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「そのときメディアは」 関東大震災編 ⑰ 務台の述懐

2012年8月17日

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務台の述懐

 大震災後の東京の新聞界における販売合戦の渦中に、その後に読売入りして販売面で正力を助けるとともに、戦後の読売の大発展の戦略を描いた務台光雄がいたのである。早稲田大学専門部政治経済学科を卒業後、紡績会社の幹部を務めた務台が、報知新聞に入社したのは、震災直前の1922(大正12)年3月のことであった。発送部長兼販売部市内課長として、関西二大新聞の攻勢を東京の新聞の側から、見ることになった。

日本新聞協会が、1977(昭和52)年4月、5月に4回にわたった聞き取りのなかで、上記の販売合戦を振り返った務台は、この経験こそ、その後に朝日と毎日を闘う原点となったことを打ち明けている。

   大震災以後というのは、私に言わせれば強盗です。とにかくやるだけのことはやった。何でもやった。拡張紙(販促のために無料で配達する新聞)もやれば押し紙(販売店に販売部数よりもかなり多い部数を送る)もするし、値引きもやる。「朝日」と「毎日」(「東日」)があらゆることをやって東京の新聞をつぶそうとしたことははっきりしている。そこで2年間やるだけやって、このへんで各紙が音をあげるというところまでやって、それから後は算盤をとっていこうということでやったんです。

  東京の新聞は、戦国時代に朝・毎に半殺しにされたんですから、これは感情の問題ではない。「国民」にしたって「時事」にしたって「報知」だってそうです。その怨みというのは大変なものです。われわれも率直にいって「報知」をやめてからもどんなことがあっても、朝・毎と戦って何とかしなくていかんといいうのが、今日までの考えです。おそらく、東京の新聞人は皆、腹ではそう思っていたでしょう。だからそれは当然です。

「関東大震災編」 了

 

 

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