朝日「従軍慰安婦」検証記事の批判の死角
言論機関としてのプロトコルの忘却の果て
Daily Daimond寄稿(9月12日)。週刊ダイヤモンドの購読者向けのサイトです。
朝日新聞が「従軍慰安婦」の報道について検証した記事に対する、批判の声が鳴りやまない。読売と産経が、検証記事の「検証」シリーズを始め、月刊誌や週刊誌も追求の矛先を収めない。
メディアが相互批判することは健全である――慰安婦を強制的に刈り集めたとする、偽の証言に関する報道を30年以上にわたって、なぜ訂正しなかったのか。慰安婦と挺身隊と混同した初期の報道について、正確な検証が行われていない。
ここでは、朝日新聞がこれほどまでの批判にさらされる深層に、言論機関としてのプロトコル(手順や手続き)を忘却しているのではないか、という視点からみていきたい。
まず、社説つまり論説と、専門家や一般読者の意見をどのように紙面化するかである。世界の有力紙・誌は、エディターの意見に対抗する逆側の面に、読者からの投書面や反対意見を掲載するのが歴史的に到達した地点である。
読者の無意識下にあるが、新聞製作上は奇数面が偶数面よりもより重要なニュースを掲載する。1面であり3面であり、社会面も左側の奇数面が重要である。
朝日の論説は中ページの奇数面に置かれた時代が長く、2面から再び中ページに移ったこともあった。そして3面に移り、いまでは中ページの偶数面に掲載されている。しかも、社説は読者の投稿に囲まれるようにして存在する。
対抗面は、識者のインタビューによる政策提言や軽い話題ものが大きく掲載されている。
社論すなわち論説を掲げて世に問う気概が弱く、かつ識者や読者の反対意見を対抗面で堂々と受けて立つ姿勢もはっきりとみえない。
そもそも、検証記事については、それに対する識者の意見がいくつか掲載されているが、反対論は現代史家の泰郁彦氏のみであった。
「従軍慰安婦問題」について、過去にこうした社論と反対意見を十分に闘わせる、有力紙では常識であるプロトコルに従っていれば、日本を国際的な批判にさらす道に、朝日が結果として誘うことは若干でも是正されたかもしれない。
それは、朝日の言説に対する反対意見の尊重を意味する。朝日が1970年代末に、販売部数が700万部を達成して、「世界一の部数」を誇ったのも束の間で、読売に抜かれたものの800万部に至る80年代は、相対的に反対意見に対して寛容であり、紙面に取り上げていったものである。
夕刊のシリーズ「わたしの言い分」は、ニュースになりにくい少数意見をインタビューの形で紹介していった。それは「言いたい・聞きたい」シリーズに引き継がれた。
連合赤軍事件の永田洋子死刑囚の執行に反対する、瀬戸内寂聴氏のインタビュー、違法な「どぶろく」づくりを止めないことを宣言する裁判の被告のインタビューなどに、幅広い言論の場を作ろうという言論機関の意思である。
系列の週刊誌に相対的な言論の自由の場を許して、新聞と相まって、朝日の言論機関としての幅広さを印象づけていたように思う。
右翼も左翼も取り上げる、朝日ジャーナルが20年余り前に休刊となり、週刊朝日も80年代には当時としては異例の北朝鮮に帰還した人々の苦闘について、紹介したりしていた。
言論機関としてのプロトコルから考える、朝日の第二の蹉跌は「主筆」の不在である。主筆とは朝日の規定によると、「主筆は記事、論説を総覧し紙面の声価を高める」とする。
つまり、論説部門と編集部門を束ねるトップの位置にある。社長を兼務した広岡知男氏以来久しぶりに、2007年に復活して船橋洋一氏、若宮敬文氏と続いて、若宮氏の退任の2013年初め以来不在である。
「従軍慰安婦問題」の検証記事においては、本来であれば、論説と編集の上に立つ主筆が堂々たる論陣を張るべきであったと考える。経営層の論文の切っ先は鋭くはなく、あいまいな表現に終始している印象を否めない。
ふたつのプロトコルの忘却による言論機関としての機能不全は、検証記事に対する反論(8月28日付朝刊、3面)として現れる。「慰安婦問題 核心は変わらず」と題して、河野一郎・元官房長官の談話が、慰安婦の強制的な狩集の偽証とは関係がないことや、韓国の元慰安婦の証言を重視していることなどが述べられている。
この記事には署名がない。しかも、一般記事が掲載される3面に大きなスペースを割いている。これでは、社論と一般的な報道の境目がなくなる。
言論機関としての基軸が定まっていないことから、朝日は批判の対応にブレが生じて、それがまた傷口を深くしているようにみえる。
ジャーナリストの池上彰氏の連載「新聞ななめ読み」が、慰安婦報道の検証をタイトルにして、いったんは編集部門に渡されたのに対して、掲載を拒否した問題である。結局のところ、朝日は、世論の批判を浴びたのを受けて、掲載した。
慰安婦報道の検証、であるならば、社説との対抗面に堂々と批判として掲載する類のものである。あるいは、識者による「紙面批評」の欄に掲載されるべきものである。