宮城県女川町の高台にある町立病院の駐車場から、巨大津波によって消滅した町が眼下に広がる。病院は標高16㍍の位置にある。
天然の良港である女川湾をと囲むようにして、瓦礫が取り除かれた白い町跡がみえる。
9月中旬だというのに、真夏のような陽光が照りつける。
鉄筋コンクリートの4階建てのビルが、土台から地中に打ち込まれていた金属製の杭を横向きにして、まるで倒れたつみきのようにころがっている。
港を望む町立病院を津波は、背後の道路を駆け上るようにして襲ってきた。病院の1階の柱に大人の背丈を超える位置に、赤い線が引かれている。標高と合わせると、高さ18㍍を超えたのである。
東日本大震災による死者・行方不明者の数は、女川町で900人近い。人口に占めるその比率を数値化するのは、あまりにも無残であるが、三陸沿岸の市町村のなかでは最も高い9%近くに達する。2010年の国勢調査による人口は、1万51人。町外に転出した人も多くでて、8月末には8171人になった。
町が消滅した女川の悲劇を報道人として、最初に伝えたのは、三陸河北新報社(本社・石巻市)の佐藤紀生(54)であった。
三陸河北は、東北を代表する新聞のひとつである河北新報社(本社・仙台市)が1980年、石巻地方のニュースの充実を図る目的で設立した子会社である。河北新報の本紙に織り込む形式の地域紙「石巻かほく」を発行している。月曜日付だけが休刊の日刊紙である。
あの日、佐藤は女川町役場で議会を取材していた。巨大津波に襲われて、その屋上に町長と町民ら70人近くと避難したのだった。津波は屋上まであと20㌢まで迫った。
「石巻かほく」の1面トップに掲載された、佐藤のルポルタージュにその瞬間の描写は任せたい。「波間に消える人、家」の白抜き6段見出し、「議場に地鳴り 鳴り響く」そして「現実か 目疑う“地獄”」の脇見出しも。
「地下の駐車場に水が入ってきた。それは序の口にすぎなかった。もう一度海に視線を向けた瞬間、流れてくる2階建て家屋が数軒見えた。水かさもどんどん増していく。あっという間に役場の4階まで水没した」
「死ぬかもしれない。言い知れぬ恐怖が体を貫く。煎餅がわれるようにばらばらに壊れる家。横倒しになった漁船。鉄筋のビルまでが流れてきた。電線がちぎれ火花が飛ぶ。がけは崩れ、大木もろとものみこまれていく。住宅街だったところは一面、茶色の海」
「引き潮が始まった。ものすごい速さだ。車、木、家が役場に激しくぶつかる。そのたびにどしんどしんという震動、きしむ音が聞こえた」
このルポルタージュが掲載された、三陸河北の日付は2011年3月14日(月曜日)である。本来なら休刊日である日に表裏、たった2ページの新聞を発行した。大震災の翌日と翌々日の2日間、休刊しただけだった。
親会社である河北新報は、翌日付の新聞も発行し休刊しなかった。経営者と記者、営業の担当者、販売店を描いた「河北新報のいちばん長い日」(文藝春秋社)はベストセラーとなり、日本テレビが、震災1周年を記念してドラマ化している。
三陸河北の佐藤の物語はこれには綴られていない。津波が去った翌日、町民から借りた自転車に乗って、佐藤は本社がある石巻を目指した。北上川の河口に近い場所に建つ本社ビルも、編集部門があった1階部分が流されていた。
乗用車をヒッチハイクしながら、佐藤は仙台市の親会社に夕方たどり着く。
「仙台がダメだったら、どこでもいい、原稿が書けるところまでたどり着こうと思いました」
小柄でやせぎすの佐藤は柔和に言葉をついで、あの瞬間を振り返る。
河北の本社で、佐藤を迎えた経営陣のひとりが常務の西川善久(64)だった。編集局長など編集畑一筋に歩んできた。10日後の3月22日の株主総会で常務を退任し、三陸河北の社長に就任することが内定していた。
巨大津波が町を消滅させた目撃者として、記事にしたい一心でたどり着いた佐藤はある種の興奮と疲労によって、書くことは難しい、と西川はみてとった。同輩記者が口述筆記するようにして、佐藤のルポは翌日の河北新報に掲載された。
そして、西川は当時の三陸河北の社長と相談して、発行をうながした。三陸河北新報の1面に佐藤のルポが掲載された、3月14日付の紙面である。
石巻地方の地域紙として、ライバル関係にある石巻日日(ひび)新聞が震災後、印刷が困難となり、壁新聞を出したことは、一般にも知られている。手書きの壁新聞は3月12日から17日まで発行された。この新聞は、米国のニュースジャーナリズム博物館に永久展示されている。
石巻出身の俳優である中村雅俊を日日新聞の社長として、テレビ東京がドラマ化している。このなかで、コンビニに壁新聞を貼り出した中村が、隣に貼られた活字の新聞をうらやましそうに見るシーンある。それは「石巻かほく」である。
関東大震災のとき、新聞社はどうしたか。本社が焼け落ちた朝日新聞もまた、手書きの号外を出した。通信社と広告代理店の機能が一体だった当時の電通は、ガリ版刷りの新聞を発行した。これに対して、社屋が被害に遭わなかった毎日新聞の前身である、東京日日は新聞を出し続けた。震災で避難した人が無事を知らせ、あるいは行方不明の人を探す、いわゆる案内広告が同社に殺到した。
新聞を発行し続ける、それは印刷から販売、広告まで、それぞれの機能を生かさなければならない。企業が危機に遭遇した際の「継続性」の問題である。
早稲田大学出版部がブックレットの「『震災後』に考える」シリーズで6月、「ともに生きた 伝えた 地域紙『石巻かほく』の1年」を発刊した。
佐藤をはじめとする地域紙の記者たちの活動にはじめて、光が当てられた。新聞が避難所や被災した家庭に届ける販売店網の復旧のありさまや、震災の取材において、通信が途絶したときにどのような対策をとったのかなど、多角的に論じられている。メディアの研究者の間で、評価が静かに高まっている。
大震災は新聞社の人々の人生も変えた。河北の西川は常務の退任を引き伸ばされて、兼務のまま三陸河北の社長を務めている。地域紙である三陸河北の地元に密着した取材網を生かして、新聞連載を起点とする出版活動に力を入れている。震災の写真集は、石橋湛山賞の最終選考まで残った。巨大津波に襲われながら生存した人々の証言を綴った「津波からの生還 東日本大震災・石巻地方100人の証言」(旬報社)もまた、地味な本にもかかわらず版を重ねている。
津波に洗われた、石巻の本社を改修して、その1階に入居者として迎え入れたのは、ヤフーの「復興支援室」だった。いまのところ、ヤフーと三陸河北が協業するケースはでていないが、ネットメディアと交流がはじまっている。ヤフーは単独で地元の物産のネット販売などを手がけている。
世界的に著名な投資家である、ウォーレン・バフェットが米国内の地方紙を相次いで、買収している。「ハイパーローカル」といわれる対象の小さな新聞社は、63社にものぼっている。米国の新聞社が経営に行きづまって、次々の廃刊するか、ネットメディアへの転身を迫られているなかで、バフェットの投資はひときわ目立つ。
「投資の対象として買収している」と、バフェットは地域情報によって、人々の生活を支える目的の篤志家ではない、といっている。地域に根ざしたハイパーメディアは、十分に利益が出ると踏んでいるのである。
三陸河北新報社は、発行部数が4万部。震災直後は3万2000部まで落ち込んだが、回復基調にある。定価は月額200円。社員36人を抱えて黒字である。
(敬称略)
nikkei BPnet 「メディアラボ――メディア激動の時代を考える」
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