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「鬼の十訓」の現代性――吉田秀雄

2013年6月28日

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正力のテレビ構想と吉田

 テレビ放送が始まってから、2013年は60周年である。NHKの本放送の開始は1953(昭和28)年2月 1日午後2時、祝賀番組は尾上梅幸と松緑らによる「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」。日本放送が開局した同年8月28日の記念番組のトップも歌舞伎 に題材をとって、宝塚の天津乙女と南悠子による舞踏「寿式三番叟」であった。

 テレビ放送のスタートに至るまでに、あれほどまでにラジオの民間放送開局の先頭に立った吉田が、テレビについては当初積極的ではなかった。その理由は、ラジオがすでに戦前からのNHKの放送の普及によって、受信機が戦争直後で800万台を数えていたのに対して、テレビは受像機をゼロから普及させなければならないというのが、その主要な論点であった。

 ソニーの前身である東洋通信機工業が、井深大と盛田昭夫によって戦後まもなく設立されたときに、ラジオの修理であったエピソードはそのことを物語る。「日の丸石油」の輸入で知られる、中東から石油メジャーの手を経ないで自らが輸入を図った出光佐三が、戦後外地から引き揚げてきた社員や石油卸の事業の再興のために、一時的に取り組んだのもまたラジオの修理事業であった。

 ラジオの民間放送が開始されて、「ラジオの時代」を迎えたとき、テレビはまだ「電子紙芝居」と放送業界でもいわれて、今日の発展を読めなかった関係者が多かったのも事実である。

 日本のテレビ放送の先頭にたったのは、読売新聞の中興の祖である正力松太郎であり、吉田は正力との議論と、力の牽引するテレビ事業の将来性をいち早く読み取って、ともにテレビ事業の立ち上げにかかわっていくのである。

 「広告の中に生きる男」のなかで、筆者の片柳は、ラジオ東京の取締役会における、吉田の「テレビ尚早論」発言を紹介している。

       ラジオの場合はNHKが20年以上の努力を続け……いわば畑が耕されている、その畑に商業放送という種をまいたから、そ        の生育がよかったが、まだNHKが手をつけていない畑を開墾して、肥料をやり、土をならし、種をまかなければならないとす        れば、それに要する費用と努力は大変である、テレビの必要性は認めるが今すぐテレビに取り掛かる事は時期尚早といわね       ばならぬ。……従ってテレビの発足は、NHKの畑を上手に利用する事こそ賢明ではなかろうか、せめてNHKが30万台のテ        レビ受像機を持つようになってかれでも商業テレビはおそくはあるまい。

さらに、吉田は、正力の新聞人としての天才性についても触れているのである。自身の解はあくまでも実業家のそれであり、正力の構想について敬意を払っている。

        自分の意見は常識論だ、もし、経済人であるなら自分の意見を常識として受け入るだろう、しかし正力さんは新聞人であり        天才だ、正力さんの頭の中や、新聞人の考える事は常識では割り切れぬ要素を50%が持っていよう、しかし自分はここで        経済人としての常識論を述べているのだ。

 これに対して、正力のテレビ構想は、家庭にテレビ受像機が普及する以前に街頭にテレビを置いて、大衆に現実のテレビをみせていくことから、テレビ放送をはじめることであった。この発想のもとには、電通が都内各地に建てた巨大なネオン塔の存在があった。正力がテレビの成功を引き寄せた街頭テレビについて論じられることは多いが、その泉源について記述している例はほとんどない。

 「われ広告の鬼とならん」の筆者である舟越は、正力の街頭テレビ構想と巨大ネオン塔が絡み合っていることを論じている。

         (昭和25年)電通は上の広小路に東洋一という巨大な森永製菓、乳業のネオン塔(約35m)を完成させていた。ネオン管         (全長約900m)は点滅して動きを表し、商標のエンゼルからキャラメルがばらまかれるアイデアが評判になっていた。この         頃、各地でネオン管が街頭に建てられるようになっていた。こうしたことを、正力は目にして、街頭テレビの発想となった          のではなかったか。

 舟越は、この裏付けとなる正力の発言を引いている。

        わたし共の計画では家庭用受像機の外に少なくとも新宿、渋谷、銀座、上野などの人出の多い所に大きなスクリーンを公        開して大衆に無料で観覧させるのであります。……テレビジョンの実況を見せると共にニュースを聞かせ、これを中継線に         のせて全国放送するのであるから広告効果は絶大なことは当然。

 正力構想に対して、NHKは制度的な限界から街頭テレビの設置はできなかった。ラジオの聴取料をテレビの創設の費用に使ってはならなかったからである。そのための資金は借入によってなされた。

 テレビ草創期の爆発的な人気を物語る映像として、小さな受像機に群がる人々の波の写真が使われる。当時朝日新聞の本社があった東京・有楽町近くの西銀座であった。そしてその受像機を通して、人々が熱狂したのは、力道山のプロレスであり、プロボクシングの試合であった。正力の設立した日本テレビは、開局後わずか7カ月でランニングが黒字に転換するのであった。

 正力の構想に括目して、吉田もまたテレビ放送の普及と促進に電通の総力をあげる体制を整えたのであった。正力に対する吉田の敬意は、その後、正力の胸像を日本テレビに贈った逸話に現われている。

 (この項続く)

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