ブログ

「そのときメディアは」 関東大震災編 ⑫ 「大杉事件」封殺されたスクープ 下

2012年8月6日

このエントリーをはてなブックマークに追加

「大杉事件」封殺されたスクープ 下

 関東大震災の直後の流言が飛び交う騒然としたなかで、社会主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝、その甥で6歳だった橘宗一を、陸軍憲兵大尉の甘粕正彦とその部下が虐殺した事件が起きた。「大杉事件」である。事件が起きたのは、9月16日だった。大杉を監視していた警視庁は、憲兵隊が連行した後、消息を絶ったことに不信感を抱いて、陸軍省に問い合わせたが、軍は事実を隠蔽しようとしていた。

  大震災の混乱のなかでも懸命に取材にあたっていた新聞社のなかで、時事新報社と読売新聞の記者は、事件を突き止めた。両紙は、9月20日付の夕刊で報道することを決めた。しかしながら、警視庁がこの号外を差し押さえた。封殺されたスクープとなったのである。

      警視庁から報告を受けた陸軍省は、報道機関に察知されたことに狼狽し、これ以上事実を隠すことは不可能と判断した。そしてまず9月20日に関東戒厳令司令官福田雅太郎大将を更迭して山梨半造大将を着任させ、憲兵司令官小泉六一少将、東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐を停職処分として甘粕憲兵大尉とその部下を軍法会議に付すことに決定した。

   と同時に、一般民衆の反応を恐れて新聞報道を厳しく抑圧する必要を感じ、内務省警保局に依頼して、

   「憲兵司令官及び憲兵隊長の停職並びに甘粕大尉の軍法会議に付せられたる事件の記事差止め

    社会主義者の行衛不明其の他之に類する一切の記事掲載差止め」

   という通牒を発令させた。

 

 「大杉事件」のスクープが封印される、その前提は政府によって整えられていたのであった。内務省は、9月16日に新聞、雑誌の記事を漏れなく検閲する命令を出した。この命令の背景として、朝鮮人の暴動の流言を新聞が伝え、自警団の団員らが殺傷を繰り返したことがあった、と吉村は指摘している。「報道の自由を失った」と吉村は冷徹に分析している。

 

   大地震発生後新聞報道は、たしかに重大な過失をおかした。その朝鮮人襲来に関する記事は、庶民を恐怖におとしいれ、多くの虐殺事件の発生もうながした。その結果、記事原稿の検閲も受けなければならなくなったのだ。

   しかし、それは同時に新聞の最大の存在意義である報道の自由を失うことにもつながった。記事原稿は、治安維持を乱す恐れのあるものを発表禁止にするという条項によって、内務省の手で徹底的な発禁と削除を受けた。

   政府機関は、一つの有力な武器をにぎったも同然であった。政府の好ましくないと思われる事実を、記事検閲によって隠蔽することも可能になったのだ。

 ――

 

参考文献

 

朝日新聞社史 大正・昭和戦前編

朝日新聞社

1991年10月

 

別冊新聞研究 No.5

石井光次郎

1977年10月

 

吉村昭

関東大震災  文春文庫 2004年8月

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加