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読売、追い込まれる

   関西での成功を土台とした資本力で、大震災後に東京を本格的に攻める東京朝日と東京日日は、在京の新聞に戦いを挑むことになる。

 新聞販売店は当時、東京市内は1紙だけを扱う専売店だったが、地方は複数の新聞を扱う「諸紙屋」と呼ばれた。東京の新聞社が大震災の影響で発行が困難になると、東京朝日と東京日日はこうした地方の販売店に対して攻勢をかけた。両紙は震災前22、3万部の発行部数だったのが、震災後2年目には60万から70万部に達する勢いとなった。

  『読売新聞百二十年史』は、両紙の販売戦略について俯瞰的な視点を保っている。大震災によって本社を失い、壊滅的な打撃を受けた読売は、こうした競争の埒外にあった。

    1923(大正12)年8月19日、本社は46年ぶりに銀座1丁目を離れて、京橋区西紺屋町(現在の中央区銀座3丁目、デパートの「銀座プランタン」が建っている)に、新社屋を移転した。

   (大震災によって)社屋そのものは倒壊しなかったので、社員は社屋に踏みとどまり、激しい余震の最中にガリ版すりの号外を数回にわたって発行、特報ビラを市内の主な場所に張り出すなど奮闘した。

  その夜、松山(忠二郎社長)が前途に望みを託して完成させた新社屋は、落成披露を目前に天井と外壁を残して、ついに見るも無残に焼け落ちてしまったのである。

   大震災による新聞界の被害は甚大だった。東京17紙のうち社屋焼失を免れたのは、東京日日、報知、都の3社だけで、これらは比較的早く平常通りの新聞発行をすることが出来た。東京朝日も被災したとはいえ、大阪朝日の応援でいち早く復旧に取りかかることが出来た。しかし本社をはじめ東京系新聞社の復興は大きく遅れ、経営は窮迫した。

   なかでも新社屋焼失という悲運に見舞われた本社の打撃は大きく、その後部数は半減して5万部台を低迷する。24年(大正13)年2月、松山はついに社長の地位を退くことを決意した。

   大震災後は、資本力のある朝日、毎日の関西系二大紙がめきめき勢力を伸ばして、寡占体制を築いて行った。

 

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東朝の攻勢

  東京朝日が大火に見舞われた社屋を修復して、帝国ホテルの仮事務所を引き上げたのは、10月14日だった。そして、震災前の朝刊8頁、夕刊4頁の紙面に復帰したのは12月1日だった。

 東京朝日は、震災翌年1月15日、復興記念の福引をつけた部数の拡張の結果、純増が13万4130部と発表した。東京日日が震災の年の年末に同様の拡張方法によって、純増は8万4030部であった。東京朝日と東京日日が激しい販売合戦をしていたことがわかる。

 もとより、東京朝日は、大阪朝日の系列であり、東京日日と並んで「西風が東風を圧する」動きが急であった。東京朝日は、1924年(大正13)年4月に発行部数が41万212部となった。

 ただ、これでも、当時の東京を拠点する新聞の部数の順位は、報知、時事、国民、東京日日、東京朝日の順であった。

『朝日新聞社史』は、大震災と新聞の業界地図の変化について、展望してみせる。

  この大震災が大きな原因となって時事、やまと、国民、万朝報、中央など、伝統ある新聞がやがて消えていき、かわって、大毎、大朝につながる東日、東朝が延び、毎日、朝日両紙の全国制覇の途がひらかれていった。読売も松山社長が退き、「虎の門事件」(昭和天皇となる摂政が銃撃された事件)の責任を負って警視庁警務部長を辞していた正力松太郎と交代し、再建への第一歩を踏み出した。関東大震災は、新聞界に多大な影響を与えた、日本新聞史上の大事件でもあった。

 

 

 

 

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 東日に「案内公告」殺到

東京の新聞が壊滅的な打撃を受けて、正常な発行ができないなかで、東京日日が休刊しなかったことによって、いわゆる「案内広告」の注文が殺到する事態となった。「尋ね人」や無事でいることを知らせる短行の広告である。

 広告関係では「尋ね人」「避難通知」などの案内原稿が、無休刊の東日に殺到、14、15、16の3日間は増ページしたくらいであった。その案内広告を読むために東日を求める読者さえできて、震災を契機として東日の発行部数のぶりは、吉武(鶴次郎)理事の言葉によれば「まるで落ちているものを拾って歩く」ようであった。

 東京日日の発行部数は、大震災の年が明けた1924(大正13)年元旦付が、70万9811部であった。前年は、37万3997部であったから、約90%増、倍増といってもよい急成長ぶりであった。

 

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「大杉事件」封殺されたスクープ 下

 関東大震災の直後の流言が飛び交う騒然としたなかで、社会主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝、その甥で6歳だった橘宗一を、陸軍憲兵大尉の甘粕正彦とその部下が虐殺した事件が起きた。「大杉事件」である。事件が起きたのは、9月16日だった。大杉を監視していた警視庁は、憲兵隊が連行した後、消息を絶ったことに不信感を抱いて、陸軍省に問い合わせたが、軍は事実を隠蔽しようとしていた。

  大震災の混乱のなかでも懸命に取材にあたっていた新聞社のなかで、時事新報社と読売新聞の記者は、事件を突き止めた。両紙は、9月20日付の夕刊で報道することを決めた。しかしながら、警視庁がこの号外を差し押さえた。封殺されたスクープとなったのである。

      警視庁から報告を受けた陸軍省は、報道機関に察知されたことに狼狽し、これ以上事実を隠すことは不可能と判断した。そしてまず9月20日に関東戒厳令司令官福田雅太郎大将を更迭して山梨半造大将を着任させ、憲兵司令官小泉六一少将、東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐を停職処分として甘粕憲兵大尉とその部下を軍法会議に付すことに決定した。

   と同時に、一般民衆の反応を恐れて新聞報道を厳しく抑圧する必要を感じ、内務省警保局に依頼して、

   「憲兵司令官及び憲兵隊長の停職並びに甘粕大尉の軍法会議に付せられたる事件の記事差止め

    社会主義者の行衛不明其の他之に類する一切の記事掲載差止め」

   という通牒を発令させた。

 

 「大杉事件」のスクープが封印される、その前提は政府によって整えられていたのであった。内務省は、9月16日に新聞、雑誌の記事を漏れなく検閲する命令を出した。この命令の背景として、朝鮮人の暴動の流言を新聞が伝え、自警団の団員らが殺傷を繰り返したことがあった、と吉村は指摘している。「報道の自由を失った」と吉村は冷徹に分析している。

 

   大地震発生後新聞報道は、たしかに重大な過失をおかした。その朝鮮人襲来に関する記事は、庶民を恐怖におとしいれ、多くの虐殺事件の発生もうながした。その結果、記事原稿の検閲も受けなければならなくなったのだ。

   しかし、それは同時に新聞の最大の存在意義である報道の自由を失うことにもつながった。記事原稿は、治安維持を乱す恐れのあるものを発表禁止にするという条項によって、内務省の手で徹底的な発禁と削除を受けた。

   政府機関は、一つの有力な武器をにぎったも同然であった。政府の好ましくないと思われる事実を、記事検閲によって隠蔽することも可能になったのだ。

 ――

 

参考文献

 

朝日新聞社史 大正・昭和戦前編

朝日新聞社

1991年10月

 

別冊新聞研究 No.5

石井光次郎

1977年10月

 

吉村昭

関東大震災  文春文庫 2004年8月

 

 

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「大杉事件」封殺されたスクープ 上

 新聞社の情報収集の手段である通信網は、大震災によって、壊滅的な打撃を受けた。

 『関東大震災』のなかで、吉村昭は、流言が飛び交った大きな背景として、通信崩壊のさまを描いている。

   電話も東京市内の電話局20局のうち焼失14、大破2で4局のみが残されていたが、これらも機械、電池等が破損して使用不能におちいっていた。それに、電話の地下線路も徹底的に寸断され、電柱の焼失、転倒等約6万本にも及んで、その機能は完全に失われた。

   横浜市でも交換局は全滅し、加入者の電話機の90パーセントが焼失し、その復旧は絶望的であった。

   通信機関の杜絶は、すべての連絡を不可能にした。警察、官庁も情報の入手方法を断たれて、指令を受けることも報告することも出来ず右往左往するばかりであった。そして、庶民は、人の動きにつれて路上を彷徨するのみであった。かれらは、何も知ることは出来なかった。かれらが知っているのは、大地震の起こったこととそれにつづく大火災によって眼にふれる範囲内の地域が死の世界と化し、しかも自分の生命も保持できる保証がないということだけであった。

   通信は断絶し、直後から流言が飛び交った。皇居前広場に避難した、東京朝日の経理部長の石井光次郎の証言を続ける。警視庁の元同僚であった正力松太郎のところに部下を派遣し、食糧の調達を指示すると同時に、石井は震災に関する情報を聞いてこい、と命じたのであった。

    (部下は)朝鮮人騒ぎが起こった話を聞いて来た。「どうも怪しいから用心してくれ。何かあったら知らせてくれ」と正力君がいったという。あそこが(朝鮮人に関する流言の)火元です。そのとき「そんなことはあり得ない」とそこにおった下村(海南専務)さんが一言のもとに言った。「これは何か計画したものならばあり得ることだが、こんな震災なんか何月何日におこるとだれも予期したものはないのだからその時に暴動おこすなんでだれも計画するわけがない」。と言ってね。そこで「朝日」では、「それはウソです。(取材の)タネをとりに回る時、一緒に「朝鮮人騒ぎはウソです。騒いではいけません」といって回った。これは下村さんの判断です。

  『朝日新聞社史』は、そのときの事情を振り返る。

    震災の状況、朝鮮人暴動のデマ、山本権兵衛新内閣成立など、報道すべきことは山ほどあった。しかし通信と交通機関が途絶した。社員たちは、自分の家や家族の罹災をかえりみるいとまもなく、社屋の防火につとめる一方、新聞発送用のトラックの車体に紙をはり、これにニュースを大書きし、同乗した記者たちがメガホンを使って速報にあたった。

  『関東大震災』は、新聞社が報道に困難になった状況のなかで、震災地の住民がどのような不安定な状態に陥ったかついて、述べている。

    かれらが自分をとり巻く状況を知る唯一の手段は、新聞報道のみであった。かれらは、毎日配達される新聞の活字によって、欧米各国の動きを知り、国内の政治、経済、社会の動向も察知していた。かれらは、新聞の知識から知識を吸収すると同時に、知るということによって精神的な安定も得ていた。

   大地震と大火にさらされた庶民は、自分たちがおかれている立場がどのようなものであるか知りたがった。かれらの中には、被害が自分の身を置く地域のみではなく日本全体に及んでいるのではないかと疑う者もいたし、中には地球全体の震害ではないかと考える者さえいた。

   そのような疑惑に答える有力な手段は、新聞報道であったが、新聞社にはそれに応ずる力は皆無だった。

  ――

参考文献

 

朝日新聞社史 大正・昭和戦前編

朝日新聞社

1991年10月

 

別冊新聞研究 No.5

石井光次郎

1977年10月

 

吉村昭

関東大震災  文春文庫 2004年8月

 

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