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「そのときメディアは」 関東大震災編 ⑯ 敗れ去りしものたち

2012年8月15日

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敗れ去りしものたち

大震災後、東京朝日と東京日日の販売攻勢は激しさを加えた。両紙がまずとった戦術は、値下げと付録、福引であった。東京の新聞は当時、朝刊8頁、夕刊4頁で月額定価1円だった。両紙は80銭に値下げし、これに名画の複製などを付けたのである。

 両紙の標的の第一は、震災の被害をまぬがれた報知であった。販売店網も整っており、部数も50万前後だった。

 1925(大正14)年秋、両紙は定価を1円に値上げしたうえ、各地の販売店の組織「新聞定価売即行会」をつくり、定価80銭だった報知に値上げを迫った。報知はこの要求をけった。これに対して、この即行会は報知の取り扱いを停止する通告を行った。報知は独自に販売店網を拡充することも検討したが、経費がかかることから断念し、90銭に値下げした。資本力にまさる関西二大紙が、付録や福引を絡めて攻勢をかけ、紙面の内容も充実して、報知の読者を奪っていった。

  次の標的は時事新報だった。福沢諭吉が創刊した名門紙である。先の販売店の組織である即行会は、時事が値引きの乱売が激しいと抗議、さらに千葉県内の販売店が定価を守っていないという理由をつけて、担当社員の更迭まで要求した。これに対して、時事新報は、各地に専売店を増やしとともに安売り合戦になだれ込んで対抗した。これが時事新報の経営の悪化をもたらし、ついに1936(昭和11)年、東京日日に吸収されてしまう。

 徳富蘇峰が創刊した国民新聞もまた、関西二大新聞の攻勢の前に経営が悪化し、雑誌社や経済界に資金の援助を仰いだが及ばず、蘇峰が1929(昭和4)年退社するに至った。

  

 

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