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「鬼の十訓」の現代性――吉田秀雄

2013年7月1日

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「鬼の十訓」 マネジメントの先駆として

  吉田が部下たちに与えた、仕事を進めるうえでの原則「鬼の十訓」はひとり広告界のみならず、ビジネス界に知られている。経営者のなかで、いまもその信奉者は少なくない。

 電通について、吉田は知識労働者の会社であることを繰り返し述べている。こうした知識労働者の仕事をいかに科学的かつ創造的に進めるかについて、経営者として考え続けたのである。その意味では、工業社会から知識労働者の時代を迎えるなかで、ドラッカーが発見した「マネジメント」の概念を、吉田もまた気づいていたというべきである。「ポスト・資本主義の時代」の著作のなかで、ドラッカーは、知識労働者を働かせるのと、工場労働者を時間の規律のなかで働かせるのとではまったく異なる、と指摘している。

 吉田が「鬼の十訓」を作ったのは、1951年夏のことである。民放の設立にまい進した吉田が、その方向性を確信したころのことであった。

 「鬼の十訓」をみていこう。

一、仕事は自から「創る」べきで与えられるべきではない。

二、仕事とは、先手先手と「働き掛け」て行くことで、受身でやるべきものではない。

三、「大きな仕事」と取り組め。小さな仕事は己を小さくする。

四、「難しい仕事」を狙え。そしてこれを成し遂げる所に進歩がある。

五、取り組んだら「放すな」殺されても放すな。目的完遂までは・・・。

六、周囲を「引きづり廻せ」引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。

七、「計画」を持て。長期の計画を持っておれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。

八、「自信」を持て。自信がないから君の仕事には、迫力も粘りもそして厚みすらない。

九、頭は常に「全回転」八方に気を配って一分の隙もあってはならない。サービスとはそのようなものだ。

十、「摩擦を恐れるな」摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと君は卑屈未練になる。

 戦後の経済界にあって、「マネジメント」の先駆者である吉田の肉声を、「広告の中に生きる男」から引きたい。

       一番大切なのは、才能のマネージだ、才能のマネージが強力に行われるか行われぬかによって、業績は伸び縮みもする。       幹部諸公はあるいは局部長は自分の好みを基準にして社員の才能なり社の勤務ぶりを判断していないか。……多種多様        な性格が綜合されて、はじめて、広告サービスという生産がある。才能が企画化され、極度にその回転が高まらねばなら         ぬ。同種類の要素が同一のところへ集まっても、それは何も出来ない結果となろう。

 吉田はまた、調査研究すなわちマーケティングの理論と実践によって、広告業界を科学的に発展させようとした。上記から再び、彼の肉声を拾っていく。

       先ず市場調査それに市場の分析、それの調査員、そして調査の結果の分析等、これを行うのには先ず素材から集める必要       も生じよう。これも一種の才能の業である。

       アメリカの調査機関は独立しているし、いわばアメリカ全体が調査の大工場でもある。しかし、日本にこれを望むべくもないと      すれば、広告関係の市場調査は重要な広告サービスでなければならない。この市場調査の結果から宣伝広告の立案計画が      生まれる。

 マネジメントの要諦は、人事評価とあるポストに人を動かす人事にあるのはいうまでもない。経営者が「鬼の十訓」から学ぼうとしている、その要諦について「われ広告の鬼とならん」は、抜擢人事について述べながら、吉田のマネジメントの本質に迫ろうとしている。吉田は、管理職に対して、週に1回も部下の査定をさせていたのである。

       (吉田は)抜擢人事と、日本伝統の年功序列人事の、二つのケースをどのように調和させて、優秀な人材を育てていくか、と       いうことを苦慮するのだ。人は数字の上で判断することができるかが、それ以上の感情的なものは心にいつまでも残って、し       こりとなり、トラブルにもなる。

          ……だから、ある面で優れている者が総合点で評価されなかったとすると、どうしても自分を取ってくれなかったのかと        不満が残るのだ。

 評価の適正化を図るために、吉田は管理職から週1回の考課表を提出させた。同じラインのみでは評価が公平ではない可能性があるので、部を越えて他の部署の部下について、他の部長に評価させもした。

 では、抜擢人事はどのように行われたのか。吉田は次のようにいっていたと、「われ広告の鬼とならん」はいう。

       「抜擢ということは、その時だけの評価で行っては、失敗することが多い。長い間の成績を見て行えば、たとえその時目立っ       た成績でなくとも、その社員は必ず立派な働きをして、期待に応えてくれるものだ」 と、吉田はいう。社員によれば、抜擢人       事については、昔の人事のことで現在は行われていない、と見られていたくらい、静かな水面下で行われていたという。

 広告界における人材の育成について、吉田は電通というひとつの企業だけではなく、業界に人材を厚くしなければ、日本の広告の発展はない、という方向性を認識していた。1959年8月に設立された「広告宣伝グループ」はそのことを物語っている。このグループが発足に至ったのは、企業の枠を超えて、広告業界で働く20歳代、30歳代の中堅社員を集めた吉田の勉強会にあった。「広告宣伝グループ」はのちに東京中心から大阪も含めた、「青年広告研究会」に発展する。このメンバーのなかにはその後、電通の社長になる木暮剛平や成田豊らもいたのであった。

 (この項 了)

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