ラジオにまい進する
終戦によって、日本を占領した米軍による占領軍当局(GHQ)は1947年10月、「私営(民間企業による)放送会社の助長」という方針を示した。これに対して、吉田が主導する形で、東京商工経済会(現在の東京商工会議所)の理事長であった船田中を委員長に、吉田が副委員長として「民衆放送株式会社」設立準備委員会が、この年の12月に発足した。
吉田のこの民間ラジオの構想は、GHQの方針が揺れ動いたことや、日本側の中心人物が占領軍による公職追放などに合ったために、紆余曲折を遂げたが、1949年1月に吉田が発起人となって、「東京放送株式会社」の申請をおこなった。
ラジオのビジネスモデルは、先進地の米国で当初議論の対象となった。すなわち、聴取料金を取った家庭にだけ電波のスクランブルを解除する方式と、広告方式による両案であった。米国は広告方式をとった。戦前にも民間放送の構想は浮上したが、日本放送協会(NHK)の受信料による放送だけとなった。
戦後の民間ラジオ放送のビジネスモデルをどうするか。NHKの受信料の一部を民間放送会社が受け取る方式も論議された。宝塚歌劇団の公演をラジオ放送することを考えた、阪急グループの小林一三もその案であった。
吉田はいっかんして、「電波は国民のものである」という立場をとって、広告モデルによる民間ラジオ放送にまい進した。
「われ広告の鬼とならん」によれば、吉田は実に、戦前の満州において満州電信電話会社が行っていた民間ラジオ放送を研究していた。満州では、昭和5年ごろからハルビンで、ロシア語による広告放送があった。昭和8年からは日本語の放送が始まった。
満州の放送は民間放送であったが、聴取料と広告放送料金との二本建をとっていた。……放送施設の運営は赤字で電信電話 からの援助に頼らなければならなかった。しかし聴取者が70万を越えて自給できるようになった記録がある。……広告主は広 告放送することによって、音楽番組や芸能番組などを提供する編成であった。
吉田が、日本でも広告モデルによるラジオ放送の可能性を確信していたことがうかがえる。満州に注目したのは、創業者の光永のもとで、満州各地の新聞に広告を取り次ぐ事業に成功した経験があったものと考えられる。
また、後述することになるが、広告代理店の近代化のために、調査機能を重視した吉田は、戦後満州から引き揚げてきた満州鉄道の調査部の出身者の多くを、電通に入社させるのである。関東大震災後の復興計画を担った後藤新平が、満州において都市計画に取り組んだ経験をもっていたのをはじめ、戦後の新幹線の建設にあたっても、従来の狭軌ではなく広軌であった満鉄の経験者が多く参加していることは、よく知られた事実である。ラジオ放送においても、戦後の民間放送のモデルが存在していたことはあまり知られていないのではないか。
ラジオすなわち電波による広告について、吉田は現代のインターネット広告の概念に相当する考えを当時表明している。すなわち、広告の王座にあった新聞は紙面の限界があるが、ラジオは原料費がかからない、というものである。ラジオには放送時間という限界はあるが、紙の資源を使う新聞に比べると、無限の可能性があるというわけである。
また、電波は国民のものであるという観点から、ラジオの時間をスポンサーとして費用を払わないで使ってはならないという原則を貫いてみせた。ラジオのスタート当初、株主や経営者として加わった新聞社が自社の冠を使ったニュース番組を流していた。これに対して、吉田は、新聞社もスポンサーとして費用を支払うべきだと主張したのである。
そのために、電通が文化放送のニュース番組をスポンサーとして費用を支払い、時事通信のニュースを3年間にわかって流したのであった。「広告の中に生きる男」の筆者である片柳は、このエピソードに触れたあと、次のように述べている。
何も電通がスポンサーになったところで、電通が一般に売るべき商品があるわけではない。それをやらねばならぬところに、 彼の主張があるのだ、電波は特権を持つもののためにあるものではない。いついかなる場合も、公平に扱われるべきものだと する。これを機としてニュースは新聞社の提供から一般スポンサーの誰でもが買っておくれる立場をつくりあげた。
その後、民間放送に対する進出の申請は大手新聞社や一般企業などから多数の手が上がった。東京地区では計28社が申請。郵政省が一本化を図ろうとしたが失敗し、吉田が乗り出すことになった。朝日、毎日、読売の新聞社の申請と、すでに申請していた「東京放送株式会社」の件を吉田はまとめて、「株式会社ラジオ東京」として申請にこぎつけた。
各地の放送局の開設にあたって、電通が各地方の有力なメディアである地方紙に呼びかけて、電通が申請の窓口になるばかりか、番組の編成や広告の募集まで電通が支援したのである。さらに、地方局には、電通の社員を次々に出向させている。
「われ広告の鬼とならん」は、大阪に開局することになる新日本放送を舞台として、吉田によるラジオ放送に向けた人材登用のありさまを描いている。
吉田は、電通大阪支社から新日本放送に営業部長として関亨を送り込んだ。関は労組初代委員長の経歴がある。
吉田は有望な人材と見込むと、次々に放送局に入社させた。
「電波媒体は伸びていく。電通は電波媒体に力を入れなければならない。しかし新しい電波会社に人がいないのだ。だから電 通に人を出してくれと頼みに来る。電波を成功させるためには、いかなる奴でも出すぞ」
関が耳にした吉田の言葉はいつまでも残った。
毎日新聞大阪本社の事業部長から、夕刊新大阪を経て、やはり新日本放送の準備に参画した小谷正一もまた、吉田が集めた民間ラジオ草創期の逸材である。小谷は、井上靖が芥川賞を受賞した「闘牛」の作品のモデルである。
小谷が任されたのは、ラジオの料金制度であった。「われ広告の鬼とならん」は、この問題をめぐる小谷と吉田の議論を描きながら、草創期の多くの課題がそのつど試行錯誤の末に解決されたことを明らかにしている。
小谷は、電波料金設定について、あれこれ思索した経緯をひとつひとつ出して説明した。アメリカの料金を日本流に翻訳した こと、その十分間の電波料をアメリカの物価や給料の面など比較したこと、それに日本の新聞広告料金を当てて設定した が、どうも高すぎる。これを半額にするとか、三分の一だとか、簡単にはできない……吉田は小谷に説明を聞いて「よく勉強 したな」と言ったそうである。そして「稼がなければならん金額を、売ろうとする全時間の何割で賄うように見積もるか。今度 は良い食い扶持を、今でいう肝づもりの時間数で割ってみれァいいんじゃないかな。そこではじきだされた数字と、君の試算 数字を引き合わせて最終決定することだ」……
小谷は、その後、吉田に決定した電波料金表を見せに行った。全体が安かったらしく、吉田はその安さを納得できずに自説 を語ったが、小谷は変えなかった。
その料金表は、「Aタイム30分は5万円」だった。その数字は、毎日新聞(大阪)夕刊の広告料から割り出したというもので、 一センチ一段1600円だった。一センチを一分に換算して30分4万8000円、端数を切り上げて5万円になる。
小谷は、番組づくりに人材を集めた。NHKに対抗する番組を作らなければ、民放ラジオに活路はみいだせないからである。知人の劇作家高田保に相談したところ、高田は「大阪ローカルの色を出すこと。思い切った型を破る」「放送に関係のない部外者を選ぶ」「変わった番組を作れ」と助言した。現代の放送のあり方に通じる先見性がある。「われ広告の鬼とならん」は小谷のラジオ番組の編成について、次のように記している。これもまた、放送局のいまの編成のあり方を物語っているようである。
NHKに立ち向かうには、アイディアで勝負する方法しかないと判断した小谷は夜の8時台に帯で「クイズ」番組を並べた。NHKも「私は誰でしょう」「話の泉」「二十の扉」などクイズ番組を幾つか作っていたが、放送時間が「30分」とか「15分」など時間がつかみにくいところに弱点があると読んだ。
(この項続く)