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河北はとらえた 

  通信が途絶したために、大震災に見舞われた首都の様子を他の地域から知ることは難しかった。ほぼ正確な第一報を放ったのは、河北新報であった。

 鉄道担当記者が、国鉄の鉄道電話による連絡に着目したのである。ほとんどの国の鉄道と軍隊は、一般の電話網とは別に独自の有線あるいは無線の連絡網を持っている。いったん急あるときに備えるためである。

 『関東大震災』のなかで、著者の吉村昭も河北の報道について特筆している。

 

   仙台の河北新報は、仙台鉄道局の鉄道電話によっていち早く正確な情報をとらえた。

   同社は、9月1日午後1時、仙台鉄道局に大火災発生の第一報が入ったのを察知し、1ページ大の号外を発行し、東 北六県の通信網を通じて各県に特報を出した。そして、9月2日の夕刊には「東京横浜殆ど全滅」の見出しでその惨状を克明に報じた。

  『河北新報の百年』は、「関東大震災の報道で独走」の誇らしい見出しで、震災1周年の回顧記事などをもとに、そのときを描いている。

    この地震は仙台でもかなり強く感じられた。同時に、東京との電話は不通になり、辛うじて鉄道電話だけがつながっていた。それによって、常磐線土浦付近の列車脱線転覆の第一報が入った。1日発行の2日付夕刊と朝刊は、東北大学理学部の地震計の針がとぶほとの大地震だったことと、この列車事故のもようを伝えるにとどまった。大災害らしいとの予想はついたものの、その時は知る手段がない。本社は仙台鉄道局の特別の許可をもらって、電話室に速記者を張り付け、情報を求めた。

   鉄道担当記者からの連絡は「万世橋駅は、すでに猛火に包まれ、付近一帯火は止め度もなく狂い回る」「東京駅危うし」などだった。「全員は愕然として驚いた。ともあれ、号外、二報、三報と続く魂消る報告を活字にして、号外を発行した。これがその日の12時(2日午前零時)近くであった」(回顧記事)この号外によって初めて、震災の概略が読者にもたらされた。

   また、仙台市内各官庁への電報など各方面からの情報を総合して、生々しい状況がまとまって伝えられるのは、2日発行の3日付夕刊と、3日付朝刊からである。

   トップは「昨日の地震の惨害 東京横浜殆ど全滅 下町各区既に全焼 東京駅猛火に包まる 横須賀も全滅す」や、「未曾有の大惨害 東京全市焦土と化す 大廈高楼続いて倒壊消失し 各所に死者の山を築く」など、四段、五段見出し。大きな活字が目立つ紙面は、記事ごとに「宇都宮電話」「宇都宮経由東京電話」「新潟経由東京電話」「新潟経由長野電報」などことわり書きがあり、苦労がしのばれる。

  福島県磐城市(現在のいわき市)にあった、磐城無線電信局が、河北新報の報道を世界に伝えたことも記している。

    震災を海外に知らせたのは、磐城無線電信局だった。横浜港にあった船舶の電報を傍受して米国に第一報を送り、6日間送信を続けた。当時の無線局長米村嘉一郎は「あのころ富岡地方には河北新報しか配達されず、その記事を翻訳して送信した」(昭和31年5月11日付本紙)という。

 ――

参考文献

 吉村昭

関東大震災  文春文庫 2004年8月

 

 河北新報の百年

河北新報社

1997年9月

 

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「新聞が印刷できないなら、壁新聞はどうだろうか」

  宮城県石巻市にある地域紙の石巻日日(ひび)新聞社長の近江弘一は、報道部長の武内宏之に問いかける。

  「やりましょう」

  日日は、部数約1万4000部の夕刊紙である。

  2011年3月11日、巨大津波によって、印刷機能を失った。震災の夜は深まって、近江は翌日の新聞を手書きで発行することを決めたのである。

  仙台市に本拠を置く河北(かほく)新報社長の一力雅彦は、編集幹部を集めてこういった。

  「河北は地域のひとたちに支えられてやってきた。地域のひとに恩返しをするために、新聞を出し続けよう」

  編集局長の太田巌も、編集部長の武田真一も、翌日の朝刊をなんとしても発行するつもりだった。

  仙台市北部にある最新鋭の印刷工場は、稼動が可能だった。しかしながら、本社にある編集機能を持つサーバーが立ち上がらなかった。

  災害時に相互に編集と印刷を助け合う協定を結んでいた、新潟日報で紙面を制作することになった。

  ふたつの新聞社の物語は、それぞれが別のドキュメンタリー・ドラマになった。日本テレビは、「3.11 その日、石巻で何が起きたのか~6枚の壁新聞~」、テレビ東京は、「明日をあきらめない…がれきの中の新聞社~河北新報のいちばん長い日~」。大震災の1周年の前後に相次いで放映された。

  ドラマの登場人物が話す地名は、筆者の記憶を呼び起こす。思い出す風景には、父母や弟や友人たちの懐かしい顔が浮かび上がる。

  気仙沼、雄勝、志津川、万石浦、荒浜……

  そして、筆者は、新聞記者として、社会人の第一歩を踏み出した。出発地は九州の小さな支局勤務。日日や河北の記者と同じ「地方記者」だった。

  「日日新聞の水沼ですけれど、ちょっと写真を撮らせてもらっていいでしょうか」

  記者の水沼幸三は、避難所になった学校の教室のドアをそっとあけて、声をかける。毛布にくるまって横になるひとが、床を埋め尽くしている。

  震災の翌朝、仙台から気仙沼に夜を徹して、同僚とたどり着いた記者の丹野綾子が目撃したものは――

  幼稚園の名札を胸につけた、こどもの遺体を抱く父親。死を認めがたい父親は、丹野が乗ってきた乗用車に同乗して、避難所の医師に診断を迫る。

  がれきに埋もれて足先だけがのぞいた遺体。安置するところへ移そうとする丹野に向かって、消防団員が声をあららげる。「このままにしておけ。生存者を探すことのほうが大事なんだ」。

  日日の壁新聞の締め切りは、迫っていた。社長の近江は、停電の町では夕暮れまで読めることが必要だと判断した。掲示する場所は、避難所4カ所とコンビニ2カ所に決めた。計6枚の新聞である。

  編集部長の武田が読み上げる原稿を、近江が新聞用紙を切り裂いて作った壁新聞に書いていく。

  「武田さん、そんなに入らないよ。まず、大きな災害が発生したことを載せよう」

  手書きの壁新聞に大きな横見出しで「日本最大級の地震・大津波」、そして、左側に寄せて、これも大きな字が躍っている。

  「正確な情報で行動を!」

  河北の三陸町にある志津川支局は津波で跡形もなく流された。駐在している記者の渡辺龍は、本社に幾度も連絡を取ろうとしたが、通信は不通だった。震災後の朝刊の締め切りが迫っていた午後7時ごろ、奇跡のようにつながった。渡辺は見たまま、聞いたままを、撮影したデジタルカメラの写真をみながら、電話に出た記者に口伝えのように、書き取らせた。

  朝刊の社会面トップに、渡辺署名のルポルタージュが載った。

  「大津波 街消えた」。

  気仙沼の取材に動き回った、河北の丹野は取材拠点の総局のビルにたどりつく。階段を上がって、総局長の菊池道治を探す。菊池はデスクに向かって、紙に原稿を書いていた。

  「俺は新聞記者失格だ。うかつに外に出て、津波に飲まれた。携帯もカメラも失った」

  手書きの原稿は、丹野によって本社に運ばれ、翌日の社会面に載った。

  「『支え合い』。現実感の乏しい地獄絵の世界で頼れるのは、そこに確かにいる身近な人だけだ」と。

  菊池は、フェンスによじ登り、柱にしがみついて生き残った。老夫婦に着替えをもらい、おにぎりをもらった。

  日日の編集部門の現場を取り仕切るデスクの平井美智子は、取材のつかの間に避難所の父母を訪ねる。ひとつの毛布にくるまって、母と語り合う。壁新聞の発行を賞賛する母にこう答える。

  「情報が光だったんだ」

  放映からかなり時間が経つドラマを取り上げることに、読者が不思議がられるのは当然だろう。

  ふたつのドラマは、録画のままハードディスクに眠っていたのである。

  日日と河北の記者のような過酷な取材の経験はない。ただ、水害地で孤立した避難所まで、肩まで水につかりながらたどり着いたことはある。事件や事故で亡くなった遺体と取りすがる遺族を取材したことはある。

  震災地の記者たちのつらさを思うとき、これまで「再生」できなかったのである。

  日本テレビとテレビ東京に、再放送をお願いしたい。もっと多くのひとに観ていただきたい。(敬称略)

 

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「津波は内陸深くまで流れ込みます。早く逃げること……」

  NHKの夜のニュース番組、「ニュース7」のキャスターである武田真一アナウンサーが、緊張した高い調子で訴える。

  これまでにはない命令調の津波情報である。

  放送記念日の3月22日、NHKスペシャルは「NHKと東日本大震災」の特集番組によって、大震災から1年の自らの放送を振り返った。

  番組冒頭の武田アナウンサーの緊張した放送は、災害報道の実験の模擬放送だった。どうして、このような調子のアナウンスになったのか。その謎解きをするようにして、映像は進行する。

  巨大津波による犠牲者をどうして放送は、もっと救えなかったのか。放送人の痛恨の感情が番組を作らせた。

  2011年3月11日午後2時46分、大震災が発生したときに、ニュース責任者だったテレビニュース部の等々力健はいう。

  「マニュアルもあった。事前準備もしていた。しかし、マニュアルも事前準備も超えた事態が起きるとは思っていなかった」

  巨大地震の発生に直面した等々力は終始、アナウンサーに何度でも避難を呼びかけろ、と指示をだした。

  震災当日のテレビとラジオの放送を時系列で流しながら、番組は震災地の人々が放送にどのように刻々と対応していったかを描いていく。

  宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区は、停電によって防災無線が断絶し、テレビも視聴が困難になった。住民はテレビの情報をそのまま伝えるラジオに聞き入った。

  午後2時54分、岩手県大船渡で津波の高さは20cmと伝えられた。その後、宮城県石巻市の50cm、そして、午後3時3分、東京・お台場の方向で高く上がる火災と推定される煙にテレビの中継画面は切り替わる。

  閖上の住民に緊張感はなかった。「津波の高さの予測は6mといっているが、いつものように空振りに終わると思った」と振り返る。

  午後3時14分、岩手県釜石の港のロボットカメラが捕らえた映像から、東京のスタジオの緊張は一気に高まる。津波が防波堤を超えて、車を押し流し始めた。

  大津波警報と津波警報が太平洋岸の各地に出される放送が続いた。午後3時32分、宮城県の津波予想が10mを超えたことが流されたのは、気象庁からの情報が入ってから18分以上が経っていた。テレビの音声をそのまま流していたラジオが、この直後からアナウンサーがブースに入り、独自に避難を呼びかけるアナウンスを繰り返した。

 午後3時54分、世界に津波が同時中継されたあの映像が飛び込む。仙台空港を飛び立ったヘリコプターに搭乗したカメラマンが津波をとらえた。名取川をさかのぼるようにして、真っ黒な津波が仙台平野を飲み込んでいく。

  宮城、福島、岩手の3県の住民を対象としたアンケートによると、震災当日の津波についての放送によって、「すぐに逃げよう」と考えたひとは全体の43%に過ぎない。まだ余裕があると思ったひとが41%、津波がくるとは思わなかったひとが14%で、合わせて55%のひとは、すぐに逃げようとは思わなかったのである。

  NHKスペシャルの番組では直接的には紹介されなかったが、放送のあり方を考えようという取り組みのなかに、NHK放送文化研究所による震災地の膨大なフィールドワークがあった。

  放送文化研究所の機関誌である「放送研究と調査」2012年3月号は、「命令調を使った津波避難の呼びかけ」と題した論文を掲げる。2011年9月号は、「大洗町はなぜ『避難せよ』と呼びかけたのか」の論文である。

  茨城県大洗町は水戸市の東隣に位置する、人口約1万8,000人の漁業と海水浴で知られる町である。町を4mの津波が襲ったが、津波による死者はゼロだった。避難した人の数は一時、約3,400人に及んだ。

  「緊急避難命令、緊急避難命令・・・・」。町長の指示によって、防災無線に流れた命令調の指示が住民たちを助けた。「避難指示」が防災法上の言葉である。

  さらに、「高台に避難せよ、高台に避難せよ・・・・」と。

  住民たちを避難に駆り立てたのは、地区を名指した具体的な指示だった。「明神町から大貫角一の中通りから下の方は大至急避難してください」

  2012年3月号が紹介する、宮城県女川町の防災無線の事例はこうだ。無線放送をしている町役場を津波が襲った。

  「大津波が押し寄せています。至急高台に避難してください」

  津波はついに、3階建ての2階部分まで水没させた。その瞬間、無線の担当者は叫んだ。

  「逃げろー!高台に逃げろー!」

  NHKは2011年10月から、津波についての情報を伝える呼びかけを変えることにした。端的に強い危機を伝える、という基本的な方向性である。

  NHKスペシャルの武田アナウンサーの模擬放送は、その実践である。

  テレビの音声を流していたラジオが独自のアナウンスを始めたとき、そのブースに飛び込んだアナウンサーは、かつて「おはよう日本」のキャスターを手がけた伊藤博英である。エグゼクティブ・アナウンサーの地位から初めて、4月から地方局に転勤になる。行き先は初任地の福島放送局である。震災報道の強化の一環だ、と伝え聞く。

  筆者の余話である。伊藤と筆者は、震災地の仙台の高校同級である。

  友の「栄転」を喜ぶ。(敬称略)

 

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グーグルは得意技で 下

 さらに、グーグルは6月7日、被災地の地元紙である7社と組んで、ユーチューブに「東日本ビジネス支援チャンネル」を立ち上げた。東奥日報(青森市)とデーリー東北(八戸市)、岩手日報(盛岡市)、岩手日日(同)、河北新報(仙台市)、福島民報(福島市)、福島民友(同)である。

 「支援チャンネル」に至る足取りについて、グーグル・ジャパンのプロダクトマーケティング、マネジャーである長谷川泰は振り返る。

 

   震災から1週間が経過して、パーソナルファインディングと同じコンセプトの取り組みを動画でできないか、と思い立って、「消息情報チャンネル」を始めた。テレビ朝日とTBS系列の地方局が避難所で撮影した動画を掲載していった。名前や避難所によって検索できるようにした。

   その次に、復興支援をユーチューブで行いたいと考え、社内で議論を重ねた。実際にグーグルの社員が被災地を訪問し、復興や経済支援といった観点から、何が必要とされているかを取材した。

  この結果が「支援チャンネル」である。ユーチューブは動画の投稿サイトであり、取材はできない。グーグルが眼をつけたのは、地元の企業や経済に詳しい地元紙だった。被災地の企業などを取材したのは、記者がした場合もあり、営業担当者がした場合もあった。

 グーグルはこのサービスについて、テレビCMを使って広く宣伝した。その結果、登場した被災地の企業に関西から注文が入ったケースもあった。 「支援チャンネル」で視聴可能な動画本数は、8月15日までに415本に達した。

  プロジェクトのパートナーである地方紙について、長谷川は次のように評価する。

    頭ではわかっていたことだが、実際に一緒に活動させていただく中で、肌で感じる新聞社のみなさんの取材力の高さには、心から驚いた。地元の企業についての情報量や、関連するニーズの把握も的確で、幅広く企画のないようにマッチした取材対象を選んでいただけた。インターネットに対応できるインフラもきちんと整っていおり、お寄せいただいた各社の動画から、媒体が紙から動画に変わっても取材対象の魅力を引き出しているのを見て、新聞の良さをアピールできるのではないか、とも感じた。

  長谷川の指摘は、こらからメディアが目指すべき方向も示唆している。地方紙の側からみると、紙ばかりではなく、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャル・ネットワーク・サービスに加えて、自らが動画の配信もできることを確認したといえる。

(第2部 完)

 ――

参考文献

 

新聞研究 2011年9月号

<インタビュー>新聞社の高い取材力を実感――グーグルと被災地の地元紙との連携

グーグル プロダクトマーケティングマネジャー 長谷川 泰

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グーグルは得意技で 上

 グーグル・ジャパンは震災当日の3月11日、「パーソナルファインディング」のサービスを開始した。このサービスは、2005年に米国南部を襲った、ハリケーン・カトリーナの災害に対応して生まれたものだ。多くのウェブサイトが安否確認のサービスを開始したが、それぞれが別個にやっていたので、利用者が統合したサービスを求めたことから出発している。安否確認の巨大なサイト―それがパーソナルファインディングである。

 このサービスに登録された情報元は、被災地の宮城、岩手、福島の3県、警察庁、携帯電話各社の災害掲示などのほか、NHKや朝日新聞、毎日新聞といったメディアの安否情報である。

 日本語以外にも、英語、韓国語、中国語、ポルトガル語、スペイン語の情報も共有された。

 6月時点のデータ数は、約67万件だった。この数字は、2010年のハイチ地震の約5万5000件、チリ地震の約7万7100件を大きく上回っている。

 

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