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ヤフーは立ち止まらない ②

 翌3月12日、「震災対策特別室」が本社に設置された。官庁や報道機関、公共企業などに連絡して、正確な情報をすばやく伝える態勢づくりに取り組んだ。3月14日には、24時間体制を確立した。「Yahoo!トピックス」にかかわる技術、制作、企画のディレクターなど約70人を東京、大阪、名古屋の3拠点に分散したのである。 この日、ヤフー・ジャパン全体のページビューは、1日当たりとしては過去最高の23億6500万を記録した。

 3月26日には、「被災地エリアガイド」を公開した。地図などの地点情報サービスと口コミ機能を活用したものである。避難所や給水ポイントなどの情報を提供した。

 過去の経験から、PC上の情報は被災地の方には届きにくいということを学んでいたし、実際に被災地からのアクセスはほとんどがモバイル経由になっている。モバイル端末向けを最適化することをまず優先した。開発に少し時間がかかったが、被災された方にダイレクトにつながる重要なサービスでもあるため、十分なテストを踏まえて公開にこぎつけた。

 ヤフー・ジャパンは、震災対応がひと段落したあとも、立ち止まらなかった。「停電予報」と「写真保存プロジェクト」というかつてない取り組みである。インターネットの特性である双方向性が活きて、実ったプロジェクトといえるだろう。「読者」の呼びかけと、スタッフの自主的な提案が結びついた。 新聞やテレビ、雑誌、ラジオなど、既存のメディアの常識を越える試みである。

 「東京電力の電力使用状況メーター」をトップページに公開した際にはかなりの反響をいただき、我々自身も驚いたぐらいだ。情報掲載に当たっては最大で1時間20分の遅れが生じてしまうことになり、リアルタイムの状況を伝えられない。 利用者からも改善の要求する声が多数寄せられていた。原発事故を抱えて節電への意識が高まる中、現場からは、独自に電力使用状況を“予測”してしまいましょうよ、と大胆な声が上がった。

 優秀なエンジニアの活躍とYahoo!JAPANが15年以上培ってきたデータ解析のノウハウを駆使し、開発を始めてからわずか40日で東京電力館内に向けた「電気予報」を公開できることになった。4月27日のことである。東京電力発表の実績値および日本気象協会発表の気象データなどをもとに独自の集計方法で算出しいたもで、サービス公開時には誤差が2%程度とかなり精度の高いものとなった。

 東日本大震災で失われる前の町並みや風景、震災直後の様子、被災地に残された思い出の数々や今後の復興の過程などを写真で残す目的で4月8日に企画を発表、同月20日に利用者からの投稿受付を開始した。一見単純な企画のようだが、実は投稿の管理や、膨大な写真データを処理し保存するためのサーバーの維持など、費用も労力も膨大にかかるサービスだ。

 結果は好評で、震災の記録を残したいという利用者は多く、6月末には投稿数が2万枚を越えた。さらに、投稿写真 を活用して写真展が開催されるなど、活動の幅が広がっている。

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参考文献

放送メディア研究 No.9  2012 (NJHK放送文化研究所、丸善刊)

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ヤフーは立ち止まらない ①

 東日本大震災が起きた瞬間、ヤフー・ジャパンのメディア企画1部長である川邊健太郎は、東京・六本木のミッドタウンにある本社にいた。代表取締役を兼務している子会社の部下たちと打ち合わせ中だった。

 オフィスビルの警報のアナウンスは、全員退避を繰り返す。川邊は、トップの責任者を務める「Yahoo!トピックス」の編集部に向かった。

 なんとか「Yahoo!トピックス」の地震の第1報を見届けて、非常階段を駆け下りて、ビルを退避した。その場でこれからどうすればよいのか、川邊はめまぐるしく考えを整理していった。

 ヤフーのその後はこの瞬間の川邊の判断によって動いている。川邊は学生時代に友人と起業した携帯サービスの会社を経て、2000年にヤフーのモバイル担当プロデューサーに就任した。メディアの出身ではない。しかしながら、その後の機敏な対応は目を見張るものがある。

 

 災害情報の掲示や「Yahoo!ニュース」の更新を止めることはできない。避難先の広場からノートPCで何とか更新を試 みる。近隣に在住している担当スタッフを急きょ帰宅させる。専門スタッフが駐在する大阪支社と連携するなど、日頃のリスクマネジメント計画に応じて対応を試みる。

 一時避難から約2時間後、オフィスに戻り、災害情報の更新や特設ページの開設が本格的に始まった。「地震関連情報特設ページ解説」「トップページのバナー広告配信の停止」「緊急募金受付」など。すでにYahoo!Japan に対するアクセスが急増。とくに「緊急募金受付」のページはアクセス集中のためつながりにくくなる事態が発生し、膨大なトラフィックへの対応作業が夜通し行われた。

参考文献

放送メディア研究 No.9  2012 (NJHK放送文化研究所、丸善刊)

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 「鎮魂と追悼の誠を捧げて」と題された記録集を読んだ。北海道・東北地域で葬儀場を経営している清月記(本社・仙台市、菅原裕典社長)が、東日本大震災直後の活動をまとめた。業界団体の役員だった社長の菅原氏は、自治体の窓口となる本部長に就任し、遺体収容と埋葬の指揮をとった。

 業界では、菅原氏は異色の起業家である。少年時代に葬儀業を営む親戚の手伝いをした経験から、これまでにない葬儀社を作ろうと、昭和60(1985)年に起業した。故人の好みに合わせた通夜の料理や香典返し、ネットの中継によって遠方の縁者に葬儀をみてもらう。

 あの3月一杯で、社員250人が中心となって、宮城県内の遺体6000体以上を納棺した。火葬場の停止などから、土中に棺をそのまま埋める「仮埋葬」も手掛けた。遺族の要請でその後、棺を掘り起こして火葬し、寺に埋葬する仕事も引き受けた。

 生活用品を製造、販売する業態をつくったアイリスオオヤマ(本社・仙台市)の社長の大山健太郎氏もまた、起業家である。先代の工業所を昭和46(1971)年に株式会社化し、本拠地を関西から宮城県に移して成長した。

 千葉・幕張の展示場で、大地震に遭遇した大山氏は、主力工場に2日間かけてたどり着いた。「事業の継続が地域のためになる」とすぐさま社員に指示した。県内にあるホームセンター14店舗に工場から社員を派遣するとともに、営業開始を1時間早めた。停電の店は外に商品を並べた。主力工場はわずか13日後に生産を再開した。

 大震災後の震災地の復興の担い手は、起業家精神をもった経営者たちである。新しい産業を作らんとする熱い魂を持った彼らは、予測しなかったリスクを乗り越える。

 大震災復興特別区域法――震災地にさまざまな産業の特区を作り、税制や融資の優遇策を講じて、新規産業を起こして復興につなげる。復興庁の核となる政策である。

   宮城県と仙台市を含む県内17市町村が4月下旬、出先である宮城復興局に対して、IT産業向けの民間投資促進特区を申請した。

 復興庁は、震災の被害が少ない仙台市の中心部が含まれていることに難色をしめしている。仙台市を抜きにして、企業誘致は難しいというのが、宮城県の立場である。

 高度成長経済時代に青春時代を過ごした筆者には、どこかでみた光景である。昭和36(1964)年、全国15都市が指定された「新産業都市」(新産都市)である。

 復興特区の申請は4月中旬現在で、宮城県内が6件、岩手2件、青森、福島、茨城各1件の計11件である。新産都市の指定をめぐる誘致合戦は、旧通産省が調整した。復興庁には経済産業省の出向者がいる。復興特区は、新産都市の古いレコードだ。

 ポスト大震災は、ドラッカーのいう「ポスト資本主義」の時代である。資本と労働力が、起業に果たす比重は小さい。知識すなわち起業家精神が重要な時代なのである。

 そして、被災地には立派な起業家が存在する。机上のプラン作りよりも彼らの声を聴け。

   (2012年5月24日 フジサンケイビジネスアイ フロントコラム に加筆しました)

 

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 東日本大震災から4ヶ月余り経った昨年7月、北東北の山間の小さな町で開かれた勉強会に招かれた。半導体関係の工場の下請けだという経営者が質問する。 「親会社の人が来年(今年)春、アップルがiPad3を発売らしい、というが本当か」と。

 筆者が当時、ソフトバンクの子会社の役員と知ってのことだ。答えは明確で、「知る由もない」。アップルの秘密主義は徹底している。新製品は、消費者に驚きをもって迎えられなければならない。

 新型のiPadが発売されたのは、3月16日。あの経営者の情報は正しかった。

 東日本大震災によって、東北の先端工場が被災したことによって、自動車や航空機、スマートフォンなどの生産に大きく影響が出た。ゼネラル・モーターズ(GM)の工場が一時、休止に追い込まれた。世界の生産の多くを担っていた、半導体の基盤シリコンウェハーも。

   会津地方で育った筆者は、大学時代まで東北で過ごした。雪に閉ざされて、働き場がない年上の従妹たちが、信州の精密工場に出稼ぎにいったのは、そう遠くはない1970年代のことである。

 「東北」をはじめとする地方が、変化を遂げようとしていること知るのは、バブル経済崩壊後の90年代初めだった。

 新聞記者として社会人の一歩を踏み出し、当時は報道・評論雑誌の編集部にいた。投機の熱狂が失速したとき、もうひとつの日本がみえた。

 取材メモを括ってみる。日産自動車九州工場(福岡県苅田町)は増設工事によって、92年春には日産最大の工場になろうとしていた。トヨタ自動車が本拠地の愛知県以外では、国内で初めて進出するトヨタ自動車九州(同県宮田町)の操業が始まる直前だった。

 半導体組み立て工場などの「先端技術型」の新設工場の地方別進出件数は、84年に東北が関東を抜いて首位に立ち、90年まで7年連続してその座を守っていた。

 巨大津波が襲った三陸沿岸から内陸部に目を転じれば、宮城県北部から岩手県南部にかけて、自動車生産基地がその姿を現そうとしている。  トヨタ自動車の最新鋭車種である、小型のハイブリッド車「アクア」は今年1月、関東自動車工業岩手工場(関自工・岩手県金ヶ崎町)で生産が開始された。関自工とセントラル自動車(宮城県大衡村)、トヨタ自動車東北(同大和町)が7月に統合して、トヨタ自動車東日本となる。  バブル崩壊後から着々と形成されてきた、先端部品の工場群が基盤となっていることはいうまでもない。

 ニューヨークはアメリカではない、といわれる。それにならっていえば、東京は日本でない。 「失われた20年」は、東京の視点ではなかったか。 グローバル時代は、国家間の競争であると同時に、国境を越えた地域間の競争である。「東北」は、アジアにそして、中国にその先端部品の供給において、負けなかったのではなかったか。

 震災地を励まそうと歌われるポップスのなかで、「あなたの夢をあきらめないで」と「愛は勝つ」がある。ふたつの曲のサビの部分を足し合わせていうならば、「東北は勝つ、心配しないで」と。

    (2012年4月6日 フジサンケイビジネスアイ フロントコラム に加筆しました)

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生きている間に起こらない事態

 日本放送協会(NHK)の科学・文化部長の本保晃は、原発事故が急速に深刻化するなかで、取材陣の指揮をとったひとりである。震災翌日の12日に事態は急変していく。

 

 午後3時42分、原子力災害の注意報にあたる10条通報が、さらに午後4時45分、警報にあたる15条通報がそれぞれ東京電力から保安院に出された。

 10条通報も15条通報も、あらかじめ準備していた予定稿にデスクが手を入れて順次出稿していった。しかし、10条通報にとどまらず、一気に15条通報にまで至ったことは、私たちにとって大変な驚きだった。ベテラン記者の一人は「生きている間に本当に15条が出るとは思っていなかった」と語ったが、これは原発記者の偽らざる感覚だったのではないかと思う。さらに、10条通報から15条通報までの間がわずか1時間あまりという急展開にも、内心驚いた。

 15条通報となると、総理が「原子力緊急事態宣言」を行うはずだ。私たちは、官邸からの中継に備え、スタジオ解説の専門記者をスタンバイさせた。

 ここに、原子力災害に対する、NHKとしての二つの基本的な考え方が表れている。一つ目は、緊急事態や避難に関する情報を早く正確に伝えるため、重要な記者会見は生放送にすること。二つ目は、情報が十分に理解され、市民の間で無用な混乱が起きないよう、専門的な事柄については取材経験を積んだ専門記者(または専門家)がスタジオ出演して、分かりやすく解説をすることだ。

 午後7時40分過ぎから枝野官房長官の記者会見が始まると、解説の記者がスタジオに入った。解説は、主にこの記者と当部出身の解説委員の2人が交互に出演する形でスタートし、そのまま2カ月余りにわたってほぼ毎日続けることになった。急に飛び込んでくる情報や映像にコメントを加えることや、専門的な内容を分かりやすく解きほぐすことが、その目的だったが、解説には、次第に「新たな役割」を求められることになった。

 それは「被災者の状況を踏まえ、今なにが必要で何が大切かを、ジャーナリストの視点で指摘する」という、文字にすると当たり前のことである。たとえば、今後の見通しを可能な範囲で示していくこと。また、国や電力会社の発表を分かりやすく伝えるだけでなく、その両者に欠けていること、求められていることについても、コメントしていくことだ。これは、今回放送を続ける中で、あらためて意識した報道姿勢だった。

 原発報道は終わらない。終わる日を誰も知らない。

 

(「そのとき、メディアは――大震災のなかで」 第1部 完)

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参考文献

新聞研究(日本新聞協会刊)2011年6月
膨大な被災者の今を伝え続ける  河北新報社・編集局長 太田巌
地方の視点で震災と原発に向き合う  福島民報社・編集局次長 安田信二
求められる情報、総力で迫る  朝日新聞東京本社・社会グループ 石田博士 | 朝日新聞名古屋本社・報道センター次長 日浦統
最初の6時間 テレビは何を伝えたか  日本放送協会「ニュース7」編集責任者・等々木健

新聞研究2011年7月号
危機に問われる新聞力  岩手日報社・常務取締役編集局長 東根千万億
未曾有の災害連鎖を伝える報道  福島民友新聞社・編集局長 加藤卓哉
総合力で新聞の力を示すために  読売新聞東京本社・編集局総務 松田陽三
特別紙面「希望新聞」の取り組み  毎日新聞東京本社・生活報道部長 尾崎敦
現場取材で感じる人々の思い  茨城新聞社・日立支社 川崎勉
被災者基点と共助を座標軸に  河北新報社・論説委員長 鈴木素雄

新聞研究2011年8月号
激動の原発事故報道  朝日新聞東京本社・前科学医療エディター 大牟田透 | 朝日新聞東京本社・政治グループ 林尚行
率直な疑問をぶつけていく  東京新聞・科学部 永井理
地元の安全対策論議に応える  静岡新聞社・社会部長 植松恒裕
食の安全・安心と報道の役割  日本農業新聞・農政経済部長 吉田聡
市民による震災報道プロジェクト  OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代

新聞研究9月号
地域社会との新たな関係づくり  河北新報社・メディア局長 佐藤和文
原発災害報道にツイッターを利用  日本放送協会 科学・文化部長 木俣晃
新聞社の高い取材力を実感  グーグル・プロダクトマーケティングマネージャー 長谷川泰
長野県栄の震災をどう報じたか  信濃毎日新聞社・飯山支局長 東圭吾
感情を抑えて、被災地に寄り添う  河北新報社・写真部 佐々木 浩明

新聞研究2011年10月号
取材で感じた報道写真の役割  毎日新聞東京本社 編集編成写真部 手塚耕一郎
後世に「教訓」を伝える  岩手日報社・編集局報道部次長 熊谷真也
全社的訓練とノウハウが結実  日本放送協会・福島放送局放送部 鉾井喬
頼られる存在であり続けるために  岩手日報社・編集局報道部長 川村公司
震災のさなかのある地から  河北新報社・編集局長 太田巌

調査情報(TBS刊)2011年7-8月号
未だ蘇る声  東北放送・報道部 武田弘克
震災特番 Web配信  TBSテレビ 報道局デジタル編集部担当部長 鈴木宏友

調査情報2011年9-10月号
テレビ報道が信頼を回復するために  映画作家 想田和弘
震災の前と後で日本の政治は変わっていないし、私も変わらない  文芸評論家・文化史研究家 坪内祐三
「災後」社会を「つなぐ」  政治学者 御厨貴
「焼け太り」のひとつだに無きぞ悲しき  フリープロデューサー 藤岡和賀夫
気仙沼で生まれた自分しか話せないことがあると思うから  スポーツジャーナリスト 生島淳
三陸彷徨 魂と出会う地で  JNN三陸臨時支局長 龍崎孝
結局私は、記者ではなかった  TBSテレビ・報道ニュース部「Nスタ」 森岡梢

放送研究と調査(NHK放送文化研究所刊)2011年6月号
東日本大震災発生時 テレビは何を伝えたか(2)  メディア研究部 番組研究グループ
東日本大震災・放送事業者はインターネットをどう活用したか  メディア研究部 村上聖一

放送研究と調査2011年7月号
3月11日、東日本大震災の緊急報道はどのように見られたのか  メディア研究部 瓜知生
東日本大震災に見る大震災時のソーシャルメディアの役割  メディア研究部 吉次由美

放送研究と調査2011年8月号
東日本大震災・ネットユーザーはソーシャルメディアをどのように利用したか  メディア研究部 執行文子

放送研究と調査2011年9月号
原子力災害と避難情報・メディア  メディア研究部 福長秀彦
東日本大震災・被災者はメディアをどのように利用したか  世論調査部 執行文子
大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか  メディア研究部 井上裕之

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