ブログ

このエントリーをはてなブックマークに追加

泥だらけで大阪に到着

  通信が断絶する中で、東京朝日は大阪朝日に大震災の情報を伝えようと、独身者を中心に3班を編成して、地震発生の当日に西を目指させた。翌日第4班も出発した。横浜から東海道線を目指す班、中央線沿い、東海道沿い、そして最後の班は北陸から大阪に向かった。

 4日午前8時半、徒歩と自動車、列車を乗り継いで、大阪朝日にどろだらけの姿で到着したのは、東海道沿いのルートをとった東京社会部の福馬謙造だった。

 『朝日新聞社史』は、福馬の手記をもって綴っている。

 

   玄関から入ろうとすると、忽ち守衛にとめられた。全身泥まみれ、風来坊のような侵入者を、守衛がとめたのはもっともである。「どこへ行くのだ」「編輯へ行くのです。編輯室は二階ですか」「勝手に入られては困る。何の用事かね」「東京から来たのだ。急いでいるんだ」「そんなこと言っても……、手に持っているのは何かね」「写真の包みだ。僕は東京朝日の記者だよ」

  広い編輯室は人で一ぱいであるのに驚かされた。 「東京を1日夜立って、やっとやって来ました」というと、「やぁ、ご苦労、すぐ号外を出すから、東京を立ってから大阪に着くまでのことを書いてくれ給え」

  私は鉛筆をとり上げた。すぐそばには大江さん(社会部長大江素天)が立っている。社会部も整理部も原稿の出来るのを待って、一枚々々書くそばから持って行く。私は張り切って一気呵成に、新聞一頁の原稿を書きなぐった。書き終えて飲んだサイダーがうまかった。編輯局長室に連れて行かれた。そこには村山社長が居られた。私はこの時初めてお目に掛かった。社長は「御苦労じゃった」と言って私の手をとって堅く握った。

  福馬が書いた4日朝の1頁の号外には、東京本社から大事に持ってきた大震災の被害を写した未現像の写真が4枚使われた。「日比谷公園松本楼の焼失」「初震より3時間後の中央気象台――大時計は11時50分辺でピッタリと止まっている」「崩壊した京橋電話局――屋上飾がまず落下し下を通行中の人馬が惨死したところ」「芝浦の避難民」である。その後、福馬とは別班の記者たちも次々に大阪朝日に到着した。東京の震災の写真は、4日の夕刊、5日の朝刊にも多数掲載された。大阪のライバル紙は5日朝刊になっても1枚もなかった。

 福馬は泥だらけの服装のままで、5日夜、中之島公会堂で開かれた「震災報告大講演会」の壇上に立った。会場は超満員となり場外にまで聴衆はあふれた。

 

 東京朝日は新聞用紙の確保に幹部が奔走するとともに、社外の日清印刷と博文館の協力と得て、新聞発行の再開を果たした。9月6日から号外を出し、12日には11日ぶりの朝刊となる4頁をだした。25日には夕刊4頁も復刊した。

 ――

参考文献

 

読売新聞80史

読売新聞

1955年12月

 

朝日新聞社史 大正・昭和戦前編

朝日新聞社

1991年10月

 

別冊新聞研究 No.5

石井光次郎

1977年10月

 

毎日新聞七十年

毎日新聞社

1952年2月

 

日本経済新聞百年史

日本経済新聞社

1976年

 

新聞研究 別冊No.13

務臺光雄

1981年10月

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

皇居前広場に避難

 『読売新聞八十年史』は、大震災直前までに、部数の増加や広告料金を引き上げるのに成功したことを述べたあとに、「関東大震災で画べい(餅)に帰す」との見出しを掲げる。

読売新聞は、大正12(1923)年8月19日鉄筋3階建ての新社屋が、現在の銀座に完成し、新築記念号を発行するとともに、大震災が発生した9月1日午後6時から丸の内の東京會舘で落成祝賀会を開こうとしていたのである。

 

   第一回の激震と同時にわが社の電気、ガス、水道は一斉に停止して輪転機の運転は不可能となり、活字ケースは全部転覆してこれまた使用不可能となった。しかし、新築の社屋そのものはさしたる被害がなかったので、関係社員は通信機能を失った社屋内に踏みとどまり、その後も断続的に襲来する激しい余震をおかしてガリ版ずりの号外を数回にわたって発行し、危険をおかして各方面に配布した。また、特報ビラ・ニュースを市中の主要な場所にはりつかるなど、地震の実況と情報報道に奮闘した。だが、同日夜に入って、日本橋方面を一なめにした大火は銀座方面に延焼し、本社を護っていた社員らはついに二重橋広場に避難するの余儀なきにいたり、新築早々の本社社屋は無残にも焼失するに至ったのである。

  『八十年史』は、関東大震災の項の最後に当時の松山社長が翌大正13(1924)年2月、経営不振の責任をとって退いたことを記して、「讀賣新聞社史は、ここにその前史を終わり」として、灰燼に帰した新聞社を立て直す正力松太郎による社業に筆を継いでいる。関東大震災が読売新聞に致命的な打撃を与えたことを物語っている。あるいはこういう言い方もできるだろう。大震災がなかったとしたら、内務官僚だった正力が新聞業界に入ることはなかったかもしれない。

  東京朝日の経理部長だった石井光次郎もまた、皇居前広場に避難した新聞人のひとりである。石井は内務省の官僚で警視庁勤務の経験もある。創業者の村山龍平に乞われて、大震災の前年の大正11(1922)年7月に朝日新聞社に入社、編集部門を担った緒方竹虎とともに日本の代表紙に育てた功績者である。専務まで務めた後、政界に入り閣僚を経験し、衆院議長までなった。

 当時の東京朝日の本社は、京橋区滝山町にあった。大正9(1920)年11月に新築されたばかりの鉄筋コンクリート四階建だった。

石井はそのときを振り返る。

    「朝日」の社屋に火が入ったのは夕方でしたね。わたしは最後までおりました。とにかく独身ものだけ残れ。家族持ちはいっぺん家へ帰って様子をみてこい。そして無事だったら帰ってこいといって独身者だけのこしった。そのうち、火が新橋の方に向いていたのに、銀座を回って、逆に新橋の方から滝山町の裏側に燃えてきた。若い奴らが暫くは、もみ消していたが、そのうち回りが焼けて「朝日」だけが残ってしまった。そこで皆、大事なものだけを持って、二重橋の真ん前に逃れ、「朝日」の本部とした。

  火の回りが早くて、3~4時間たって、どうなっているか見ようとしたら、「朝日」はすっかり焼けて、巻き取り紙(新聞用紙)なんかすっかり燃えてしまっていた。その晩のうちに帝国ホテルに使いをやって食糧を分けてもらい、部屋を借りた。警視庁に使いをやって、正力松太郎が官房主事をやっていたので、元の役人仲間だから正力のところへ行って「あそこ非常食があるだろうから、できるだけ食糧をもってこい」といってパンと、なにがうんともらってきた。二重橋前、何もありませんからね。

  『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』は、そのときの東京朝日の内部を証言によって再現している。

    通信部長美土路昌一は「東京版」を創設するため、記者や印刷要員を増員することになり、その日午後1時に面接のため、応募者20人を集めていた。窓外に目をやると、隣家の壁がバケツで水を流すように、ザーッとくずれ落ちてゆく。美土路はとっさに「活字台が倒れていはしないか」と考えた。活字が散乱しては、号外が出せぬ、夕刊発行もあぶない。まだゆれている社内を工場へかけ下りた。工場は予想どおり、活字が床に散乱し、みな呆然自失の有り様だった。「号外は出せるか」と美土路はどなった。「子の有り様です。無理かも知れない」という声が返ってきた。美土路はその声を後ろに編輯局へかけ上がった。「そうだ。一刻も早く『大阪朝日』へ連絡せねば」と思ったのである。しかし、電話はすでに普通で、回復の見込みは不明ということだった。

  号外は出た。しかしながら、その部数は300枚ほどだった。工場内の活字ケースのほとんどが大音響とともに倒れ、見出し用の大きな活字と本文用の活字が混ざったような状態になったのである。できあがった号外は、本文用の2号活字がそろわなかったので、見出し用の活字が混じったものであった。

    整理部長緒方竹虎は1日の前夜、会社に泊まっていた。ちょうど加藤友三郎内閣がつぶれ、後任の首相山本権兵衛が組閣中だったので、かれは社内で夜を徹することになttなおである。その緒方の話はこうだ。「朝、編輯局に出て早版の整理をやっていたら、地震がきた。しばらくたって、揺り返しがやってきたが、その時がとてもひどく、写真室の硫酸が流れだしたり、社内はひどい有り様だった。工場の連中には、割合に社の近い月島あたりから通っている者が多かったので、“家がつぶれているかも知れないから、近い人は帰ってみろ。無事だったら戻って来てくれ、やられていたらもどらなくてもよいが――”といって帰した。しかし大体全員もどって来た。あの時はほうとうに涙ぐましい気がした」

 

 大震災が起きた時、東京朝日の編輯局長の安藤正純と、社会部長の原田譲二は欧米視察に海外出張中で不在だった。そして、社長の村山龍平は本拠地である大阪にいたのである。しかし、のちに社長となる緒方と美土路、そして石井という朝日の経営を担う人材がいたのである。

 ――

参考文献

 読売新聞80史

読売新聞

1955年12月

 

朝日新聞社史 大正・昭和戦前編

朝日新聞社

1991年10月

 

 別冊新聞研究 No.5

石井光次郎

1977年10月

 

毎日新聞七十年

毎日新聞社

1952年2月

 

日本経済新聞百年史

日本経済新聞社

1976年

 

新聞研究 別冊No.13

務臺光雄

1981年10月

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

河北はとらえた 

  通信が途絶したために、大震災に見舞われた首都の様子を他の地域から知ることは難しかった。ほぼ正確な第一報を放ったのは、河北新報であった。

 鉄道担当記者が、国鉄の鉄道電話による連絡に着目したのである。ほとんどの国の鉄道と軍隊は、一般の電話網とは別に独自の有線あるいは無線の連絡網を持っている。いったん急あるときに備えるためである。

 『関東大震災』のなかで、著者の吉村昭も河北の報道について特筆している。

 

   仙台の河北新報は、仙台鉄道局の鉄道電話によっていち早く正確な情報をとらえた。

   同社は、9月1日午後1時、仙台鉄道局に大火災発生の第一報が入ったのを察知し、1ページ大の号外を発行し、東 北六県の通信網を通じて各県に特報を出した。そして、9月2日の夕刊には「東京横浜殆ど全滅」の見出しでその惨状を克明に報じた。

  『河北新報の百年』は、「関東大震災の報道で独走」の誇らしい見出しで、震災1周年の回顧記事などをもとに、そのときを描いている。

    この地震は仙台でもかなり強く感じられた。同時に、東京との電話は不通になり、辛うじて鉄道電話だけがつながっていた。それによって、常磐線土浦付近の列車脱線転覆の第一報が入った。1日発行の2日付夕刊と朝刊は、東北大学理学部の地震計の針がとぶほとの大地震だったことと、この列車事故のもようを伝えるにとどまった。大災害らしいとの予想はついたものの、その時は知る手段がない。本社は仙台鉄道局の特別の許可をもらって、電話室に速記者を張り付け、情報を求めた。

   鉄道担当記者からの連絡は「万世橋駅は、すでに猛火に包まれ、付近一帯火は止め度もなく狂い回る」「東京駅危うし」などだった。「全員は愕然として驚いた。ともあれ、号外、二報、三報と続く魂消る報告を活字にして、号外を発行した。これがその日の12時(2日午前零時)近くであった」(回顧記事)この号外によって初めて、震災の概略が読者にもたらされた。

   また、仙台市内各官庁への電報など各方面からの情報を総合して、生々しい状況がまとまって伝えられるのは、2日発行の3日付夕刊と、3日付朝刊からである。

   トップは「昨日の地震の惨害 東京横浜殆ど全滅 下町各区既に全焼 東京駅猛火に包まる 横須賀も全滅す」や、「未曾有の大惨害 東京全市焦土と化す 大廈高楼続いて倒壊消失し 各所に死者の山を築く」など、四段、五段見出し。大きな活字が目立つ紙面は、記事ごとに「宇都宮電話」「宇都宮経由東京電話」「新潟経由東京電話」「新潟経由長野電報」などことわり書きがあり、苦労がしのばれる。

  福島県磐城市(現在のいわき市)にあった、磐城無線電信局が、河北新報の報道を世界に伝えたことも記している。

    震災を海外に知らせたのは、磐城無線電信局だった。横浜港にあった船舶の電報を傍受して米国に第一報を送り、6日間送信を続けた。当時の無線局長米村嘉一郎は「あのころ富岡地方には河北新報しか配達されず、その記事を翻訳して送信した」(昭和31年5月11日付本紙)という。

 ――

参考文献

 吉村昭

関東大震災  文春文庫 2004年8月

 

 河北新報の百年

河北新報社

1997年9月

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「新聞が印刷できないなら、壁新聞はどうだろうか」

  宮城県石巻市にある地域紙の石巻日日(ひび)新聞社長の近江弘一は、報道部長の武内宏之に問いかける。

  「やりましょう」

  日日は、部数約1万4000部の夕刊紙である。

  2011年3月11日、巨大津波によって、印刷機能を失った。震災の夜は深まって、近江は翌日の新聞を手書きで発行することを決めたのである。

  仙台市に本拠を置く河北(かほく)新報社長の一力雅彦は、編集幹部を集めてこういった。

  「河北は地域のひとたちに支えられてやってきた。地域のひとに恩返しをするために、新聞を出し続けよう」

  編集局長の太田巌も、編集部長の武田真一も、翌日の朝刊をなんとしても発行するつもりだった。

  仙台市北部にある最新鋭の印刷工場は、稼動が可能だった。しかしながら、本社にある編集機能を持つサーバーが立ち上がらなかった。

  災害時に相互に編集と印刷を助け合う協定を結んでいた、新潟日報で紙面を制作することになった。

  ふたつの新聞社の物語は、それぞれが別のドキュメンタリー・ドラマになった。日本テレビは、「3.11 その日、石巻で何が起きたのか~6枚の壁新聞~」、テレビ東京は、「明日をあきらめない…がれきの中の新聞社~河北新報のいちばん長い日~」。大震災の1周年の前後に相次いで放映された。

  ドラマの登場人物が話す地名は、筆者の記憶を呼び起こす。思い出す風景には、父母や弟や友人たちの懐かしい顔が浮かび上がる。

  気仙沼、雄勝、志津川、万石浦、荒浜……

  そして、筆者は、新聞記者として、社会人の第一歩を踏み出した。出発地は九州の小さな支局勤務。日日や河北の記者と同じ「地方記者」だった。

  「日日新聞の水沼ですけれど、ちょっと写真を撮らせてもらっていいでしょうか」

  記者の水沼幸三は、避難所になった学校の教室のドアをそっとあけて、声をかける。毛布にくるまって横になるひとが、床を埋め尽くしている。

  震災の翌朝、仙台から気仙沼に夜を徹して、同僚とたどり着いた記者の丹野綾子が目撃したものは――

  幼稚園の名札を胸につけた、こどもの遺体を抱く父親。死を認めがたい父親は、丹野が乗ってきた乗用車に同乗して、避難所の医師に診断を迫る。

  がれきに埋もれて足先だけがのぞいた遺体。安置するところへ移そうとする丹野に向かって、消防団員が声をあららげる。「このままにしておけ。生存者を探すことのほうが大事なんだ」。

  日日の壁新聞の締め切りは、迫っていた。社長の近江は、停電の町では夕暮れまで読めることが必要だと判断した。掲示する場所は、避難所4カ所とコンビニ2カ所に決めた。計6枚の新聞である。

  編集部長の武田が読み上げる原稿を、近江が新聞用紙を切り裂いて作った壁新聞に書いていく。

  「武田さん、そんなに入らないよ。まず、大きな災害が発生したことを載せよう」

  手書きの壁新聞に大きな横見出しで「日本最大級の地震・大津波」、そして、左側に寄せて、これも大きな字が躍っている。

  「正確な情報で行動を!」

  河北の三陸町にある志津川支局は津波で跡形もなく流された。駐在している記者の渡辺龍は、本社に幾度も連絡を取ろうとしたが、通信は不通だった。震災後の朝刊の締め切りが迫っていた午後7時ごろ、奇跡のようにつながった。渡辺は見たまま、聞いたままを、撮影したデジタルカメラの写真をみながら、電話に出た記者に口伝えのように、書き取らせた。

  朝刊の社会面トップに、渡辺署名のルポルタージュが載った。

  「大津波 街消えた」。

  気仙沼の取材に動き回った、河北の丹野は取材拠点の総局のビルにたどりつく。階段を上がって、総局長の菊池道治を探す。菊池はデスクに向かって、紙に原稿を書いていた。

  「俺は新聞記者失格だ。うかつに外に出て、津波に飲まれた。携帯もカメラも失った」

  手書きの原稿は、丹野によって本社に運ばれ、翌日の社会面に載った。

  「『支え合い』。現実感の乏しい地獄絵の世界で頼れるのは、そこに確かにいる身近な人だけだ」と。

  菊池は、フェンスによじ登り、柱にしがみついて生き残った。老夫婦に着替えをもらい、おにぎりをもらった。

  日日の編集部門の現場を取り仕切るデスクの平井美智子は、取材のつかの間に避難所の父母を訪ねる。ひとつの毛布にくるまって、母と語り合う。壁新聞の発行を賞賛する母にこう答える。

  「情報が光だったんだ」

  放映からかなり時間が経つドラマを取り上げることに、読者が不思議がられるのは当然だろう。

  ふたつのドラマは、録画のままハードディスクに眠っていたのである。

  日日と河北の記者のような過酷な取材の経験はない。ただ、水害地で孤立した避難所まで、肩まで水につかりながらたどり着いたことはある。事件や事故で亡くなった遺体と取りすがる遺族を取材したことはある。

  震災地の記者たちのつらさを思うとき、これまで「再生」できなかったのである。

  日本テレビとテレビ東京に、再放送をお願いしたい。もっと多くのひとに観ていただきたい。(敬称略)

 

WEDGE Infinity 田部康喜のTV読本

http://wedge.ismedia.jp/category/tv

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「津波は内陸深くまで流れ込みます。早く逃げること……」

  NHKの夜のニュース番組、「ニュース7」のキャスターである武田真一アナウンサーが、緊張した高い調子で訴える。

  これまでにはない命令調の津波情報である。

  放送記念日の3月22日、NHKスペシャルは「NHKと東日本大震災」の特集番組によって、大震災から1年の自らの放送を振り返った。

  番組冒頭の武田アナウンサーの緊張した放送は、災害報道の実験の模擬放送だった。どうして、このような調子のアナウンスになったのか。その謎解きをするようにして、映像は進行する。

  巨大津波による犠牲者をどうして放送は、もっと救えなかったのか。放送人の痛恨の感情が番組を作らせた。

  2011年3月11日午後2時46分、大震災が発生したときに、ニュース責任者だったテレビニュース部の等々力健はいう。

  「マニュアルもあった。事前準備もしていた。しかし、マニュアルも事前準備も超えた事態が起きるとは思っていなかった」

  巨大地震の発生に直面した等々力は終始、アナウンサーに何度でも避難を呼びかけろ、と指示をだした。

  震災当日のテレビとラジオの放送を時系列で流しながら、番組は震災地の人々が放送にどのように刻々と対応していったかを描いていく。

  宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区は、停電によって防災無線が断絶し、テレビも視聴が困難になった。住民はテレビの情報をそのまま伝えるラジオに聞き入った。

  午後2時54分、岩手県大船渡で津波の高さは20cmと伝えられた。その後、宮城県石巻市の50cm、そして、午後3時3分、東京・お台場の方向で高く上がる火災と推定される煙にテレビの中継画面は切り替わる。

  閖上の住民に緊張感はなかった。「津波の高さの予測は6mといっているが、いつものように空振りに終わると思った」と振り返る。

  午後3時14分、岩手県釜石の港のロボットカメラが捕らえた映像から、東京のスタジオの緊張は一気に高まる。津波が防波堤を超えて、車を押し流し始めた。

  大津波警報と津波警報が太平洋岸の各地に出される放送が続いた。午後3時32分、宮城県の津波予想が10mを超えたことが流されたのは、気象庁からの情報が入ってから18分以上が経っていた。テレビの音声をそのまま流していたラジオが、この直後からアナウンサーがブースに入り、独自に避難を呼びかけるアナウンスを繰り返した。

 午後3時54分、世界に津波が同時中継されたあの映像が飛び込む。仙台空港を飛び立ったヘリコプターに搭乗したカメラマンが津波をとらえた。名取川をさかのぼるようにして、真っ黒な津波が仙台平野を飲み込んでいく。

  宮城、福島、岩手の3県の住民を対象としたアンケートによると、震災当日の津波についての放送によって、「すぐに逃げよう」と考えたひとは全体の43%に過ぎない。まだ余裕があると思ったひとが41%、津波がくるとは思わなかったひとが14%で、合わせて55%のひとは、すぐに逃げようとは思わなかったのである。

  NHKスペシャルの番組では直接的には紹介されなかったが、放送のあり方を考えようという取り組みのなかに、NHK放送文化研究所による震災地の膨大なフィールドワークがあった。

  放送文化研究所の機関誌である「放送研究と調査」2012年3月号は、「命令調を使った津波避難の呼びかけ」と題した論文を掲げる。2011年9月号は、「大洗町はなぜ『避難せよ』と呼びかけたのか」の論文である。

  茨城県大洗町は水戸市の東隣に位置する、人口約1万8,000人の漁業と海水浴で知られる町である。町を4mの津波が襲ったが、津波による死者はゼロだった。避難した人の数は一時、約3,400人に及んだ。

  「緊急避難命令、緊急避難命令・・・・」。町長の指示によって、防災無線に流れた命令調の指示が住民たちを助けた。「避難指示」が防災法上の言葉である。

  さらに、「高台に避難せよ、高台に避難せよ・・・・」と。

  住民たちを避難に駆り立てたのは、地区を名指した具体的な指示だった。「明神町から大貫角一の中通りから下の方は大至急避難してください」

  2012年3月号が紹介する、宮城県女川町の防災無線の事例はこうだ。無線放送をしている町役場を津波が襲った。

  「大津波が押し寄せています。至急高台に避難してください」

  津波はついに、3階建ての2階部分まで水没させた。その瞬間、無線の担当者は叫んだ。

  「逃げろー!高台に逃げろー!」

  NHKは2011年10月から、津波についての情報を伝える呼びかけを変えることにした。端的に強い危機を伝える、という基本的な方向性である。

  NHKスペシャルの武田アナウンサーの模擬放送は、その実践である。

  テレビの音声を流していたラジオが独自のアナウンスを始めたとき、そのブースに飛び込んだアナウンサーは、かつて「おはよう日本」のキャスターを手がけた伊藤博英である。エグゼクティブ・アナウンサーの地位から初めて、4月から地方局に転勤になる。行き先は初任地の福島放送局である。震災報道の強化の一環だ、と伝え聞く。

  筆者の余話である。伊藤と筆者は、震災地の仙台の高校同級である。

  友の「栄転」を喜ぶ。(敬称略)

 

WEDGE Infinity 田部康喜のTV読本

http://wedge.ismedia.jp/category/tv

 

このエントリーをはてなブックマークに追加