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編集局にお辞儀をした経営者――村山龍平

2013年7月12日

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 西洋雑貨商を始める

  朝日新聞社は、主要な出資者である村山家と上野家を「社主」の地位に置いている。明治維新後の「文明開化」と呼ばれる時代を経て、憲法発布や国会開設など、近代化を図る日本のなかで、新聞業は各地で産声を上げた。つまり、新聞がベンチャーであった時代だった。

 そうした新聞を担った人々のなかで、朝日の村山龍平は代表的な経営者である。維新はさまざまな階層の人々の人生を変えた。村山は武士階級から、外交貿易に転じ、知人に新聞を経営する人がいた偶然から、新聞業界に生涯を捧げることになる。

 青年期を維新の社会、経済、政治の変転の中で過ごした村山の人生は、当時の青年の立身出世物語ばかりではなく、ベンチャーの経営者の肖像そのものである。

 村山龍平は、1850(嘉永3)年4月3日、伊勢(現在の三重県伊勢市)田丸城下で生まれた。村山家は代々、久野家に仕えた藩士だった。久野家は平安時代にまでさかのぼる旧家だった。明治維新による版籍奉還によって、藩が消滅したとはいえ、士族階級は厳然として存在した。

 村山の父守雄は、22歳の龍平ら家族をともなって、伊勢から大阪に転出したのである。明治3年12月のことである。明治そして、龍平の発案によって、外国の商品を扱う商店を開業したのであった。このとき、龍平の祖父にあたる閑斎も一緒であった。武士階級出身の三代が故郷を捨てて新天地を目指したのである。

 「村山龍平傳」は、村山家の決断について、次のように述べる。

  当時政府は旧封1万石以上の大小名を華族に列し、士分を士族に編入したが、士分そののものは依然として旧領内に留まり、削減された俸禄によって旧来の生計を持続し、他の農工商に転向従事することを禁ぜられていた。それが自由に解放されたのは実に明治3年12月以降であった。されば田丸を去って独立独歩の雄志を伸ばそうとした村山家の人々は、勢いこれを無視して出郷せねばならぬ。随つて俸禄も士族の族称も共に自ら放棄しなければならなかつた。けだし旧を重んじ形式を尚ぶ武家に馴致された人々にとっては、容易に思い切れないことでもあったに相違ない。

 ……(武士階級は)公債及び一時の賜金により、それぞれ馴れぬ生活に向かったものであるが、或は官吏となり、或は軍人となり、或は所謂士族の商業を営むなど、色々の方面に散じた者のうち、成功者は非常に少なく、多くは徒食窮乏に陥り、異口同音に「世が世ならば」と繰り返しつつ、新時代を怨み、昏迷窮迫の叫びを揚げたのである。しかるに村山家の人々は、廃藩置県の後の時世の完全な大転換を明瞭に認識した後は、前後を失うほどの周章にはいたらなかった。祖父、父、子ほぼ見解を一致して静かに新時代に適応すべき準備と思慮とを整え、……昨日までの古武士気質の代表者のような老、壮、少年の三代の武士が、……スッパリと丸腰になつて悔いるところが無かった点にこの一家の人々の特異性が見られるのである。

 藩士としての龍平は、砲術練習所に通った。後年、印刷技術に取り組んだ下地となったといわれている。ベンチャーの創業者は技術に対する理解が欠かせない。青年時代の龍平について、「村山龍平傳」は文武両道に励む青年として描いている。

  武道の稽古はますます猛烈に、学問も精進、また何かいう時には盛んに論ずるが、平素はいたって沈黙勝ちであった。剣道の外に、も一つ精魂を打ち込んだものは砲術である。これはさきに佐久間象山について江戸で修業してきた砲術調練組が、選抜青年組に教えたもので、眞木太(龍平の幼名を改名)は選抜青年組の中でも特に嘱目されていた一人であつた。

明治5年に開店した村山商店の屋号が、「田丸屋」としたのは、故郷の田丸城からとったのは間違いない。龍平の郷愁であると共に、誇り高い士族の出身である誇りを感じさせる。

 しかしながら、大阪にでるとすぐに頭を五分刈りするとともに、そろばんを習いに通い始めたのであった。

 この経験がのちに新聞経営に活きたと前著はいう。成功したベンチャーは、最終的なビジネスに行き着くまでに、さまざまな業種に挑戦する例が多い。そして、その経験を生かしていくのである。

  そのころ大阪には舶来品を取り扱う問屋仲買及び主たる小売商約80軒あり、相当競争していたから、他の商人の気のつかない物を扱わねば儲からぬ。英、米、独、仏等それぞれ国情の異なる特産品を、顧客の趣味を測って逸早く仕入れるには、問屋や仲買人の手を経ていては駄目であることを看破した龍平は、自ら直接輸入元たる神戸外国商館に行つて、他の取引屋と競争することとなった。士族の商法と高を括つていた仲間も、そのテキパキとして遣り口をいささか注目しはじめた。神戸及び大阪川口で直接仕入れたものを、市内や大阪付近の小売店に卸すのみならず、遠く北陸、東海、中国筋にあった舶来商品の小売商と盛んに取引を行うようになつた。これら遠隔の地方よりする注文によって、各地住民の趣味好尚なり文化普及の情況なりを詳かに知りえたことが、後年朝日新聞の経営に従事した際に役立つ結果ともなった。

 さらには、朝鮮貿易に乗り出した。自ら半島に渡って、朝鮮のコメなどを仕入れて、大阪に送った。

(この項続く)

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