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新聞社のガバナンスのゆくえ

2012年10月12日

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 1937(昭和12)年5月21日午後零時26分、激しい雨のなかを朝日新聞の社機、神風号は大阪・城東練兵場に着陸した。ふたりの少女が機体から降りた操縦士の飯沼正明と、機関士の塚越賢爾に花束を渡した。朝日新聞創業者の故村山龍平の娘婿で当時会長だった、長挙の長女美知子と次女の富美子である。朝日は大阪発祥である。関西の商家風に呼べば、美知子が「いとはん」、富美子が「こいさん」である。 創業者の龍平には一人娘の藤子がいた。姉妹の母、村山家の「ごりょんさん」である。

 東京―ロンドン間の1,537キロの長距離を51時間19分23秒という当時の世界記録を達成した、神風号の凱旋であった。

  神風号を題材にした深田祐介のノンフィクション「美貌なれ昭和」(文春文庫)は、英国人を母に持つ美男の飛行士である飯沼と、いとはん、美知子が結婚するはずだったという、当時朝日社内でささやかれたエピソードを綴っている。

  飯沼は上海で知り合った当時花形の職業だったダンサーと結婚し、太平洋戦争に従軍中に亡くなる。そして、いとはんは当時、関西の伝統のままに、養子を迎える話もあったと、深田が紹介しているが、独身のまま、いまも三代目の社主として、90歳を超えて健在である。

  関西の名門村山家には、谷崎潤一郎の「細雪」や、山崎豊子の「ぼんち」の女主人公たちを思わせる美しく、どこかはかなさをともなったドラマがあるようにみえる。

 しかしながら、いったん社主一族が、新聞社の株式を持った資本家である顔みせるとき、それは一転して、非情なドラマを生むのである。

  朝日新聞社の2012年3月期の有価証券報告書(有報)をみる。大株主の上位は次の通りだ。

  朝日新聞従業員持ち株会    17.39%

 テレビ朝日          11.88%

 村山美知子          11.02%

 上野尚一           11.02%

 香雪美術館          10.00%

 村山恭平           5.00%

 村山富美子          3.57%

 凸版印刷           3.13%

 上野克二           2.44%

 朝日放送           2.3%

  テレビ朝日系列という視点からみると、大阪の準キー局である朝日放送のほかに、九州朝日放送が0.72%、北海道テレビ放送が0・09%、名古屋テレビ放送は非公開だが、0.2%程度を保有している。

 テレ朝グループは、従業員持ち株会を除けば、圧倒的な大株主である。

  朝日新聞社の側からテレビ朝日をみればどうか。上場企業であるテレ朝の24.7%の株式を握って、筆頭株主ではあるが、資本政策など重要な総会議案である特別決議を提案あるいは、否決に追い込む3分の1は有していない。

  テレビ朝日は2008年6月、村山美知子が所有する朝新聞の株総数の11.88%に相当する38万株を総額239億4000万円で購入した。この直前までテレ朝は、朝日新聞の子会社であったが、親会社が子会社の支配的関係を保ったまま、その子会社が親会社の株主総会で議決権を行使することは商法上できない。

 そのために朝日新聞社は、テレ朝の株式を売却し、25%以下の株主になったのである。上場企業のテレ朝から、資本の論理でみれば、朝日新聞社は設立時の親会社ではあるかもしれないが、いまや大株主にすぎないともいえる。

  朝日新聞社は6月26日、発祥の地である大阪のホテルで株主総会を開き、2012年3月期の利益処分案などを可決した。期末配当は55円、中間配当の25円と合わせると80円となり、前期より30円の増配である。テレビ朝日が新聞社の株式を取得した翌年の2009年3月期に70円から60円に減配し、さらに翌年には50円に減配して以来、久しぶりの増配である。

 新聞社株を取得した、上場企業のテレ朝にとっては、投資の成果が出たという理由付けになるから、慶賀すべきことだろう。

  朝日新聞社のこの期の単体決算をみると、売上高は7期連続の減収で、経常利益と営業利益はそろって、減益である。最終利益が大幅な増益になった理由は、従業員の厚生年金の代行を返上したことによる特別利益が354億4100万円あったからである。

 朝日新聞社は非上場企業とはいえ、有報を財務局に届け出る大企業であり、上場企業と同様に、事業の利益の増大が指標になるのが一般的であろう。

  日本のメディアはいま、デジタル情報革命の進展のなかで、新聞や雑誌、テレビといった既存の枠を超えたメディア・コングロマリッドの可能性を探る時代にさしかかっている。まさにそのとき、メディアの中核を担ってきた新聞社は、メディア・コングロマリッド(複合体)の再編成できるかどうか、という瀬戸際にさしかかっている。

  朝日新聞―テレビ朝日連合には、社主である、資本家としての、いとはんの物語が絡み合って、新聞社が主導するメディア・コングロマリッドの将来の堅固な形がみえにくくなっているではないか、と考えるがどうだろうか。

  テレビ朝日系列の社長は、本体がすでにプロパーとなり、朝日放送はプロパーによって代を重ね、北海道テレビも今期で新聞社出身者が退いた。グループ内で基幹となる「5地区」といわれる東京、大阪、札幌がテレビ出身者となり、残るは名古屋朝日と福岡の九州朝日である。

 テレビ朝日の今期の株主総会で、新聞社の常務出身の専務がたった1年任期を務めただけで退任した。次期社長候補といわれた人物であったが、顧問就任や関連会社の役員就任などの要請を断ってテレ朝を去った。朝日新聞の役員経験者としては、異例の人事である。

  村山家のいとはんの物語の前巻には、母親であるごりょんさんの藤子の物語がある。婿の長挙が社長を辞任した1964(昭和39)年から、村山家と経営陣が株主総会など場で、経営権をめぐって争った「朝日新聞騒動」の歴史である。終戦直後まで編集局長を務めのち政治評論家となった、細川隆元は「朝日新聞外史」(1965年、秋田書店)のなかで、次のように述べる。

  「会社の経営権争奪という意味では、世間にままあるお家騒動と本質的に同じである。ただ朝日の場合、一般の営利会社や事業団体と違う点は、今日の朝日新聞は日本を代表する新聞であり、天下の公器であるという点だ。朝日新聞は、株式会社朝日新聞社が製造販売している単なる一商品ではないというところに、この朝日騒動の社会的意義の重大さがある」と。

 この騒動を収拾した元代表取締役専務で、政界に転じて衆議院議長となる石井光次郎は、1974(昭和49)年10月、日本新聞協会の聞き取りに応じて、騒動を振り返るとともに、次のように語っている(別冊・新聞研究NO.5、1977年)。

  「総じて新聞というものが格好ついてきたんですね。昔は新聞というものは特殊なもので、差別扱いされていた……現在は逆に特色がほとんどない。均一化されている、だから面白くない。私は新聞をやむをえず幾つもとっていますが、一つ読めばたくさんだ。昔は15紙あれば、15種類のニュースがあった。

 もれなく網羅されているのが面白くない。新聞人も面白くなくなった。昔の新聞人は面白いひとがおったものですが……、サラリーマンになってしまったんですね」

 (敬称略)

  nikkei BPnet    「メディアラボ――メディア激動の時代を考える」

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120406/304866/?ST=business

 

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