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「鬼の十訓」の現代性――吉田秀雄

2013年6月17日

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吉田秀雄と電通の前身・日本電報通信社

  吉田秀雄は、明治36年11月9日に小倉市(現在の北九州市小倉区)で誕生した。父親は鉄道の施設の工事関係の仕事をしていた。戦前の鉄道の近代化による下請けの工場の整理によって、父親は職を失い、秀雄ら家族とともに台湾に渡った。母と兄妹と小学校時代に地元の小倉に戻ったが、父はその間に事故によって死亡する。

 新聞配達をしながら学校に通ううち、旧制中学校に進学させてもらうことを条件として、養子にだされる。吉田は縁組先の当時資産家の名字である。旧姓は渡辺だった。その吉田家も第1次大戦後の不況のなかで、家産を失ったために、吉田は困窮しながら旧制七高校から東京帝国大学経済学部に入る。

 関東大震災の1年後の大正13年のことである。

 吉田と親しい間柄であった作家の永井龍男は、吉田の評伝「この人 吉田秀雄」のなかで、当時の東京を次のように描写し、吉田の心象風景描いている。

    東京の下町、本所、深川、下谷から日本橋、京橋、神田と、そのほとんどが焼土と化し、復興のきざしを見たのは、すくなくとも二    年後のことだったが、その代わり災禍をまぬがれた山の手の盛り場は一時に繁栄した。……

    天災の一瞬以来幸運と悲運の差がはなはだしく、東京という大都市にその人間模様を 露骨に描き出しみせたというのが当時の   状況であった。ここを舞台に、一旗揚げようという大小の野心家も地方から馳せ参じて町々に眼をひからせていたろうし、好況の商   人達から分け前をしぼり取ろうと構える各種の水商売の数もおびただしく増加して、それまで守りに守られた東京市というものをが   らりと変貌させるエネルギーが、ここかしこに噴出した観があった。

 家庭教師などをしながら困窮のなかで大学に通っていた吉田は、いったんは退学の意思を固めたこともあったといわれる。大学も1年間留年している。就職活動をした昭和初年は、不況のなかで、映画監督の小津安二郎が描いた「大学は出たけれど」という、いまでいえば「超氷河期」であった。当時としては、母子家庭から養子に出て、しかも吉田は学生時代に結婚して長男もいる状態では、コネもなく就職活動は困難を極めた。第1志望は新聞社であったが、さまざまな業種に応募した。

 通信社機能と広告代理店機能を兼業していた、電通の前身である、株式会社日本電報通信社に入社することができた。同社が初めて大卒の定期採用をした昭和3年4月のことである。同期は11人で、うち7人が通信部門の記者となり、4人が広告営業の部門に配置された。吉田は、地方紙の広告を取り扱う地方部であった。

 吉田をはじめとして、のちの電通の社長の経歴のなかで、この地方部出身者が多いのは、後述するように、吉田が地方紙を広告面で支える姿勢を一貫し貫いたことが、伝統となったことと無縁ではない。

 日本電報通信社の創業は、明治34年7月である。光永星郎がまず設立した日本広告株式会社が母体となっている。光永自身は、日清戦争の従軍記者を務めた新聞記者出身であった。のちに通信機能をもった兼業となったのである。

 新聞社に記事を配信して、新聞社から受け取る料金と、広告取り扱いによって新聞社に支払う広告料とを相殺して、収益をあげる仕組みであった。当時欧米にその例があり学んだといわれている。

 記事よりも広告の地位が低かった戦前においては、通信事業をしていない広告代理店のなかにも、社名に「通信」を入れるところがあり、戦後もその名残があった。

 ノンフィクション作家の舟越健之輔の「われ広告の鬼とならん」は、吉田が入社した当時の日本電報電信通信社の本社について、次のように述べている。

    ニュース報道は機械化時代に入って、各社の速報合戦が出現していた。取材活動の戦力に、オートバイやハトが使用されだした   のは、この頃のことである。三階建ての社屋正面横には「日本電報通信社」の一尺(約30.3センチ)四方位の看板が掲げあった。   間口は四間(約7.2メートル)位であった。一階はオートバイや自転車が置かれていた。階段の下が写真部の現像暗室、製版室、   用度課などがあった。二階が営業、総務、三階は社長室、通信部があり、中三階に掲載紙室があった。屋上には鳩舎がり、陸軍の   中野通信隊から二十羽を昭和3年に買い入れたもので、吉田たちと同期であった。

 いまでは日本にない、通信社と広告代理店を兼営していた当時の企業の様子がよくわかる。鳩はいわゆる伝書鳩である。足首に小さな紙に書いた通信文を入れる筒をつけて、取材先から飛ばすのである。第2次大戦の連合軍によるノルマンジー上陸作戦を描いた、映画「史上最大の作戦」のなかで、従軍記者が上陸の第1報を送るために鳩を飛ばすシーンがある。新聞社にも戦後まもなくまで、本社の屋上に鳩小屋があった。電信・電話が普及するまでは鳩も通信の有力な手段であったのである。

 自らも宣伝・広告マンであった片柳忠男の吉田の評伝「広告の中に生きる男」は、入社当時を振り返る吉田の証言を綴っている。

      いや、まったく驚きました。当時の広告やといえば正直「広告取り」の名の如く何もかもあったもんではありませんでしたョ……     不幸か幸いかわかりませんが、当時私は、外交ではありませんでしたらから広告取りには行きませんでしたが、何かと連絡の      事務がありましたので、広告主のところにへも顔を出さなければなりませんでしたし、新聞社まわりも致しましたが、現に広告で      一流会社に育って来た会社やお店は、広告に対してキチンとした見識を、その頃からはっきりと持っていました。そして、広告の     作業も実に真剣そのものでした。

  終戦迄の日本の広告界は日本の古事記以前だったし、あるいは日本書紀以前だったろうと思います。それは日本の広告に、ひとつとして系統だった記録はない。広告の中に、いいかえれば文学も、もっとひどい言葉でいえば、文章だってなかったのではないですか。たまたま、個々の人が記録の参考のために資料を集めたり、記録というべきものを残しているものの、日本広告界として個々の企業体の動きについてまとまった記録はないんです。

 日本電報通信社が、事業のふたつの柱である通信部門を取り上げられる形となって、広告代理店専業となるのは、戦時体制によるものであった。一橋大学、東京大学などの教授を歴任した野口悠紀雄が、官僚・経済機構について「1940年体制」と指摘して、戦時統制が戦後も継続したことを明らかにしている。通信分野でも、日本の対外的な主張について、統一した通信社を作ろうという政府の動きが起きたのである。

 昭和11年1月に発足した社団法人同盟通信社に対してのみ、逓信省は外国ニュースの無線による受信を認めた。つまり、日本電報通信社は、外電の配信から排除されたのである。この政府の方針の延長線上に、同年5月本電報通信社の通信部門を同盟通信に割譲することになり、その代わりに同盟の広告部門を引き受けることになった。戦時統制がのちに日本最大の広告代理店となる電通を生んだのである。かつまた、その体制が、前近代的だった日本の広告業界の慣習を一変させることになる。それは吉田の大きな功績となるのである。

 舟越の「われ広告の鬼とならん」は、創業者の光永が兼業から広告代理店の専業になることを社員に説明するシーンのなかで、光永の苦汁を描いている。

      光永星郎は八階講堂に全社員を集めた。この日限りで同盟に移る通信部員も、電通にとどまる総務や営業部員も光永の気持      ちを察して緊張していた。光永はテーブルの前に立ち、社員は遠巻きにかこんだ。

      「……今日は光輝ある電通の歴史において、後にも先にも唯一一度しかない重大要件につき、お告げしたいことがあって、お    集まりを願った。電通はご承知の通り、営業部と通信部を両翼としてその使命を果たしてきた。ところが、今回、営業部と通信部を    切り離して、営業は留まり、通信部は他へ行かなければならなぬ次第になった……」

     光永は、詳しい事情については、老人に免じてお許しを願いたいと言っている。そこで最後まで頑張ってきたことを語り、「いまま    で一つの窯で飯をくったところのものが、二つに別るるのに臨み、感無量、いわんと欲するところ山のごとくなるも、その万分を尽く    すあたわず」と結んだ。

(この項続く)

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