広告料金改革
吉田秀雄は1947年6月に日本電報通信社の第4代社長となって、戦後の広告の礎を築いた人物である。当時は広告媒体の王者であった新聞広告について、適正料金を提唱したことで知られている。
戦争中に政府が新聞社に課していた新聞用紙の輪割当制度が1951年に撤廃された。新聞社は自由に用紙を購入できるようになって、紙面の拡張にともなって、新聞広告のスペースも増加し、広告の乱売合戦となった。割引率の引き下げ競争が起きたのである。
吉田は、広告の量が増えるのに従って、割引率が大きくなる「逓減料率」を提案して、この乱売合戦に終止符を打とうとした。そのためには、新聞の部数がそれまでのように公表されないのでは意味がないので、欧米のように第三者機関によって、部数を明らかにする方策も同時に講じたのであった。
1952年10月に設立されたABC懇談会である。現在の日本ABC(新聞雑誌部数公査機構)となる。
広告料金の改革については、戦後の吉田の功績が語られることが多い。しかしながら、戦時統制経済のなかで、広告料金の統制が図られ、それが戦後の「逓減料率」に至った歴史もまた、振り返っておく必要がある。戦時下の物価庁と吉田の業界にはみえない交渉によって、広告料金の公定制度と、それにともなう広告代理店の取次手数料が15%になったのである。戦後の経済体制が「1940年体制」であるように、広告もまた、吉田というひとりの人物によって、戦時下で戦後の広告の仕組みが作られていた。
物価統制の動きのなかで、広告もその対象となった。統制の例もあったが、広告の専門家がいない物価庁は、その判断の可否を吉田に頼った。物価庁の官僚のごとき働きをできたのは、官庁に食い込むことができた吉田の手腕といえるだろう。吉田は当時常務であった。
広告の公定価格を定める基準作りもまた、物価庁は吉田に依頼した。このために、新聞社が物価庁に対して報告した経営に関する資料を、吉田は自宅で部下とともに分析して、その原価を算定し、広告代理店のしかるべき利幅を考えたのであった。吉田がかかるような作業にかかわっていることが、広告業界ならびに日本電報通信社に知られて、問題視されるのを避けたのである。その結果として、「公定価格」と15%の手数料が確立したのであった。
戦後の電通の発展の礎となったのは、この広告価格の改革とならで、戦時下における広告代理店の整理統合によって、優位な位置を占めたことであった。これについては、「公定価格」の確立に向けたお吉田の活動に関する各種の証言はない。しかしながら、政府に食い込んでいた吉田が、広告代理店の整理統合についてなんらかの動きをしなかったとは考えにくい。
永井龍男は「この人 吉田秀雄」のなかで、電通創立30周年を記念して、経営陣たちによる座談会の席での吉田の発言を紹介している。戦争に社員たちが駆り出され、さらに戦時下で広告そのものが激減するなかで、自らの活動を振り返って、電通の戦後の発展を戦中に築いたこと自信をもって語っている。永井の評伝は達意の気品のある文体で綴られている、吉田伝の白眉である。全300ページ近い評伝のなかで、この対談に約50ページを割いている。評伝としては異色の構成であるが、吉田の肉声を伝えたいという作者の筆遣いが伝わってくる。
戦時下の広告代理店の整理統合について、吉田は以下のように述べている。
もう駄目かと思われたのが昭和19年、20年。そこでは最高幹部の過半数が退陣するという状態になった。その時にこの機会 にこそ広告界100年の大計を樹てるべきだ。戦争は永久に続くものじゃあないと思って決行したのが、代理店の自主企業整備 だ。名目は公正取引の維持の為に、無用の競争をさける。全国240社からあった広告代理業も全国12社に縮小した。電通だ けが東京、大阪、名古屋、九州にそのまま残って、他の代理店は全部支店、出張所を閉鎖した。昭和17年の秋に取りかかっ て19年に完成した。同時にそれまでの紛然、雑然としておった各新聞社の広告料金を、準(まるの中に公の文字)の協定料金 に切り替える。これが完成したのが昭和19年の暮だった。そういう準備が完了して、終戦を迎えた訳だ。
(この項続く)