毎日新聞グループホールディングスは6月26日、第1回株主総会を開き、利益処分案などを可決した。傘下に毎日新聞社とスポーツ日本新聞社を収める。
利益処分案では、1株10円の配当が決まった。
毎日新聞社が石油危機の影響などから、経営危機に陥って、再建策として新旧分離方式をとった1977(昭和52年)年12月以来、実に34年ぶりの復配である。
新旧分離による再建策は順調に軌道にのって、85(昭和60)年10月には新旧両社は合併した。復配は再建の最終的な宣言ともいえよう。
毎日新聞の6月27日付朝刊は、株主総会について中ページで小さく扱っている。復配についてはふれていない。
大企業が経営再建を成し遂げて、復配に至るのは、最近の日本航空の例を持ち出すまでもなく至難の業である。
毎日新聞の題字を引き継いで新聞発行をする新社の社長となった、平岡敏男は当時次のように語っている。
「崩壊した新聞社でいまだ再建された例はない。毎日新社は総力をあげ立ち直り、業界の奇跡となろう」
報道機関である毎日新聞が、労使とも感慨深かろう復配について、自ら言挙げしないのはしごくまっとうである。しかしながら、好敵手である新聞社に、敬意の意をそこはかとなく感じさせる記事があってもよかったのではなかったか。
毎日新聞が新旧分離にいたる経営危機については、「『毎日新聞』研究」(汐文社、1977年)など、新聞研究者の間で論議されてきた。毎日新聞自身によって、再建までの内部的な歴史が綴られるのはこれからだろう。日本の新聞業界で初めて1972(昭和47)年に100周年を祝った記録として「毎日新聞百年史」はある。
「新聞販売乱戦時代」に、あのときの毎日の危機はおとずれたのである。ここでは外部的な要因に絞って、かつ「朝日新聞販売100年史(東京編)」(朝日新聞東京本社、1980年)と「読売新聞発展史」(読売新聞社、1987年)など、好敵手の分析を交えて振り返ってみたい。
新聞社の歴史に薀蓄を傾ける気持ちはまったくない。毎日新聞の復配は、新聞業界の人々に乱戦時代の記憶を蘇らせる。わたしが新聞記者となったのは、奇しくも毎日が新旧分離になった直後の1978(昭和53)年であるから、語り部の資格はあると思う。
国会で審議が進んでいる、社会保障と税の一体改革法案の柱となる消費税の引き上げが、新聞販売乱戦時代の再来の恐怖を引き起こしている。毎日の経営危機の物語はいま、過去の歴史ではなく、新聞業界の未来の物語なのである。
ふたつの物語を結び付けるには、いくつかの補助線が必要である。過去の販売乱戦については、のちほど見ていくとして、いまここにある恐怖から始めよう。
朝日新聞の社長(現会長)の秋山耿太郎は5月18日、京都市内のホテルで開かれた販売店を集めた大会で、消費税が引き上げられた時点で、新聞に軽減税制が認められなかった場合、と前提を置いたうえで、次のように挨拶している。(文化通信6月11日号)
「読売新聞と激しい駆け引きになるだろう」と。
消費税の引き上げ分を、新聞の定価に上乗せするのか、あるいは、上乗せしないで新聞社の負担にするのか。その過程で、朝日新聞と読売新聞の間でつばぜり合いが起きる可能性がある、という認識を表明しているのである。
消費税の改定によって、激しい販売競争が始まる。新聞業界が共通して抱いている恐怖である。それは、販売力で優位に立つ読売が、消費税引き上げ分を飲んでしまうのではないか、という不安である。
日本新聞協会長の座にいま、秋山は就いている。その就任にあたっては、読売新聞グループ本社の社長である白石興二郎が、協会の販売正常化委員長、つまり乱売を避ける調整をする責任者になってもらうことを要請した、と伝えられている。
その委員長を引き受けた、白石はどのように考えているのか。インタビューに応じて、次のように語っている。(文化通信5月1日号)
「正常化については、朝日と読売が中心となって推進する必要があります。……当然ながら、協会長を支える役割をしなければいけないわけです」
ふたりの発言を重ね合わせると、虚々実々、嵐の前の静けさといっては言いすぎだろうか。
新聞協会が例年秋に開催している、加盟社を集めた新聞大会は、テーマを取り上げて会長ら座談会をするのが恒例である。協会の理事会は7月18日、今年のテーマを「消費税」と決めた。東日本大震災がテーマだった昨年とは、まったく様変わりである。
時計の針を1970年代の新聞販売乱戦時代に戻したい。
1974(昭和49)年7月の新聞代の引き上げは、朝日、毎日、読売が朝夕刊セットで月額1100円から1700円に引き上げた。日経は1800円。しかしながら、東京新聞は900円で据え置いた。価格改定直前の6月と翌月の東京管内の部数を比較すると、朝日は約3万8000部、読売は約6万7000部、毎日は約5万9000部減少した。減少率では毎日が2.8%と大幅だった。これに対して、東京は約11万3000部増やした。
毎日に限ってみると、1年後の1975(昭和50)年7月、部数の減少は約21万8000部にも達した。東京は約40万部も増やした。
そして、1976(昭和51)年3月、読売は社告で1年間の価格据え置きを宣言する。その1年後の1977(昭和52)年2月にも「なお当分の間据え置く」としたのである。
1978(昭和53)年3月、朝日はセット料金を2000円に値上げする。毎日は直前まで追随を検討していたが、断念する。サンケイは据え置いた。「朝日の単独値上げ」といわれる出来事であった。
この年1月の部数と翌年1月における、各紙の東京管内の部数を比較すると、ともに増やしているが、その幅に大きな差がついた。
読売は約30万9000部、朝日は単独値上げにもかかわらず健闘したとはいえ約8万部、サンケイが約5万7000部、毎日は約1万部と水をあけられた。
この販売乱戦時代が振り返ってみれば、いまの新聞業界の地図を生成したのである。日本一の部数を誇る新聞の座は、朝日から読売に代わった瞬間だった。
1975(昭和50)年1月に東京で開かれた朝日新聞の販売店の大会は、「業界未踏の700万部突破」の記念すべき催しだった。
それが、乱戦時代を通過した1979(昭和54)年元旦の両紙の部数はどうか。読売の847万6802部に対して、朝日は782万4714部であった。その後、読売は1000万部に向けて駆け上っていく。
ちなみに、2011年度下期の平均部数を付記しておきたい。
読売 995万5031
朝日 771万3284
毎日 342万1579
日経 301万0558
産経 160万7577
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、という。
新聞業界の賢者となるのは、どの新聞社であろうか。
(敬称略)
nikkei BPnet 「メディアラボ――メディア激動の時代を考える」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120406/304866/?ST=business