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広告料金改革

 吉田秀雄は1947年6月に日本電報通信社の第4代社長となって、戦後の広告の礎を築いた人物である。当時は広告媒体の王者であった新聞広告について、適正料金を提唱したことで知られている。

 戦争中に政府が新聞社に課していた新聞用紙の輪割当制度が1951年に撤廃された。新聞社は自由に用紙を購入できるようになって、紙面の拡張にともなって、新聞広告のスペースも増加し、広告の乱売合戦となった。割引率の引き下げ競争が起きたのである。

 吉田は、広告の量が増えるのに従って、割引率が大きくなる「逓減料率」を提案して、この乱売合戦に終止符を打とうとした。そのためには、新聞の部数がそれまでのように公表されないのでは意味がないので、欧米のように第三者機関によって、部数を明らかにする方策も同時に講じたのであった。

 1952年10月に設立されたABC懇談会である。現在の日本ABC(新聞雑誌部数公査機構)となる。

 広告料金の改革については、戦後の吉田の功績が語られることが多い。しかしながら、戦時統制経済のなかで、広告料金の統制が図られ、それが戦後の「逓減料率」に至った歴史もまた、振り返っておく必要がある。戦時下の物価庁と吉田の業界にはみえない交渉によって、広告料金の公定制度と、それにともなう広告代理店の取次手数料が15%になったのである。戦後の経済体制が「1940年体制」であるように、広告もまた、吉田というひとりの人物によって、戦時下で戦後の広告の仕組みが作られていた。

 物価統制の動きのなかで、広告もその対象となった。統制の例もあったが、広告の専門家がいない物価庁は、その判断の可否を吉田に頼った。物価庁の官僚のごとき働きをできたのは、官庁に食い込むことができた吉田の手腕といえるだろう。吉田は当時常務であった。

 広告の公定価格を定める基準作りもまた、物価庁は吉田に依頼した。このために、新聞社が物価庁に対して報告した経営に関する資料を、吉田は自宅で部下とともに分析して、その原価を算定し、広告代理店のしかるべき利幅を考えたのであった。吉田がかかるような作業にかかわっていることが、広告業界ならびに日本電報通信社に知られて、問題視されるのを避けたのである。その結果として、「公定価格」と15%の手数料が確立したのであった。

 戦後の電通の発展の礎となったのは、この広告価格の改革とならで、戦時下における広告代理店の整理統合によって、優位な位置を占めたことであった。これについては、「公定価格」の確立に向けたお吉田の活動に関する各種の証言はない。しかしながら、政府に食い込んでいた吉田が、広告代理店の整理統合についてなんらかの動きをしなかったとは考えにくい。

 永井龍男は「この人 吉田秀雄」のなかで、電通創立30周年を記念して、経営陣たちによる座談会の席での吉田の発言を紹介している。戦争に社員たちが駆り出され、さらに戦時下で広告そのものが激減するなかで、自らの活動を振り返って、電通の戦後の発展を戦中に築いたこと自信をもって語っている。永井の評伝は達意の気品のある文体で綴られている、吉田伝の白眉である。全300ページ近い評伝のなかで、この対談に約50ページを割いている。評伝としては異色の構成であるが、吉田の肉声を伝えたいという作者の筆遣いが伝わってくる。

 戦時下の広告代理店の整理統合について、吉田は以下のように述べている。

      もう駄目かと思われたのが昭和19年、20年。そこでは最高幹部の過半数が退陣するという状態になった。その時にこの機会      にこそ広告界100年の大計を樹てるべきだ。戦争は永久に続くものじゃあないと思って決行したのが、代理店の自主企業整備      だ。名目は公正取引の維持の為に、無用の競争をさける。全国240社からあった広告代理業も全国12社に縮小した。電通だ       けが東京、大阪、名古屋、九州にそのまま残って、他の代理店は全部支店、出張所を閉鎖した。昭和17年の秋に取りかかっ       て19年に完成した。同時にそれまでの紛然、雑然としておった各新聞社の広告料金を、準(まるの中に公の文字)の協定料金      に切り替える。これが完成したのが昭和19年の暮だった。そういう準備が完了して、終戦を迎えた訳だ。

 (この項続く)

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吉田秀雄と電通の前身・日本電報通信社

  吉田秀雄は、明治36年11月9日に小倉市(現在の北九州市小倉区)で誕生した。父親は鉄道の施設の工事関係の仕事をしていた。戦前の鉄道の近代化による下請けの工場の整理によって、父親は職を失い、秀雄ら家族とともに台湾に渡った。母と兄妹と小学校時代に地元の小倉に戻ったが、父はその間に事故によって死亡する。

 新聞配達をしながら学校に通ううち、旧制中学校に進学させてもらうことを条件として、養子にだされる。吉田は縁組先の当時資産家の名字である。旧姓は渡辺だった。その吉田家も第1次大戦後の不況のなかで、家産を失ったために、吉田は困窮しながら旧制七高校から東京帝国大学経済学部に入る。

 関東大震災の1年後の大正13年のことである。

 吉田と親しい間柄であった作家の永井龍男は、吉田の評伝「この人 吉田秀雄」のなかで、当時の東京を次のように描写し、吉田の心象風景描いている。

    東京の下町、本所、深川、下谷から日本橋、京橋、神田と、そのほとんどが焼土と化し、復興のきざしを見たのは、すくなくとも二    年後のことだったが、その代わり災禍をまぬがれた山の手の盛り場は一時に繁栄した。……

    天災の一瞬以来幸運と悲運の差がはなはだしく、東京という大都市にその人間模様を 露骨に描き出しみせたというのが当時の   状況であった。ここを舞台に、一旗揚げようという大小の野心家も地方から馳せ参じて町々に眼をひからせていたろうし、好況の商   人達から分け前をしぼり取ろうと構える各種の水商売の数もおびただしく増加して、それまで守りに守られた東京市というものをが   らりと変貌させるエネルギーが、ここかしこに噴出した観があった。

 家庭教師などをしながら困窮のなかで大学に通っていた吉田は、いったんは退学の意思を固めたこともあったといわれる。大学も1年間留年している。就職活動をした昭和初年は、不況のなかで、映画監督の小津安二郎が描いた「大学は出たけれど」という、いまでいえば「超氷河期」であった。当時としては、母子家庭から養子に出て、しかも吉田は学生時代に結婚して長男もいる状態では、コネもなく就職活動は困難を極めた。第1志望は新聞社であったが、さまざまな業種に応募した。

 通信社機能と広告代理店機能を兼業していた、電通の前身である、株式会社日本電報通信社に入社することができた。同社が初めて大卒の定期採用をした昭和3年4月のことである。同期は11人で、うち7人が通信部門の記者となり、4人が広告営業の部門に配置された。吉田は、地方紙の広告を取り扱う地方部であった。

 吉田をはじめとして、のちの電通の社長の経歴のなかで、この地方部出身者が多いのは、後述するように、吉田が地方紙を広告面で支える姿勢を一貫し貫いたことが、伝統となったことと無縁ではない。

 日本電報通信社の創業は、明治34年7月である。光永星郎がまず設立した日本広告株式会社が母体となっている。光永自身は、日清戦争の従軍記者を務めた新聞記者出身であった。のちに通信機能をもった兼業となったのである。

 新聞社に記事を配信して、新聞社から受け取る料金と、広告取り扱いによって新聞社に支払う広告料とを相殺して、収益をあげる仕組みであった。当時欧米にその例があり学んだといわれている。

 記事よりも広告の地位が低かった戦前においては、通信事業をしていない広告代理店のなかにも、社名に「通信」を入れるところがあり、戦後もその名残があった。

 ノンフィクション作家の舟越健之輔の「われ広告の鬼とならん」は、吉田が入社した当時の日本電報電信通信社の本社について、次のように述べている。

    ニュース報道は機械化時代に入って、各社の速報合戦が出現していた。取材活動の戦力に、オートバイやハトが使用されだした   のは、この頃のことである。三階建ての社屋正面横には「日本電報通信社」の一尺(約30.3センチ)四方位の看板が掲げあった。   間口は四間(約7.2メートル)位であった。一階はオートバイや自転車が置かれていた。階段の下が写真部の現像暗室、製版室、   用度課などがあった。二階が営業、総務、三階は社長室、通信部があり、中三階に掲載紙室があった。屋上には鳩舎がり、陸軍の   中野通信隊から二十羽を昭和3年に買い入れたもので、吉田たちと同期であった。

 いまでは日本にない、通信社と広告代理店を兼営していた当時の企業の様子がよくわかる。鳩はいわゆる伝書鳩である。足首に小さな紙に書いた通信文を入れる筒をつけて、取材先から飛ばすのである。第2次大戦の連合軍によるノルマンジー上陸作戦を描いた、映画「史上最大の作戦」のなかで、従軍記者が上陸の第1報を送るために鳩を飛ばすシーンがある。新聞社にも戦後まもなくまで、本社の屋上に鳩小屋があった。電信・電話が普及するまでは鳩も通信の有力な手段であったのである。

 自らも宣伝・広告マンであった片柳忠男の吉田の評伝「広告の中に生きる男」は、入社当時を振り返る吉田の証言を綴っている。

      いや、まったく驚きました。当時の広告やといえば正直「広告取り」の名の如く何もかもあったもんではありませんでしたョ……     不幸か幸いかわかりませんが、当時私は、外交ではありませんでしたらから広告取りには行きませんでしたが、何かと連絡の      事務がありましたので、広告主のところにへも顔を出さなければなりませんでしたし、新聞社まわりも致しましたが、現に広告で      一流会社に育って来た会社やお店は、広告に対してキチンとした見識を、その頃からはっきりと持っていました。そして、広告の     作業も実に真剣そのものでした。

  終戦迄の日本の広告界は日本の古事記以前だったし、あるいは日本書紀以前だったろうと思います。それは日本の広告に、ひとつとして系統だった記録はない。広告の中に、いいかえれば文学も、もっとひどい言葉でいえば、文章だってなかったのではないですか。たまたま、個々の人が記録の参考のために資料を集めたり、記録というべきものを残しているものの、日本広告界として個々の企業体の動きについてまとまった記録はないんです。

 日本電報通信社が、事業のふたつの柱である通信部門を取り上げられる形となって、広告代理店専業となるのは、戦時体制によるものであった。一橋大学、東京大学などの教授を歴任した野口悠紀雄が、官僚・経済機構について「1940年体制」と指摘して、戦時統制が戦後も継続したことを明らかにしている。通信分野でも、日本の対外的な主張について、統一した通信社を作ろうという政府の動きが起きたのである。

 昭和11年1月に発足した社団法人同盟通信社に対してのみ、逓信省は外国ニュースの無線による受信を認めた。つまり、日本電報通信社は、外電の配信から排除されたのである。この政府の方針の延長線上に、同年5月本電報通信社の通信部門を同盟通信に割譲することになり、その代わりに同盟の広告部門を引き受けることになった。戦時統制がのちに日本最大の広告代理店となる電通を生んだのである。かつまた、その体制が、前近代的だった日本の広告業界の慣習を一変させることになる。それは吉田の大きな功績となるのである。

 舟越の「われ広告の鬼とならん」は、創業者の光永が兼業から広告代理店の専業になることを社員に説明するシーンのなかで、光永の苦汁を描いている。

      光永星郎は八階講堂に全社員を集めた。この日限りで同盟に移る通信部員も、電通にとどまる総務や営業部員も光永の気持      ちを察して緊張していた。光永はテーブルの前に立ち、社員は遠巻きにかこんだ。

      「……今日は光輝ある電通の歴史において、後にも先にも唯一一度しかない重大要件につき、お告げしたいことがあって、お    集まりを願った。電通はご承知の通り、営業部と通信部を両翼としてその使命を果たしてきた。ところが、今回、営業部と通信部を    切り離して、営業は留まり、通信部は他へ行かなければならなぬ次第になった……」

     光永は、詳しい事情については、老人に免じてお許しを願いたいと言っている。そこで最後まで頑張ってきたことを語り、「いまま    で一つの窯で飯をくったところのものが、二つに別るるのに臨み、感無量、いわんと欲するところ山のごとくなるも、その万分を尽く    すあたわず」と結んだ。

(この項続く)

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 週明けのフジテレビ地上波のプライムタイム(午後7時~11時)は、「月9」と呼ばれるドラマシリーズの「ガリレオ」に向かって、バラエティーの「ネプリーグ」と「ジェネレーション」の放送が展開していく。続いて人気番組の「SMAP×SMAP」である。

 BSフジはその時間帯に並行して、時代劇「鬼平犯科帳」と「振り返れば奴がいる」の再放送をはさんで、午後8時から2時間枠の「プライムニュース」である。

  「力強いタイムテーブルをつくる」。新年度の方針説明のなかで、社長の豊田皓(67)が号令をかけた4月改編の一端である。6月の株主総会後にその豊田が取締役副会長退いて、後任の新社長に常務の亀山千広(56)が就任する。5月15日の3月期決算発表と同時に明らかにされた。会長に留任した日枝久(75)によって、強いタイムテーブルづくりの任務は亀山に委ねられた。

  視聴率競争において、フジテレビは民放キー局の3位に転落するという屈辱を味わったばかりだ。2012年度の平均視聴率は、ビデオリサーチの関東地区の調査で、テレビ朝日が1959年の開局以来、初めてゴールデン(午後7時~10時)とプライムでトップに立つ2冠を獲得した。全日帯(午前6時~翌日午前零時)は日本テレビである。フジテレビはそれぞれの時間帯で、その差は僅差ではあるが、テレ朝と日本テレビの後塵を拝した。

 亀山は「踊る大捜査線」などの人気番組のプロデューサーから、経営陣に加わってからは映画事業を担当して、この分野におけるフジの地位を確立した立役者である。

 2012年の邦画の興行収入をみると、フジが製作した「海猿」「躍る大捜査線」「ワンピース」シリーズと「テルマエ・ロマエ」がベスト4に並んだ。

 新社長に就任する抱負を聞かれた各種のインタビューのなかで、フジの不振の原因について、亀山は次のように繰り返し述べている。

 「今がとらえられていない。作り手が自信を失っている」と。

 放送収入と視聴率において、民放の首位を独走してきたフジの歴史を振り返る時、テレ朝同様に民放としては後発だった同社の勃興と、熾烈な視聴率競争のなかで守勢に立たされ、亀山がそのトップに就いたのが必然であるように思われる。

  「大編成主義」といわれる放送業界としては画期的な組織運営の改革がなされたのは、亀山が入社した1980年のことである。編成部門が組織のトップに立って、視聴率がとれる番組をつくりだそうとするシステムである。

  この年に社長に就任した鹿内春雄は、番組制作の外注を止めて制作局を創設したのである。当時は民放の雄は、東京放送すなわちTBSであった。夕方のニュース番組「ニュースコープ」を看板として「報道のTBS」を誇り、長時間の大型ドラマを手がけて「ドラマのTBS」とも呼ばれた。

  番組の制作能力において劣勢であったフジの態勢を整えるために、鹿内はそれまで番組制作を担っていたプロダクションなどからも多くの人材を社員化とするとともに、制作の主力に若手を起用していったのである。亀山もそのひとりである。

 トレンディドラマというジャンルや、バラエティーの新しいジャンルを開拓して、フジは民放のトップに躍り出た。この流れのなかに、「踊る大捜査線」もある。

  フジは報道部門でも組織の拡充を図って、ライバルを追いかけた。1985年8月に日本航空機が御巣鷹山に墜落したとき、生存者の映像を中継したのはフジのスクープである。テレビ局としては初めて、日本新聞協会長賞を受賞した。報道局長は日枝である。

  亀山の言葉を借りれば「今をとらえていた」のである。

  「報道」と「ドラマ」はバラエティーなどとならんで、テレビ局の大きな柱である。ふたつの柱で「新製品」づくりに励んだフジが歩んだ道に沿うようにして、テレ朝がついにトップの座にのぼりつめた。制作に若手を登用し、深夜帯のドラマやバラエティーで実験的な番組づくりに取り組み、そのなかかからゴールデンやプライムに昇格させた。

  日テレ、テレ朝、フジの三強によるツバぜり合いから、ちょっと目を転じればNHKもまた、80年代のフジの大転換に匹敵する変貌を遂げている。2011年まで放映された「サラリーマンNEO」は、その代表作ともいえる下ネタもからませたドラマ仕立ての異色シリーズで、映画化もされた。朝のテレビ小説の最新作「あまちゃん」は、フジのヒットドラマの脚本家である宮藤官九郎を起用している。

  フジの視聴率奪還戦略は、短期的にはドラマ、中期的にはバラエティー、中長期的に報道のテコ入れ、と計画されているという。プライムタイムの番組を5月20日の月曜日に地上波とBSを、リアルタイムと録画によって、冒頭のように追ってみると、この戦略がはっきりとわかる。

 「大編成主義」をきっかけとして、民放の雄となったフジはいまや、番組制作は子会社の共同テレビなど、外部に頼るようになった。しかしながら、民放のなかではやはり伝統的に編成が強い権限をもつ放送局として知られている。

  「作り手が自信を失っている」という亀山の言葉の含意を推測するならば、編成が主導する番組の企画、キャスティングなどで成功した体験が、足かせになっているのではないか。

  例えば、「月9」のシリーズはいま「ガリレオ」がドラマの視聴率競争においてトップを走っている。しかしながら、このしばらく視聴率が低迷していた要因のひとつとして、競争に勝たんがために、各世代に受けると思われる俳優とタレントを組み合わせることによって、かえってドラマが「今」を撃っていなかったのではなかったか。

  「躍る大捜査線」の主人公の巡査部長・青島俊作の名台詞を使っていうならば、視聴率競争は、今を撃つ制作現場に解決するカギはありそうだ。

 「事件は会議室で起きているんじゃない」なのである。

 追う立場から、追われる立場になって、そしていま再び追う立場となった。80年代の急上昇のDNAは、まだ生きているか。その先頭に立つ亀山の前には、三強ばかりではなく、今度はNHKまでもが立ちはだかろうとしている。

 (敬称略)

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  自民党と公明党が大勝して、政権が交代することになった衆議院選挙は、次のステージの幕開きを告げる序章に過ぎない。

 新しい首班が指名される、26日の特別国会の開幕ベルが鳴るまで、政権の骨格をめぐって、政局は第2幕を迎えている。

 政治は不連続である。一寸先は闇の世界で政治家たちはもがいている。 

 衆院選の投開票日である16日、わたしは東京都知事選の選挙事務所にいたのだった。衆院選と都知事選がダブルでおこなわれるのは、史上初めてである。

 青春時代にそのデビュー作である「天皇の影法師」と「日本凡人伝」を読んで、無名のノンフィクションライターに私淑したのが、この日のわたしの場所であった。

 当選を果たして、第7代の東京都知事に就任した猪瀬直樹氏は、10年後に共通の知人によってその事務所を訪ねたのが交流の始まりである。

 都知事選挙のなかでは、キャンペーンの内容などで意見を述べた。ボランティアのスタッフである。

  選挙戦のなかにいたので、コラムの執筆を絶ったのと、個人の公式ホームペーやツイッター、フェイスブックの更新を停止した。

 そこまで慎重になる必要はないのだが、選挙事務所のスタッフとしては、自らの言論がなんらかの形で、選挙戦に影響がでる可能性をゼロにする必要を感じたのだった。

  選挙にかかわるのは、これが初めてではないが、コラムニストとして選挙の片隅にいる経験はまったく未経験であった。自ら書くことを封印して。過去の選挙戦では、ビジネスマンとして有給休暇をとって、つまり政治活動の自由の行使として参加したのであった。

  選挙戦を戦う側から、この衆院選をみるとき、熱狂なき自民党と公明党の勝利ではなかったか、と思う。わたしは、ボランティアの片隅に位置して、街宣車に乗ったわけでもなく、ビラ配りをしたわけでもない。しかしながら、初冬の首都の町々でおこなわれた候補の遊説には同行して、人々の反応に耳をそばだてたものであった。

 東京の冬の美しさに目を奪われた瞬間でもあった。都のシンボルともなっているイチョウの葉が青から黄に変わり、そして落葉して地面を覆うさまはなんとも美しい。

 街宣車の後を追って、タクシーで走り抜ける街の夕暮れもまた、乾いた空気のなかで茜色にビルが染められるシーンを幾度もみた。

 丸の内のビル街から、荒川沿いの下町、そして、スカイツリーが間近にみえるターミナル駅……

  2012年12月16日(日)午後8時、NHK総合の「衆院選2012 開票速報」がはじまった。

 ヘッドラインは、「政権交代へ 自民党単独過半数 自公320うかがう」である。

 始まったときには、最後の結末は予言されている。

  テレビや新聞の事前の世論調査の精度はここ5年前後で、ますます高まっている。わたしは、新聞記者のかけだし時代の1980年前後に取材網の末端である、地方支局でその県の選挙区の世論調査を担当した経験がある。

 そのときの世論調査は、あくまでも記事の材料であり、実際の候補者の当落を予想するのは、地域の選挙に詳しい町長や県議などのもとを記者が足であるいて取材するデータが重要であった。

 最近ように、自動的に電話をかけて、音声が質問するのではなく、当時は、学生アルバイトが無作為に抽出した名簿をもとに、実際に有権者を訪問して質問する方式であった。

  事前の世論調査のみならず、投票日の投票所の会場でおこなわれる「出口調査」の手法と精度も飛躍的に向上している。

  NHKの出口調査は、全国約4200カ所の投票所で、約46万人を対象として、約31万人の回答を得ている。

  始まっているときには終わっている、選挙速報番組をどうするか。

 報道は、ルポルタージュつまり現場中継と分析が重要な柱である。

 選挙速報番組は、現場中継に加えて、これから「分析」がよりその比重を増していくべきではないかと考える。

 世論調査と出口調査の分析項目の工夫が、テレビ局の報道の優劣を分ける。

 NHKの「衆院選2012 開票速報」の分析のなかで、優れていると思ったのは、無党派層のそれであった。

  前回の民主党が政権をとった衆院選では、支持政党(いずれも%)は、民主32、自民35、無党派21だったのが、今回は、民主19、自民32、無党派24、となっている。

 支持政党の数字では、自民はほとんど前回と変わっていない。自民党の地滑り的な勝利について、これでは説明ができない。

  支持政党別に、比例でどの政党に投票したか、その出口調査も興味深い。

 自民党支持のうち、73が自民党に投票したのに対して、民主党支持は、民主にいれたのが65にすぎない。しかも、自民に7、維新に12も流れている。

  無党派層の分析が、衝撃的な数字だった。

 無党派のうち、民主が16、自民が20、維新が27、公明が5、共産6、みんな14、社民3、大地1である。

  無党派がさまざまな党に割れた結果として、自民が大勝したのだった。

  選挙速報番組の視聴率は、NHKの「衆院選 2012 開票速報」がトップで17.3%、第2位はテレビ朝日の「選挙ステーション2012・第2部」10.1%だった。

この結果は、「分析」の差ではなかったか、と思う。

WEDGE Infinity 田部康喜のTV読本

 http://wedge.ismedia.jp/category/tv

 

 

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 宮城県女川町の高台にある町立病院の駐車場から、巨大津波によって消滅した町が眼下に広がる。病院は標高16㍍の位置にある。

 天然の良港である女川湾をと囲むようにして、瓦礫が取り除かれた白い町跡がみえる。

 9月中旬だというのに、真夏のような陽光が照りつける。

  鉄筋コンクリートの4階建てのビルが、土台から地中に打ち込まれていた金属製の杭を横向きにして、まるで倒れたつみきのようにころがっている。

 港を望む町立病院を津波は、背後の道路を駆け上るようにして襲ってきた。病院の1階の柱に大人の背丈を超える位置に、赤い線が引かれている。標高と合わせると、高さ18㍍を超えたのである。

 東日本大震災による死者・行方不明者の数は、女川町で900人近い。人口に占めるその比率を数値化するのは、あまりにも無残であるが、三陸沿岸の市町村のなかでは最も高い9%近くに達する。2010年の国勢調査による人口は、1万51人。町外に転出した人も多くでて、8月末には8171人になった。

 町が消滅した女川の悲劇を報道人として、最初に伝えたのは、三陸河北新報社(本社・石巻市)の佐藤紀生(54)であった。

 三陸河北は、東北を代表する新聞のひとつである河北新報社(本社・仙台市)が1980年、石巻地方のニュースの充実を図る目的で設立した子会社である。河北新報の本紙に織り込む形式の地域紙「石巻かほく」を発行している。月曜日付だけが休刊の日刊紙である。

 あの日、佐藤は女川町役場で議会を取材していた。巨大津波に襲われて、その屋上に町長と町民ら70人近くと避難したのだった。津波は屋上まであと20㌢まで迫った。

  「石巻かほく」の1面トップに掲載された、佐藤のルポルタージュにその瞬間の描写は任せたい。「波間に消える人、家」の白抜き6段見出し、「議場に地鳴り 鳴り響く」そして「現実か 目疑う“地獄”」の脇見出しも。

 「地下の駐車場に水が入ってきた。それは序の口にすぎなかった。もう一度海に視線を向けた瞬間、流れてくる2階建て家屋が数軒見えた。水かさもどんどん増していく。あっという間に役場の4階まで水没した」

 「死ぬかもしれない。言い知れぬ恐怖が体を貫く。煎餅がわれるようにばらばらに壊れる家。横倒しになった漁船。鉄筋のビルまでが流れてきた。電線がちぎれ火花が飛ぶ。がけは崩れ、大木もろとものみこまれていく。住宅街だったところは一面、茶色の海」

 「引き潮が始まった。ものすごい速さだ。車、木、家が役場に激しくぶつかる。そのたびにどしんどしんという震動、きしむ音が聞こえた」

 このルポルタージュが掲載された、三陸河北の日付は2011年3月14日(月曜日)である。本来なら休刊日である日に表裏、たった2ページの新聞を発行した。大震災の翌日と翌々日の2日間、休刊しただけだった。

  親会社である河北新報は、翌日付の新聞も発行し休刊しなかった。経営者と記者、営業の担当者、販売店を描いた「河北新報のいちばん長い日」(文藝春秋社)はベストセラーとなり、日本テレビが、震災1周年を記念してドラマ化している。

  三陸河北の佐藤の物語はこれには綴られていない。津波が去った翌日、町民から借りた自転車に乗って、佐藤は本社がある石巻を目指した。北上川の河口に近い場所に建つ本社ビルも、編集部門があった1階部分が流されていた。

 乗用車をヒッチハイクしながら、佐藤は仙台市の親会社に夕方たどり着く。

  「仙台がダメだったら、どこでもいい、原稿が書けるところまでたどり着こうと思いました」

  小柄でやせぎすの佐藤は柔和に言葉をついで、あの瞬間を振り返る。

  河北の本社で、佐藤を迎えた経営陣のひとりが常務の西川善久(64)だった。編集局長など編集畑一筋に歩んできた。10日後の3月22日の株主総会で常務を退任し、三陸河北の社長に就任することが内定していた。

 巨大津波が町を消滅させた目撃者として、記事にしたい一心でたどり着いた佐藤はある種の興奮と疲労によって、書くことは難しい、と西川はみてとった。同輩記者が口述筆記するようにして、佐藤のルポは翌日の河北新報に掲載された。

 そして、西川は当時の三陸河北の社長と相談して、発行をうながした。三陸河北新報の1面に佐藤のルポが掲載された、3月14日付の紙面である。

  石巻地方の地域紙として、ライバル関係にある石巻日日(ひび)新聞が震災後、印刷が困難となり、壁新聞を出したことは、一般にも知られている。手書きの壁新聞は3月12日から17日まで発行された。この新聞は、米国のニュースジャーナリズム博物館に永久展示されている。

 石巻出身の俳優である中村雅俊を日日新聞の社長として、テレビ東京がドラマ化している。このなかで、コンビニに壁新聞を貼り出した中村が、隣に貼られた活字の新聞をうらやましそうに見るシーンある。それは「石巻かほく」である。

  関東大震災のとき、新聞社はどうしたか。本社が焼け落ちた朝日新聞もまた、手書きの号外を出した。通信社と広告代理店の機能が一体だった当時の電通は、ガリ版刷りの新聞を発行した。これに対して、社屋が被害に遭わなかった毎日新聞の前身である、東京日日は新聞を出し続けた。震災で避難した人が無事を知らせ、あるいは行方不明の人を探す、いわゆる案内広告が同社に殺到した。

  新聞を発行し続ける、それは印刷から販売、広告まで、それぞれの機能を生かさなければならない。企業が危機に遭遇した際の「継続性」の問題である。

  早稲田大学出版部がブックレットの「『震災後』に考える」シリーズで6月、「ともに生きた 伝えた 地域紙『石巻かほく』の1年」を発刊した。

 佐藤をはじめとする地域紙の記者たちの活動にはじめて、光が当てられた。新聞が避難所や被災した家庭に届ける販売店網の復旧のありさまや、震災の取材において、通信が途絶したときにどのような対策をとったのかなど、多角的に論じられている。メディアの研究者の間で、評価が静かに高まっている。

  大震災は新聞社の人々の人生も変えた。河北の西川は常務の退任を引き伸ばされて、兼務のまま三陸河北の社長を務めている。地域紙である三陸河北の地元に密着した取材網を生かして、新聞連載を起点とする出版活動に力を入れている。震災の写真集は、石橋湛山賞の最終選考まで残った。巨大津波に襲われながら生存した人々の証言を綴った「津波からの生還 東日本大震災・石巻地方100人の証言」(旬報社)もまた、地味な本にもかかわらず版を重ねている。

  津波に洗われた、石巻の本社を改修して、その1階に入居者として迎え入れたのは、ヤフーの「復興支援室」だった。いまのところ、ヤフーと三陸河北が協業するケースはでていないが、ネットメディアと交流がはじまっている。ヤフーは単独で地元の物産のネット販売などを手がけている。

  世界的に著名な投資家である、ウォーレン・バフェットが米国内の地方紙を相次いで、買収している。「ハイパーローカル」といわれる対象の小さな新聞社は、63社にものぼっている。米国の新聞社が経営に行きづまって、次々の廃刊するか、ネットメディアへの転身を迫られているなかで、バフェットの投資はひときわ目立つ。

 「投資の対象として買収している」と、バフェットは地域情報によって、人々の生活を支える目的の篤志家ではない、といっている。地域に根ざしたハイパーメディアは、十分に利益が出ると踏んでいるのである。

  三陸河北新報社は、発行部数が4万部。震災直後は3万2000部まで落ち込んだが、回復基調にある。定価は月額200円。社員36人を抱えて黒字である。

 (敬称略)

 nikkei BPnet    「メディアラボ――メディア激動の時代を考える」

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120406/304866/?ST=business

 

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