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WEDGE Infinity 田部康喜のTV読本  投稿

 NHKドラマ10「透明なゆりかご」(金曜日夜10時)は、海沿いの町の小さな由比産婦人科を舞台にして、看護学校に通いながらバイトの看護助手を続ける、青田アオイ(清原果耶)の成長の物語である。病院モノのドラマの多くが、救急医療に携わる医師や難病を解決する名外科医を主人公にしているとは異なって、母子家庭にあって懸命に働こうとしているアオイという、少女の物語は強く心に残る。病院モノの既成概念の打ち破る傑作である。

 ヒロイン・アオイ役の清原果耶は、連続テレビ小説「あさが来た」(2015年度下期)のレギュラーとして女優デビューした。放送90年を記念した壮大な大河ファンタジードラマ「精霊の守り人」(2016・2017年)では、主人公・バルサの綾瀬はるかの少女時代を演じた。可憐な表情の奥に強い芯がある若手女優である。

 ドラマは、毎回ゲスト女優に妊産婦を演じさせて、オムニバス形式で進行する。第2回「母性ってなに」には、カンヌ国際映画祭で「万引き家族」(2018年)によって最高賞のパルム・ドールを獲得した、是枝裕和監督組の蒔田彩珠(まきた・あじゅ)が望まぬ妊娠と出産をした高校生・中本千絵役で登場した。「三度目の殺人」(2017年)では、弁護士で父の福山雅治の娘役、「万引き」では松岡菜優の妹役である。憂愁を帯びた美少女役が似合う。

 是枝組のみならず、湯浅弘章監督による最新の「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」や、瀬々敬久監督の「友罪」など、日本を代表する監督たちがいま最も起用している若手女優のひとりである。

 医院の入り口の脇から子猫の鳴き声を聞きつけた、アオイ(清原)はそこに置かれた紙袋のなかにタオルで包まれた赤ん坊を見つける。医師の由比朋寛(瀬戸康史)が診断すると、30週ほどで生まれた体重2キロ余りの未熟児だった。アオイが赤ん坊の担当になる。

 「名前をつけたほうがいい」というアオイの提案に、師長の榊実江(原田美枝子)は彼女に「もう少し発見が遅れたら死んでいた。あなたは命の恩人だから名前をつけなさい」という。アオイは、「しずか」と名付けて、「しずちゃん」と呼びかけながら世話を続ける。

 哺乳をしようと、しずかをみつめた時、アオイは言い知れぬ気持に襲われる。看護師の望月紗也子(水川あさみ)が「どうしたの?」と呼びかける。

 「なんか胸が苦しい。すいません」と、アオイは答える。

 しずかと名付けた赤ん坊の体重が数十グラムでも減ると、自分の世話が悪かったのかと動揺もする。

 「しずちゃん、ママがんばるからね」と、アオイは無意識に話しかける。

 そんなアオイに、看護師の望月はこういう。

 「やめなさい。自分のこと、ママっていってたよ。あまり入れ込まない方がいい」

 2週間が経って、赤ん坊を生んだ高校生の中本千絵(蒔田彩珠)とその父母が産院を訪れる。千絵の体調が悪いというので、両親が病院に連れて行ったところ、「出産したのではないか」と診断され、千絵を問い詰めたところ産院のそばにこども捨てたこと打ち明けたからだ。出産はひとりで、自宅のお風呂場でなされた。

 医師の由比(瀬戸)に謝る両親をさえぎるようにして、千絵が叫ぶ。

 「近所のごみに出そうかと思ったけど、終わってたし、わざわざ自転車で捨てにきたら無駄になった。そんなのみせないでよ」

 由比は、千絵に諭すように優しく尋ねる。

 「どうしてうちに捨てたの?前にも来たことがあった?」

 千絵はそれに答えずに、じっと見つめているアオイ(清原)に噛みつくように大声をあげる。

 「なにみてんの。あんなには関係ないでしょ」

 「わたしはこの子のお世話を」とアオイ。

 「仕事なのに善人ぶらないでよ」

 清原果耶と蒔田彩珠という、次の時代を担うであろう若手女優のぶつかり合いは胸に迫る。これからのちもふたりは、別の作品で演技を競うのだろう。

 千絵と両親が産院を去ってから、看護師の望月(水川)はアオイに語りかける。

 「だから、いったでしょ。あまり入れ込んじゃあいけないって」

 アオイは、反発する。

 「勝手に生んで、ゴミみたいに捨てて、なんでそんな人にわたさなければいけないんです?」

 「生んだのはあの子で、あなたは看護助手。あの子は30週育ててきた。あなたは2週間でしょ。3月ぐらいか、彼女が妊娠に気づいたのは。どんな気持ちでサックらを見たんだろ。赤ちゃんだけをみちゃだめよ」と、望月は諭すのだった。

 アオイは気持ちが収まらず、千絵に一言いってやりたくて、海沿いの急な坂道を自転で登る。あえぎながら、途中で息切れをしながら、アオイはこの坂道を自宅で出産して、自転車の前かごに、赤ん坊を入れた紙袋を入れて、産院まできた千絵の姿がみえてくる。出産後の苦しみのなかで、懸命に自転車をこぐ。そして、桜の花散るころ、産院の前でたたずんでおなかを抑えながら、なかにはいることができなかった千絵である。

 アオイは、千絵の自宅の前に着くが、そのまま自転車の方向を変えて、泣きながら坂道を下っていった。

 

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政治経済情報誌・ELNEOS 8月号寄稿 ほまれもなく そしりもなく 「田部康喜」広報マンの攻防」

 文部科学省の現職局長が受託収賄容疑で東京地検特捜部に逮捕された。報道によれば、逮捕後に官房付となった前局長は容疑を否認しているという。賄賂は、私立医科大学に息子を入学試験の本来は不合格だった点数を上乗せして合格させたというものである。

 犯罪の容疑者はいうまでもなく「推定無罪」である。欧米の報道と決定的に異なるのは、日本のメディアが「関係者の話」として、推定無罪ではなく有罪の構成要件に相当する事実を報じることである。

 今回の収賄事件でも、前局長と私大の首脳陣との会合の内容や息子の受験の点数までもが報じられている。

 文部科学省をめぐっては、昨年に元局長が退職後に有名私大に教授として天下りした裏に同省ОBのあっせんがあった。また、加計学園問題では元事務次官の前川喜平氏が「総理のご意向」があったという文書の存在を明らかにし、同省はいったん否定したものの実際にはあった。

 財務省をめぐっては、森友学園に対する国有地売却にからむ文書の改ざんがあった。これに対して、大阪地検特捜部が捜査に入ったが、起訴には至らなかった。

 森友・加計問題に対する安倍内閣と検察に対する批判は、今回の文部科学省の前局長に対する受託収賄事件によってかき消されたかのようだ。

 日本の官僚制度が特異な共同体になっているのを指摘したのは、天才

 経済・社会学者の二〇一〇年に亡くなった小室直樹博士である。

 「日本社会において高級官僚は特権階級であり、強大な権力を握り、社会的威信も高い。また、彼らなりに優者の義務を心得たつもりになっている。しかも、彼らの本質は、近代的な形式合理的な官僚ではなく、前近代的な家産官僚であり、一種の共同体を形成している」(「田中角栄 政治家の条件」、二〇一七年・ビジネス社刊)

 キーワードである「家産官僚」とは、ドイツの社会学のマックス・ウェーバーが定義した官僚制の分類で、家産国家において、支配者(主君)の下で展開された。これに対するのは、法に則って行動する依法官僚である・

 「官僚共同体に加入を許される方法は只一つ、東大法学部などの日本の一流大学を優秀な成績で卒業し、高等文官試験あるいは国家公務員試験上級甲によい成績で合格して本省採用になるという通過儀礼を受け、官僚共同体の中に、新たに生まれることだ……

 外国には、このような形態の官僚共同体はない。昔の日本にもなかった。きわめて特異な社会現象なのである」(同)

 「家産官僚制」は官庁のみの現象だろうか。「新卒一括採用」と「終身雇用制」、定期入社組と途中入社組の給与や昇格の差別……。大企業の経営層は家産官僚化している。神戸製鋼所のデータ不正事件はついに、東京地検特捜部が不正競争防止法違反の疑いで強制捜査に入った。三菱マテリアルは、品質データ改ざんの責任を取ってトップが退任した。

 「日本いまだ近代国家に非ず」と嘆じた小室博士は、現代日本を予測していたのである。

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政治経済情報誌・ELNEOS 7月号寄稿 ほまれもなく そしりもなく 「田部康喜」広報マンの攻防」

 トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長が「完全非核化」を確認した、米朝首脳会談を受け、日本政府は最重要課題と位置づけしている「拉致問題」について、安倍晋三首相は北朝鮮と直接交渉に当たる可能性について言及した。

 北東アジアにおける地政学クライシスはこれからどのように変化していくのだろうか。政府のみならず企業も米朝合意の枠組みのなかでさまざまな活動をしていくことになる。

 地政学的なリスクを意識しながら日々の企業活動の危機管理に当たっている広報パーソンの方々とともに、朝鮮半島の今後を考えるうえで必要な「補助線」を引いてみたいと思う。

 「朝鮮半島 地政学クライシス」(日本経済新聞社出版、小倉和夫氏ら編・二〇一七年)は、今回の米朝首脳会談の結果を予測していた。

 米朝関係に詳しいジョージ・ワシントン大学のヤン・C・キム名誉教授は「武力行使のオプションを排除するなら、北朝鮮への説得力あるインセンティブ提供も検討しなければならない」と指摘している。

 韓国の中央情報部(KCIA)の北朝鮮情報局長や統一相を務めた、康仁徳・慶南大学教授は「制裁と協力のバランスを維持することだ。制裁措置は、北朝鮮当局者たちのタイ人民統制強化の良い名分になっている」と強調している。

 元駐韓特命全権大使の小倉和夫・青山大学特別招聘教授は「過去の歴史を振り返ると、経済制裁がそれなりの効果を上げたケースにおいては制裁のやり方や中身よりも、その当時の国際情勢において関係国間に妥協の道を探らざるを得ない戦略的理由があったことが影響していたことがわかる」と朝鮮半島の過去と現在を俯瞰している。

 前掲の著作によると、朝鮮半島とくに北朝鮮は王朝時代から、良質の無煙炭を輸出していた。鉄鉱石やタングステンなどの埋蔵量も豊富である。日本は一九三〇年代以降、満州(中国東北部)と朝鮮半島を地域経済圏として鉄道や電力、港湾のインフラ投資を行った。戦前の朝鮮半島の鉄道の総延長は六千四九七キロであり、そのうち北朝鮮地域が四千九キロを占める。軍事的、産業的に重要視したからである。現在の北朝鮮においても、主要な幹線となっている。

 日本が鴨緑江に建設した水豊水力発電所は当時、世界最大規模のコンクリートダムを有した。港湾施設では、羅津港に満州鉄道が直接乗り入れ日本とつなぐ代表的な港となった。

 日朝国交正常化と経済協力について、日本経済研究センターの李燦雨・

特任研究員は、日本が提供する「経済協力資金」を最大で一〇〇億ドルと試算し、そのうち四五億ドルが鉄道や道路、港湾などのインフラ整備に必要だとしている。農林水産業の開発と電力正常化の「支援性協力」は二〇億ドルである。

日本が戦後東南アジア諸国に対して賠償をするに際して、日本企業をからませた「ひも付き」援助と同様に、北朝鮮に経済援助をするかどうかは未知数である。米朝首脳会談によって北東アジアの経済情勢は激しく流動化しようとしている。

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政治経済情報誌・ELNEOS 6月号寄稿 ほまれもなく そしりもなく 「田部康喜」広報マンの攻防」

 韓国の文在寅・大統領と北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長の南北首脳会談は、内外の報道機関によって実況中継されたばかりではなく、北朝鮮はその後独自に編集した映像を国営放送で流した。

 政治的な情報戦、心理戦あるいは世論戦によって、特定の思想と行動に誘導するプロパガンダである。

 映像の世紀である二十世紀をまたいで、映像はますます影響力を強めている。

 革命の思想として生まれた社会主義・共産主義はプロパガンダを武器としてきた。しかし、資本主義もまた、国民世論を統一する手段として映像を利用してきた。

 クリスマス・ソングの名曲「ホワイト・クリスマス」がラストシーンに流れる同名の映画(一九五四年)は、朝鮮戦争を背景として、退役した将軍が現役復帰を願い出るエピソードがテーマとなっている。

 曲自体は、映画に先立って作られたものである。ビング・クロスビーの甘い声と美しい詩のヒット・ソングは通奏低音として戦争がある。

 第九〇回米国アカデミー賞のメイクアップ&へスタイリング賞を日本人アーティストの辻一弘が獲得した「ウィストン・チャーチル」(二〇一七年)も、北朝鮮情勢やシリア情勢などと重ね合わせて論じられている。

ヒットラーと宥和政策をとったアーサー・ネヴィル・チェンバレン首相に対して、ヒットラーの野望に警鐘を鳴らして、戦時体制を築くことを唱えた、チャーチルの姿は平和のためには圧力こそ必要である、という評価を呼んでいる。

ノーベル文学賞(一九五三年)を受賞した回顧録の「第二次世界大戦」は邦訳が河出文庫四巻に及ぶ大著である。第二次世界大戦に至る歴史のなかで、対戦の膨大な被害を防ぎえた瞬間が幾度もあったことを悔恨とともに指摘している。

第一世界大戦に敗北したドイツについて、皇帝を廃さずに立憲君主制のもとで民主主義を発展させる道もあったとしている。米国によって、日英同盟が解消されたことが、日本を枢軸国側につかせた要因であると。ヒットラーが再軍備に踏み出した当初の段階で、フランスが進駐していれば圧倒的な軍事力によってドイツをけん制することが可能だったとも。

企業の衰亡をいかに防ぐか、あるいは地政学的なリスクとどう向き合うのか、広報パーソンが考えるひとつの手掛かりとして、チャーチルの回顧録は教科書となる。

政府・自民党の広報戦略は、「モリ・カケ」や財務省事務次官のセクハラ問題などをめぐって迷走を続けている。

国税庁長官や事務次官が辞任したあとに、財務省の廊下の片隅で囲み取材の形で、放送局のカメラの前にさらしたうえで簡単な一問一答をさせるにとどまっている。

問題の本質を解明する姿勢をまったく感じさせない、映像によるプロパガンダである。事態の収拾にもっていこうという意図は明らかである。

国民にとって、プロパガンダ映像が効果を発揮する余地はほとんどない。記者会見や株主総会を映像配信する企業が増えている。政府の轍を踏んではならない。

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政治経済情報誌・ELNEOS 5月号寄稿 ほまれもなく そしりもなく 「田部康喜」広報マンの攻防」

 メディアの経営が政権によって揺さぶられている。言論機関としての新聞・放送が「モリカケ問題」をきっかけとして、安倍一強体制を追い詰めている裏面史が刻まれようとしている。

 政府の規制改革推進会議が検討している放送事業改革のなかで、政治的公正を掲げている「放送法4条」の撤廃問題である。この条項は番組制作の前提として、➀公序良俗②政治的公正③正確な報道④意見が対立する問題は多角的な論点を提供する、の項目で構成されている。

 また、放送局の番組制作部門と配信部門つまりソフトとハードを分離することも検討課題としている。

 インターネットメディアの進展によって、通信と放送の融合という観点から、この分野においてあらゆる法律が新しい産業の発展の足かせになっていないかどうか、という視点から検討を加えてきた。

 日本民間放送連盟の会長である、東京放送ホールディングス・TBSテレビ取締役名誉会長の井上弘氏は、定例会見で、放送法改正に対して真っ向から反対の姿勢を示した。

 「私たち放送事業者は日々の放送を通じて、民主的な社会に必要な基本的情報を全国津々浦々にあまねくお伝えしているという責任もあるし、自負もある。……単なる資本の論理、産業論だけで放送を切り分けして欲しくない」

 民放業界のみならず、政府・与党内の一部にも慎重論がみられる。新聞の社説の論調もまた反対である。

 しかし、メディアの動向に注視している広報パーソンにとって、こうした論議は隔靴掻痒(かっかそうよう)にしてかつ分かりにくい。

 新聞の権益が侵されるという歴史的な視点に立つことによってのみ、事態は理解される。

 放送法を貫いている大きな柱は「マスメディア集中排除の原則」である。放送の先進国であった米国で戦前から導入されているものである。

 世論に影響力のある新聞が、放送という新たなメディアも支配すれば、その世論形成能力はさらに著しいものとなり、ひいては多様性ある論議を封じる危険性がある、というのが「集中排除の原則」のもともとの意味である。米国におけるこの原則は、徐々に規制緩和されており、その詳細はここで論じないが、新聞による放送支配はいまもできない。

 戦後の日本で民間放送局の設立を主導した電通は、新設の放送局の株式について、地方の有力企業などに割り振ったと同時に新聞社を加え、自らも出資した。形式的には、「集中排除の原則」を遵守したが、放送局の社長以下に新聞社出身の役員が並ぶという、実質的に原則逃れの状態が続いている。

 霞ヶ関の官僚が民間企業に天下るように、新聞社の幹部が民放に天下る構造になっている。官僚たちが、大学の同期が民間企業の役員を務めていることから、自らの能力も同じであるから民間企業の役員もできる、と考えているように、新聞社の幹部もまた放送局を支配する。

 新聞社の経営は、部数の急激と広告の急激な減少によって揺らいでいる。頼みの綱の放送利権もまた、ネット広告の増加の趨勢が続けば、二〇二〇年にはテレビ広告を追い抜くと推定されている。放送法改革は、新聞社にとって劇薬である。

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