたしの故郷。わたしがやってきて、いまいるところだ。そして、世界は、日本は、大震災後の東北を考えることによって、生き方を変えようとしている。

 東北出身のわたしが独立して、世界を変革する思想と知識をこの地から探し出し、人々に伝えたい。

 これがわたしの独立宣言です。

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