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「そのときメディアは」 関東大震災編 ⑮ 読売、追い込まれる

2012年8月13日

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読売、追い込まれる

   関西での成功を土台とした資本力で、大震災後に東京を本格的に攻める東京朝日と東京日日は、在京の新聞に戦いを挑むことになる。

 新聞販売店は当時、東京市内は1紙だけを扱う専売店だったが、地方は複数の新聞を扱う「諸紙屋」と呼ばれた。東京の新聞社が大震災の影響で発行が困難になると、東京朝日と東京日日はこうした地方の販売店に対して攻勢をかけた。両紙は震災前22、3万部の発行部数だったのが、震災後2年目には60万から70万部に達する勢いとなった。

  『読売新聞百二十年史』は、両紙の販売戦略について俯瞰的な視点を保っている。大震災によって本社を失い、壊滅的な打撃を受けた読売は、こうした競争の埒外にあった。

    1923(大正12)年8月19日、本社は46年ぶりに銀座1丁目を離れて、京橋区西紺屋町(現在の中央区銀座3丁目、デパートの「銀座プランタン」が建っている)に、新社屋を移転した。

   (大震災によって)社屋そのものは倒壊しなかったので、社員は社屋に踏みとどまり、激しい余震の最中にガリ版すりの号外を数回にわたって発行、特報ビラを市内の主な場所に張り出すなど奮闘した。

  その夜、松山(忠二郎社長)が前途に望みを託して完成させた新社屋は、落成披露を目前に天井と外壁を残して、ついに見るも無残に焼け落ちてしまったのである。

   大震災による新聞界の被害は甚大だった。東京17紙のうち社屋焼失を免れたのは、東京日日、報知、都の3社だけで、これらは比較的早く平常通りの新聞発行をすることが出来た。東京朝日も被災したとはいえ、大阪朝日の応援でいち早く復旧に取りかかることが出来た。しかし本社をはじめ東京系新聞社の復興は大きく遅れ、経営は窮迫した。

   なかでも新社屋焼失という悲運に見舞われた本社の打撃は大きく、その後部数は半減して5万部台を低迷する。24年(大正13)年2月、松山はついに社長の地位を退くことを決意した。

   大震災後は、資本力のある朝日、毎日の関西系二大紙がめきめき勢力を伸ばして、寡占体制を築いて行った。

 

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