ブログ

メディア論

このエントリーをはてなブックマークに追加

 地下鉄・永田町駅の売店のニューススタンドで、ジャパンタイムズとヘラルドトリビューンを買う。政治の街の地下にある、駅の乗降客の情報感覚がわかる新聞の品ぞろえである。

 このふたつの英字紙のスタンドのラックが今年10月からひとつになる。

  ジャパンタイムズがヘラルドトリビューンの発行元である、ニューヨーク・タイムズ(NYT)と提携して「ジャパンタイムズ/インターナショナル・ニューヨーク・タイムズ」を発行する。新たな英字紙はふたつのセット紙で、第1部がジャパンタイムズで、第2部がNYTである。

 ジャパンタイムズは1897(明治30)年創刊の日本を代表する英字紙である。「ヘラトリ」の愛称で知られる、インターナショナル・ヘラルドトリビューンの前身は1987年創刊のパリ・ヘラルド。ワシントン・ポストとNYTがともに経営にかかわった時代もあった。

  日本の英字紙市場における両紙の提携の背景には、世界的な新聞のデジタル化競争がある。先行するウォールストリート・ジャーナル(WSJ)とファイナンシャル(FT)に対して、NYTはいま、デジタルと紙のセットによって両紙を追走している。

 歴史あるヘラルドトリビューンの社名と題字を「インターナショナル・ニューヨークタイムズ」について、NYTは今年後半に改める。

 ジャパンタイムズとのセット紙の読者は、NYTのサイトとスマートフォン、タブレットのサービスを無料で利用できる。

 東京の地下鉄やホテルのニューススタンドが今秋に、ちょっと模様替えになる。デジタル化の潮流はすでに、日本の英字紙市場を大きく変えている。

 世界を代表するWSJもFT、NYTもネットの契約で直接読める。ワシントン・ポストもまた、最近ネットの無料モデルからライバルと同様に有料モデルに大きく舵を切った。

 日本の英字紙市場はどうか。日本ABC協会によると、2012年下半期の部数は、ジャパンタイムズが2万7225部、ディリー・ヨミウリが2万6673部である。このほかにニッケイ・ウィークリーがある。朝日新聞が発行していた、アサヒ・イーブニングニュースも、毎日のマイニチ・ディリーニューズもすでにない。マイニチは2001年にウェブに移行した。アサヒ・イーブニングニュースは2011年まで10年間、独自編集路線を変更して、ヘラトリの記事を合わせて編集した「ヘラルド朝日」を発行した。

 日本の戦後の英字紙市場をおおざっぱに振り返ると、老舗のジャパンタイムズとアサヒ・イーブニングニュースが2強であった時代が長く続いた。1990年代に入って、ディリー・ヨミウリが低廉な価格で構成をかけて、ジャパンタイムズと並ぶ形となった。そして日刊英字紙として2紙が残った。

  英語を母国語としていない国なかで、英字紙が4紙も競合していた例はないといわれる。その理由とはなんなのだろうか。もちろん英語学習の手段という側面を否定するものではない。

 しかしながら、おおきなヒントが、戦前創刊のジャパンタイムズもマイニチ・ディリーニューズも、戦争中に1日も休刊しなかった事実にあるのではないか。敵性言語として一般にはその使用が制限されていたにもかかわらず。

 日本の主張を英語で発信するために、政府が発行を継続する方針をとったばかりではなく、日本軍がフィリピンやシンガポールなどを占領すると、英字紙の現地印刷も試みられたのである。

 日本政府や日本の事情を知ろうとする読者の需要に応えたといえるだろう。

  日本の英字紙が活況を呈したのは、終戦直後に駐留軍をはじめとする大量の外国人が日本に住んだ時代と、日本経済がバブルに向かって沸騰した時代である。日本の情報に飢えた人々がいた。軍人とその家族であったときも、日本株や債券を売買する金融機関のディーラーだったときもあったろう。

 ジャパンタイムズとNYTのセット紙は成功するだろうか。アベノミクスによって、日本経済が再び「日が昇る」とするならば、可能性がないわけではない。

 しかしながら、日本の英字紙が興隆したこれまでの時代と決定的に異なる環境は、いうまでもなく、インターネットという武器をいかに使うかである。

 セット紙の販売に向けて、ジャパンタイムズのネット戦略がどうなるかはいまのところはっきりとしていない。NYTと同様の「紙もネットも」のビジネスモデルを構築できるだろうか。

 日本の新聞業界のなかで、デジタル化路線の先頭に立っている日本経済新聞はすでに、2002年3月に「英文改革検討委員会」を立ち上げて、ニッケイ・ウィクリーの方向性を確定している。英文の速報を大きな柱として、夜間の業務を全面的にニューヨークに移管したのである。紙はタブロイド判に改定した。ネットとタブロイド化によって、読者を増やしているWSJの戦略を先取りしている、といってはほめすぎだろうか。

 世界的なデジタル化の潮流をふまえながら、日本のメディアとして英文の発信をどうするか。経営課題として重要な点である。

 ヘラトリとの提携関係を解消した朝日の経営判断も、その当時の採算性の視点からはうなずけないでもない。

 さて、NYTの世界戦略の日本の担い手となった、ジャパンタイムズの方向性は一応決した。このままの形で、経営の継続性は確保されるだろうか。ディリー・ヨミウリはどうするか。

 日本の英字紙市場は、計10万部といわれて久しい。中堅の地方紙並の部数ではあるが、この小さな市場で起きている現象の先に、業界全体の未来がみえる。

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「鬼の十訓」 マネジメントの先駆として

  吉田が部下たちに与えた、仕事を進めるうえでの原則「鬼の十訓」はひとり広告界のみならず、ビジネス界に知られている。経営者のなかで、いまもその信奉者は少なくない。

 電通について、吉田は知識労働者の会社であることを繰り返し述べている。こうした知識労働者の仕事をいかに科学的かつ創造的に進めるかについて、経営者として考え続けたのである。その意味では、工業社会から知識労働者の時代を迎えるなかで、ドラッカーが発見した「マネジメント」の概念を、吉田もまた気づいていたというべきである。「ポスト・資本主義の時代」の著作のなかで、ドラッカーは、知識労働者を働かせるのと、工場労働者を時間の規律のなかで働かせるのとではまったく異なる、と指摘している。

 吉田が「鬼の十訓」を作ったのは、1951年夏のことである。民放の設立にまい進した吉田が、その方向性を確信したころのことであった。

 「鬼の十訓」をみていこう。

一、仕事は自から「創る」べきで与えられるべきではない。

二、仕事とは、先手先手と「働き掛け」て行くことで、受身でやるべきものではない。

三、「大きな仕事」と取り組め。小さな仕事は己を小さくする。

四、「難しい仕事」を狙え。そしてこれを成し遂げる所に進歩がある。

五、取り組んだら「放すな」殺されても放すな。目的完遂までは・・・。

六、周囲を「引きづり廻せ」引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。

七、「計画」を持て。長期の計画を持っておれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。

八、「自信」を持て。自信がないから君の仕事には、迫力も粘りもそして厚みすらない。

九、頭は常に「全回転」八方に気を配って一分の隙もあってはならない。サービスとはそのようなものだ。

十、「摩擦を恐れるな」摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと君は卑屈未練になる。

 戦後の経済界にあって、「マネジメント」の先駆者である吉田の肉声を、「広告の中に生きる男」から引きたい。

       一番大切なのは、才能のマネージだ、才能のマネージが強力に行われるか行われぬかによって、業績は伸び縮みもする。       幹部諸公はあるいは局部長は自分の好みを基準にして社員の才能なり社の勤務ぶりを判断していないか。……多種多様        な性格が綜合されて、はじめて、広告サービスという生産がある。才能が企画化され、極度にその回転が高まらねばなら         ぬ。同種類の要素が同一のところへ集まっても、それは何も出来ない結果となろう。

 吉田はまた、調査研究すなわちマーケティングの理論と実践によって、広告業界を科学的に発展させようとした。上記から再び、彼の肉声を拾っていく。

       先ず市場調査それに市場の分析、それの調査員、そして調査の結果の分析等、これを行うのには先ず素材から集める必要       も生じよう。これも一種の才能の業である。

       アメリカの調査機関は独立しているし、いわばアメリカ全体が調査の大工場でもある。しかし、日本にこれを望むべくもないと      すれば、広告関係の市場調査は重要な広告サービスでなければならない。この市場調査の結果から宣伝広告の立案計画が      生まれる。

 マネジメントの要諦は、人事評価とあるポストに人を動かす人事にあるのはいうまでもない。経営者が「鬼の十訓」から学ぼうとしている、その要諦について「われ広告の鬼とならん」は、抜擢人事について述べながら、吉田のマネジメントの本質に迫ろうとしている。吉田は、管理職に対して、週に1回も部下の査定をさせていたのである。

       (吉田は)抜擢人事と、日本伝統の年功序列人事の、二つのケースをどのように調和させて、優秀な人材を育てていくか、と       いうことを苦慮するのだ。人は数字の上で判断することができるかが、それ以上の感情的なものは心にいつまでも残って、し       こりとなり、トラブルにもなる。

          ……だから、ある面で優れている者が総合点で評価されなかったとすると、どうしても自分を取ってくれなかったのかと        不満が残るのだ。

 評価の適正化を図るために、吉田は管理職から週1回の考課表を提出させた。同じラインのみでは評価が公平ではない可能性があるので、部を越えて他の部署の部下について、他の部長に評価させもした。

 では、抜擢人事はどのように行われたのか。吉田は次のようにいっていたと、「われ広告の鬼とならん」はいう。

       「抜擢ということは、その時だけの評価で行っては、失敗することが多い。長い間の成績を見て行えば、たとえその時目立っ       た成績でなくとも、その社員は必ず立派な働きをして、期待に応えてくれるものだ」 と、吉田はいう。社員によれば、抜擢人       事については、昔の人事のことで現在は行われていない、と見られていたくらい、静かな水面下で行われていたという。

 広告界における人材の育成について、吉田は電通というひとつの企業だけではなく、業界に人材を厚くしなければ、日本の広告の発展はない、という方向性を認識していた。1959年8月に設立された「広告宣伝グループ」はそのことを物語っている。このグループが発足に至ったのは、企業の枠を超えて、広告業界で働く20歳代、30歳代の中堅社員を集めた吉田の勉強会にあった。「広告宣伝グループ」はのちに東京中心から大阪も含めた、「青年広告研究会」に発展する。このメンバーのなかにはその後、電通の社長になる木暮剛平や成田豊らもいたのであった。

 (この項 了)

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

正力のテレビ構想と吉田

 テレビ放送が始まってから、2013年は60周年である。NHKの本放送の開始は1953(昭和28)年2月 1日午後2時、祝賀番組は尾上梅幸と松緑らによる「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」。日本放送が開局した同年8月28日の記念番組のトップも歌舞伎 に題材をとって、宝塚の天津乙女と南悠子による舞踏「寿式三番叟」であった。

 テレビ放送のスタートに至るまでに、あれほどまでにラジオの民間放送開局の先頭に立った吉田が、テレビについては当初積極的ではなかった。その理由は、ラジオがすでに戦前からのNHKの放送の普及によって、受信機が戦争直後で800万台を数えていたのに対して、テレビは受像機をゼロから普及させなければならないというのが、その主要な論点であった。

 ソニーの前身である東洋通信機工業が、井深大と盛田昭夫によって戦後まもなく設立されたときに、ラジオの修理であったエピソードはそのことを物語る。「日の丸石油」の輸入で知られる、中東から石油メジャーの手を経ないで自らが輸入を図った出光佐三が、戦後外地から引き揚げてきた社員や石油卸の事業の再興のために、一時的に取り組んだのもまたラジオの修理事業であった。

 ラジオの民間放送が開始されて、「ラジオの時代」を迎えたとき、テレビはまだ「電子紙芝居」と放送業界でもいわれて、今日の発展を読めなかった関係者が多かったのも事実である。

 日本のテレビ放送の先頭にたったのは、読売新聞の中興の祖である正力松太郎であり、吉田は正力との議論と、力の牽引するテレビ事業の将来性をいち早く読み取って、ともにテレビ事業の立ち上げにかかわっていくのである。

 「広告の中に生きる男」のなかで、筆者の片柳は、ラジオ東京の取締役会における、吉田の「テレビ尚早論」発言を紹介している。

       ラジオの場合はNHKが20年以上の努力を続け……いわば畑が耕されている、その畑に商業放送という種をまいたから、そ        の生育がよかったが、まだNHKが手をつけていない畑を開墾して、肥料をやり、土をならし、種をまかなければならないとす        れば、それに要する費用と努力は大変である、テレビの必要性は認めるが今すぐテレビに取り掛かる事は時期尚早といわね       ばならぬ。……従ってテレビの発足は、NHKの畑を上手に利用する事こそ賢明ではなかろうか、せめてNHKが30万台のテ        レビ受像機を持つようになってかれでも商業テレビはおそくはあるまい。

さらに、吉田は、正力の新聞人としての天才性についても触れているのである。自身の解はあくまでも実業家のそれであり、正力の構想について敬意を払っている。

        自分の意見は常識論だ、もし、経済人であるなら自分の意見を常識として受け入るだろう、しかし正力さんは新聞人であり        天才だ、正力さんの頭の中や、新聞人の考える事は常識では割り切れぬ要素を50%が持っていよう、しかし自分はここで        経済人としての常識論を述べているのだ。

 これに対して、正力のテレビ構想は、家庭にテレビ受像機が普及する以前に街頭にテレビを置いて、大衆に現実のテレビをみせていくことから、テレビ放送をはじめることであった。この発想のもとには、電通が都内各地に建てた巨大なネオン塔の存在があった。正力がテレビの成功を引き寄せた街頭テレビについて論じられることは多いが、その泉源について記述している例はほとんどない。

 「われ広告の鬼とならん」の筆者である舟越は、正力の街頭テレビ構想と巨大ネオン塔が絡み合っていることを論じている。

         (昭和25年)電通は上の広小路に東洋一という巨大な森永製菓、乳業のネオン塔(約35m)を完成させていた。ネオン管         (全長約900m)は点滅して動きを表し、商標のエンゼルからキャラメルがばらまかれるアイデアが評判になっていた。この         頃、各地でネオン管が街頭に建てられるようになっていた。こうしたことを、正力は目にして、街頭テレビの発想となった          のではなかったか。

 舟越は、この裏付けとなる正力の発言を引いている。

        わたし共の計画では家庭用受像機の外に少なくとも新宿、渋谷、銀座、上野などの人出の多い所に大きなスクリーンを公        開して大衆に無料で観覧させるのであります。……テレビジョンの実況を見せると共にニュースを聞かせ、これを中継線に         のせて全国放送するのであるから広告効果は絶大なことは当然。

 正力構想に対して、NHKは制度的な限界から街頭テレビの設置はできなかった。ラジオの聴取料をテレビの創設の費用に使ってはならなかったからである。そのための資金は借入によってなされた。

 テレビ草創期の爆発的な人気を物語る映像として、小さな受像機に群がる人々の波の写真が使われる。当時朝日新聞の本社があった東京・有楽町近くの西銀座であった。そしてその受像機を通して、人々が熱狂したのは、力道山のプロレスであり、プロボクシングの試合であった。正力の設立した日本テレビは、開局後わずか7カ月でランニングが黒字に転換するのであった。

 正力の構想に括目して、吉田もまたテレビ放送の普及と促進に電通の総力をあげる体制を整えたのであった。正力に対する吉田の敬意は、その後、正力の胸像を日本テレビに贈った逸話に現われている。

 (この項続く)

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

 ラジオにまい進する

  終戦によって、日本を占領した米軍による占領軍当局(GHQ)は1947年10月、「私営(民間企業による)放送会社の助長」という方針を示した。これに対して、吉田が主導する形で、東京商工経済会(現在の東京商工会議所)の理事長であった船田中を委員長に、吉田が副委員長として「民衆放送株式会社」設立準備委員会が、この年の12月に発足した。

 吉田のこの民間ラジオの構想は、GHQの方針が揺れ動いたことや、日本側の中心人物が占領軍による公職追放などに合ったために、紆余曲折を遂げたが、1949年1月に吉田が発起人となって、「東京放送株式会社」の申請をおこなった。

 ラジオのビジネスモデルは、先進地の米国で当初議論の対象となった。すなわち、聴取料金を取った家庭にだけ電波のスクランブルを解除する方式と、広告方式による両案であった。米国は広告方式をとった。戦前にも民間放送の構想は浮上したが、日本放送協会(NHK)の受信料による放送だけとなった。

 戦後の民間ラジオ放送のビジネスモデルをどうするか。NHKの受信料の一部を民間放送会社が受け取る方式も論議された。宝塚歌劇団の公演をラジオ放送することを考えた、阪急グループの小林一三もその案であった。

 吉田はいっかんして、「電波は国民のものである」という立場をとって、広告モデルによる民間ラジオ放送にまい進した。

 「われ広告の鬼とならん」によれば、吉田は実に、戦前の満州において満州電信電話会社が行っていた民間ラジオ放送を研究していた。満州では、昭和5年ごろからハルビンで、ロシア語による広告放送があった。昭和8年からは日本語の放送が始まった。

     満州の放送は民間放送であったが、聴取料と広告放送料金との二本建をとっていた。……放送施設の運営は赤字で電信電話     からの援助に頼らなければならなかった。しかし聴取者が70万を越えて自給できるようになった記録がある。……広告主は広      告放送することによって、音楽番組や芸能番組などを提供する編成であった。

 吉田が、日本でも広告モデルによるラジオ放送の可能性を確信していたことがうかがえる。満州に注目したのは、創業者の光永のもとで、満州各地の新聞に広告を取り次ぐ事業に成功した経験があったものと考えられる。

 また、後述することになるが、広告代理店の近代化のために、調査機能を重視した吉田は、戦後満州から引き揚げてきた満州鉄道の調査部の出身者の多くを、電通に入社させるのである。関東大震災後の復興計画を担った後藤新平が、満州において都市計画に取り組んだ経験をもっていたのをはじめ、戦後の新幹線の建設にあたっても、従来の狭軌ではなく広軌であった満鉄の経験者が多く参加していることは、よく知られた事実である。ラジオ放送においても、戦後の民間放送のモデルが存在していたことはあまり知られていないのではないか。

 ラジオすなわち電波による広告について、吉田は現代のインターネット広告の概念に相当する考えを当時表明している。すなわち、広告の王座にあった新聞は紙面の限界があるが、ラジオは原料費がかからない、というものである。ラジオには放送時間という限界はあるが、紙の資源を使う新聞に比べると、無限の可能性があるというわけである。

 また、電波は国民のものであるという観点から、ラジオの時間をスポンサーとして費用を払わないで使ってはならないという原則を貫いてみせた。ラジオのスタート当初、株主や経営者として加わった新聞社が自社の冠を使ったニュース番組を流していた。これに対して、吉田は、新聞社もスポンサーとして費用を支払うべきだと主張したのである。

 そのために、電通が文化放送のニュース番組をスポンサーとして費用を支払い、時事通信のニュースを3年間にわかって流したのであった。「広告の中に生きる男」の筆者である片柳は、このエピソードに触れたあと、次のように述べている。

      何も電通がスポンサーになったところで、電通が一般に売るべき商品があるわけではない。それをやらねばならぬところに、       彼の主張があるのだ、電波は特権を持つもののためにあるものではない。いついかなる場合も、公平に扱われるべきものだと      する。これを機としてニュースは新聞社の提供から一般スポンサーの誰でもが買っておくれる立場をつくりあげた。

 その後、民間放送に対する進出の申請は大手新聞社や一般企業などから多数の手が上がった。東京地区では計28社が申請。郵政省が一本化を図ろうとしたが失敗し、吉田が乗り出すことになった。朝日、毎日、読売の新聞社の申請と、すでに申請していた「東京放送株式会社」の件を吉田はまとめて、「株式会社ラジオ東京」として申請にこぎつけた。

 各地の放送局の開設にあたって、電通が各地方の有力なメディアである地方紙に呼びかけて、電通が申請の窓口になるばかりか、番組の編成や広告の募集まで電通が支援したのである。さらに、地方局には、電通の社員を次々に出向させている。

 「われ広告の鬼とならん」は、大阪に開局することになる新日本放送を舞台として、吉田によるラジオ放送に向けた人材登用のありさまを描いている。

      吉田は、電通大阪支社から新日本放送に営業部長として関亨を送り込んだ。関は労組初代委員長の経歴がある。

      吉田は有望な人材と見込むと、次々に放送局に入社させた。

      「電波媒体は伸びていく。電通は電波媒体に力を入れなければならない。しかし新しい電波会社に人がいないのだ。だから電      通に人を出してくれと頼みに来る。電波を成功させるためには、いかなる奴でも出すぞ」

       関が耳にした吉田の言葉はいつまでも残った。

 毎日新聞大阪本社の事業部長から、夕刊新大阪を経て、やはり新日本放送の準備に参画した小谷正一もまた、吉田が集めた民間ラジオ草創期の逸材である。小谷は、井上靖が芥川賞を受賞した「闘牛」の作品のモデルである。

 小谷が任されたのは、ラジオの料金制度であった。「われ広告の鬼とならん」は、この問題をめぐる小谷と吉田の議論を描きながら、草創期の多くの課題がそのつど試行錯誤の末に解決されたことを明らかにしている。

       小谷は、電波料金設定について、あれこれ思索した経緯をひとつひとつ出して説明した。アメリカの料金を日本流に翻訳した       こと、その十分間の電波料をアメリカの物価や給料の面など比較したこと、それに日本の新聞広告料金を当てて設定した         が、どうも高すぎる。これを半額にするとか、三分の一だとか、簡単にはできない……吉田は小谷に説明を聞いて「よく勉強        したな」と言ったそうである。そして「稼がなければならん金額を、売ろうとする全時間の何割で賄うように見積もるか。今度        は良い食い扶持を、今でいう肝づもりの時間数で割ってみれァいいんじゃないかな。そこではじきだされた数字と、君の試算       数字を引き合わせて最終決定することだ」……

       小谷は、その後、吉田に決定した電波料金表を見せに行った。全体が安かったらしく、吉田はその安さを納得できずに自説        を語ったが、小谷は変えなかった。

       その料金表は、「Aタイム30分は5万円」だった。その数字は、毎日新聞(大阪)夕刊の広告料から割り出したというもので、        一センチ一段1600円だった。一センチを一分に換算して30分4万8000円、端数を切り上げて5万円になる。

 小谷は、番組づくりに人材を集めた。NHKに対抗する番組を作らなければ、民放ラジオに活路はみいだせないからである。知人の劇作家高田保に相談したところ、高田は「大阪ローカルの色を出すこと。思い切った型を破る」「放送に関係のない部外者を選ぶ」「変わった番組を作れ」と助言した。現代の放送のあり方に通じる先見性がある。「われ広告の鬼とならん」は小谷のラジオ番組の編成について、次のように記している。これもまた、放送局のいまの編成のあり方を物語っているようである。

  NHKに立ち向かうには、アイディアで勝負する方法しかないと判断した小谷は夜の8時台に帯で「クイズ」番組を並べた。NHKも「私は誰でしょう」「話の泉」「二十の扉」などクイズ番組を幾つか作っていたが、放送時間が「30分」とか「15分」など時間がつかみにくいところに弱点があると読んだ。

 (この項続く)

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

 「交流促す学生寮次々 シェアハウス型や『国際寮』も」(読売新聞6月1日土曜日付朝刊)

 「くらし 教育」面のトップ記事「最前線」は、親元が収入源のなかで大学が学生寮を新たに開設する動きを紹介している。お茶の水大学の新しい学生寮は、キッチンとリビングを囲むように個室が並んでいる。洗面所と浴室、トイレは共有である。

 中央大学の学生寮は、やはりシェアハウス型であり、2、3人のグループには1人留学生が必ず入っている。

  「くらし 教育面」は、学生やその親に実用的な情報を伝えるばかりではない。水曜日には「しごと ズーム」のコラムで働く人々を紹介している。漢字にルビを振っている。小学生に将来の夢を抱かせる企画である。

 「カーデザイナー かっこよさも追求」(5月29日付朝刊)は、日産自動車のデザイナーが新車のデザインを完成させるまで約2年もかかるプロセスについて、わかりやすく解説している。

 現場の教師たちのリレーコラム「教室から」と「保健室から」、大学のルポ「大学の実力 現場を歩く」など、曜日によって多角的な企画が並んでいる。

 読売新聞は4月に教育部を新設した。編集局に新たに部を設けるのは、年金や介護などに取り組む社会保障部を作って以来、13年ぶりのことである。

  日本経済新聞は5月11日付から、毎週土曜日に「女性面」を新設した。編集長には、生活情報部の編集委員などを務めた阿部奈美を起用し、編集部は女性だけとした。働く女性をターゲットに絞った新紙面は初めてである。

 「女上司へ 部下へ ホンネでお願い」(6月1日付)は、業種の異なる部長3人と部下4による覆面座談会である。「まず やってみる (エネルギー・48才)、「自然体で接して (メーカー・27才)」・・・・発言のポイントを書いたフリップで顔を隠している。そのカラー写真を横組みで大きくあしらって、コーヒーカップを持つ手やヒールの足元のアップ写真を座談会の文字のなかに埋め込むようにしている。

 しゃれたレイアウトと相まって、新聞としては長尺の座談会もなかなか読ませる。女性の部下の育て方で気をつけることを問うと、「上司B(人材派遣)女性上司は“お母さん系”が多い。転んでも『大丈夫、もう1回頑張ってみよう』と走らせるのがうまい」と。

 ミニコラムも多彩である。「センス アップ」(5月25日付)は、海外出張の手土産に和紙のはがきや一筆箋などを勧める。「烈女」シリーズは転職の成功者たちの物語である。

  新聞はいま、新しいコンテンツの開発競争時代に突入している。それぞれの新聞が「社告」を1面に掲載して、新紙面を高らかにうたっても、ひとつの家庭が購読している新聞に限りがあるので、大きな潮流がみえにくい。

 朝日新聞も4月から大型コラムを2面に据えた。社会面はワイド編集となり、連載漫画「ののちゃん」は左面から右面に移った。これによって大型記事「ルポルタージュ現在」を収録する。

 毎日新聞は、シニア世代をターゲットにして「スローらいふ」面を土曜日付で開始した。連日3ページで「くらしナビ」として、衣食住のコンテンツを編集している。

  新聞の新たなコンテンツの潮流の底にあるものはなんであろうか。新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどの媒体の壁を越えて、コンテンツづくりにかけた生き残り戦略が始まっている。こうした動きを加速しているものは、いうまでもなくインターネットによるデジタル配信である。「紙」か「デジタル」かの神学論争はすでに終結した。紙とデジタルを合わせたメディアとして存続するためには、コンテンツの多様性こそキーであることに、新聞社もようやく気付いたのである。

  新聞の過去のコンテンツ開発にかかわった経験からいえることは、新聞社をこの競争に駆り立てる、これまでの要因は、社会的な要請であり、広告事情によることが多かったと思う。 

  読売が社会保障部の新設に向かったそのとき、朝日のなかで介護保険や年金などについて、取材する編集部「くらしのあした」の立ち上げにかかわった。その後、読売同様の「くらし部」に発展する。

 介護保険がスタートしたばかりのときであり、企業年金改革によって、米国で普及していた401kが日本でも導入される前夜であった。

 バブル経済にかけあがる投資ブームのなかで、読売は1986年2月に「読売家庭経済新聞」を有料・別売りで創刊した。朝日は夕刊の「ウィークエンド経済」面で対抗した。

 平成不況の広告需要を掘り起こしたのが、日経の「NIKKEI プラス1」(2000年創刊)であり、朝日の「be」(2002年)であった。

  世界の新聞業界をみわたせば、デジタル化に成功しているニューヨークタイムズやファイナンシャルタイムズを持ち出すまでもなく、デジタルのみの読者もさることながら、紙の定期読者に対して、デジタルの付加サービスを充実できかどうかが、戦略のキーとなっている。日本の新聞がいま繰り広げているコンテンツ開発競争もまた、こうした流れのなかにある。

  日本の新聞は、記者クラブ制度に守られてどれもこれも内容が変わらない――デジタル化を視野においた競争は、こうした「都市伝説」を覆そうとしている。

 政治、経済、社会のよほどの大事件がない限り、最近の新聞の1面トップの多様なことといったらどうか。ページを開いていくにつれて、各紙の個性も大いに現れている。

 コンビニのニューススタンドで、いつも読まれている新聞とは別のものを、たまには購入されることをお勧めしたい。

(敬称略)

DailyDiamond はダイヤモンドの購読者限定です。

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加