「大杉事件」封殺されたスクープ 上
新聞社の情報収集の手段である通信網は、大震災によって、壊滅的な打撃を受けた。
『関東大震災』のなかで、吉村昭は、流言が飛び交った大きな背景として、通信崩壊のさまを描いている。
電話も東京市内の電話局20局のうち焼失14、大破2で4局のみが残されていたが、これらも機械、電池等が破損して使用不能におちいっていた。それに、電話の地下線路も徹底的に寸断され、電柱の焼失、転倒等約6万本にも及んで、その機能は完全に失われた。
横浜市でも交換局は全滅し、加入者の電話機の90パーセントが焼失し、その復旧は絶望的であった。
通信機関の杜絶は、すべての連絡を不可能にした。警察、官庁も情報の入手方法を断たれて、指令を受けることも報告することも出来ず右往左往するばかりであった。そして、庶民は、人の動きにつれて路上を彷徨するのみであった。かれらは、何も知ることは出来なかった。かれらが知っているのは、大地震の起こったこととそれにつづく大火災によって眼にふれる範囲内の地域が死の世界と化し、しかも自分の生命も保持できる保証がないということだけであった。
通信は断絶し、直後から流言が飛び交った。皇居前広場に避難した、東京朝日の経理部長の石井光次郎の証言を続ける。警視庁の元同僚であった正力松太郎のところに部下を派遣し、食糧の調達を指示すると同時に、石井は震災に関する情報を聞いてこい、と命じたのであった。
(部下は)朝鮮人騒ぎが起こった話を聞いて来た。「どうも怪しいから用心してくれ。何かあったら知らせてくれ」と正力君がいったという。あそこが(朝鮮人に関する流言の)火元です。そのとき「そんなことはあり得ない」とそこにおった下村(海南専務)さんが一言のもとに言った。「これは何か計画したものならばあり得ることだが、こんな震災なんか何月何日におこるとだれも予期したものはないのだからその時に暴動おこすなんでだれも計画するわけがない」。と言ってね。そこで「朝日」では、「それはウソです。(取材の)タネをとりに回る時、一緒に「朝鮮人騒ぎはウソです。騒いではいけません」といって回った。これは下村さんの判断です。
『朝日新聞社史』は、そのときの事情を振り返る。
震災の状況、朝鮮人暴動のデマ、山本権兵衛新内閣成立など、報道すべきことは山ほどあった。しかし通信と交通機関が途絶した。社員たちは、自分の家や家族の罹災をかえりみるいとまもなく、社屋の防火につとめる一方、新聞発送用のトラックの車体に紙をはり、これにニュースを大書きし、同乗した記者たちがメガホンを使って速報にあたった。
『関東大震災』は、新聞社が報道に困難になった状況のなかで、震災地の住民がどのような不安定な状態に陥ったかついて、述べている。
かれらが自分をとり巻く状況を知る唯一の手段は、新聞報道のみであった。かれらは、毎日配達される新聞の活字によって、欧米各国の動きを知り、国内の政治、経済、社会の動向も察知していた。かれらは、新聞の知識から知識を吸収すると同時に、知るということによって精神的な安定も得ていた。
大地震と大火にさらされた庶民は、自分たちがおかれている立場がどのようなものであるか知りたがった。かれらの中には、被害が自分の身を置く地域のみではなく日本全体に及んでいるのではないかと疑う者もいたし、中には地球全体の震害ではないかと考える者さえいた。
そのような疑惑に答える有力な手段は、新聞報道であったが、新聞社にはそれに応ずる力は皆無だった。
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参考文献
朝日新聞社史 大正・昭和戦前編
朝日新聞社
1991年10月
別冊新聞研究 No.5
石井光次郎
1977年10月
吉村昭
関東大震災 文春文庫 2004年8月