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「そのときメディアは」 関東大震災編  ⑭ 東朝の攻勢

2012年8月10日

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東朝の攻勢

  東京朝日が大火に見舞われた社屋を修復して、帝国ホテルの仮事務所を引き上げたのは、10月14日だった。そして、震災前の朝刊8頁、夕刊4頁の紙面に復帰したのは12月1日だった。

 東京朝日は、震災翌年1月15日、復興記念の福引をつけた部数の拡張の結果、純増が13万4130部と発表した。東京日日が震災の年の年末に同様の拡張方法によって、純増は8万4030部であった。東京朝日と東京日日が激しい販売合戦をしていたことがわかる。

 もとより、東京朝日は、大阪朝日の系列であり、東京日日と並んで「西風が東風を圧する」動きが急であった。東京朝日は、1924年(大正13)年4月に発行部数が41万212部となった。

 ただ、これでも、当時の東京を拠点する新聞の部数の順位は、報知、時事、国民、東京日日、東京朝日の順であった。

『朝日新聞社史』は、大震災と新聞の業界地図の変化について、展望してみせる。

  この大震災が大きな原因となって時事、やまと、国民、万朝報、中央など、伝統ある新聞がやがて消えていき、かわって、大毎、大朝につながる東日、東朝が延び、毎日、朝日両紙の全国制覇の途がひらかれていった。読売も松山社長が退き、「虎の門事件」(昭和天皇となる摂政が銃撃された事件)の責任を負って警視庁警務部長を辞していた正力松太郎と交代し、再建への第一歩を踏み出した。関東大震災は、新聞界に多大な影響を与えた、日本新聞史上の大事件でもあった。

 

 

 

 

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