新聞経営にかかわる
西洋雑貨商として、信頼を得ていった龍平が、新聞経営にかかわるのは、その縁であった。醤油問屋を営むかたわら、やはり西洋雑貨を取り扱っていた木村平八との出会いである。親密となった龍平と木村は、協同経営をしようということになり、明治9年「玉泉舎」を設立した。それまで輸入に頼っていたランプの石油について、国産化を目指したり、当時としては珍しかったガラスの製造に乗り出したり、龍平の起業家精神がうかがえる。
朝日新聞の創業者は、この木村平八の長男の騰であった。創刊は明治12年1月25日である。このときに龍平は、平八の依頼を受けて、新聞社の社長にあたる社主となった。したがって、大阪府への新聞発行の届け出も龍平名となっている。出資者は、木村平八である。
騰が新聞経営に乗り出そうとしたのは、父親が繁盛していた商店主であることから、金に困らず放蕩の気味があって、東京に出奔していたときのことである。印刷技術の研究に取り組んでいた松本幹一と知り合い、新聞事業の将来性を感じたのであった。
朝日新聞の題号は、起業にあたって、その企業の理念を高く掲げる伝統のなかにある。前著はその意を次のように説いている。「旭光偏照私なく、公明正大不羈独立を象徴するに足り、いかにも言論機関の期するところを実現し得て余すところなしというべきであろう」
企業の継続には、創業者の理念が貫かれていることが重要である。理念なきビジネスは永続性がない。朝日新聞の理念については、明治15年7月1日発行(第1008号)の社説「吾朝日新聞の目的」と題した社説の内容に詳しい。
新聞は特(ひと)り政談を載するのみの器にあらざるない、一に政略を談するのみの具にあらざるなり、広く江湖の新話を記するに在り、社会の奇事を掲ぐるに在り……区々たる新聞紙の力を以て徳義廉恥心の頽潤を挽回せんとするは、殆ど蟷螂が斧……然れども新聞紙は以て江湖の輿論を載するものなり、公議の在るところを示すものなり
創刊号は、朝刊4ページ。印刷部数は約3000であった。新聞の冒頭には、中央政府の「官令」、次に大阪府にかかわる「大阪府官令」。その次に、表題の柱を立てて「雑報」、「寄せ書き」「相場」「広告」と続いた。現在の新聞の政治面、社会面、経済面、広告面といった性格の端緒がみえている。
(この項続く)