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「そのときメディアは」 関東大震災編 ⑩ 電通は動いた 下

2012年8月1日

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電通は動いた 下

 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、大震災は、電通の社屋も大きく揺さぶった。地震によって社屋は破壊されず、屋内の器物もほとんど倒れなかった、と『電通社史』(1938年刊)は記す。しかしながら、大火にまかれてついに午後5時ごろ焼け落ちてしまう。                                                                                 

   二階の通信部も、一階の営業部も別に震動のために、破損を受けたり、取り乱されたりはしなかったが、それでも掛け時計は全部横にひん曲がってしまって、運動を停止していた。余震がひっきりなしに来る。それに電話線が全部切断されて、外部との通話が一切出来ない、余震が来るたびに通信部の社員は全部浮き腰になる落ち着いて仕事ができぬ、外へ出ようと言って、電通の社屋の前の篠宮と言う俥宿のひさしの下に、卓をすえて、そこで原稿をとりまとめることにした。

   社屋が焼け落ちるのは間違いないとみて、光永社長が社員を連れて、まず新橋駅に、そして帝国ホテルの一室を借り、さらに9月13日には丸の内の10号館を駆り営業所をして借りて移転した。この仮本社から、銀座に本社を新築するまで12年間を要している。この新本社は現在の電通銀座ビルである。このビルが面している道を「電通道路」と俗称されているのは、これによる。

 電通の社員が避難する直前、宮内省の記者クラブと本社をつなぐ専用電話がなった。電話が不通になったなかで、これだけが通じたのである。宮内省担当の記者からもたらされたのは、昭和天皇となる摂政が無事であるとの一報であった。しかしながら、この記事を送る手段は絶えていた。

  電通は、謄写版による印刷によってニュースを伝えようと考える。『電通社史』は、「お手のものの謄写版号外」の見出しを立てる。「通信社のことととて、(謄写版の)印刷機は数十台あり、(謄写版印刷にかける蝋引きの紙に原稿を刻む)鉄筆係も十何名という多数、しかも本職の熟練社員のこととて、瞬く間に数千枚を刷り上げて」とある。

 先の波多の証言と合わせないと理解が難しい。通信社の電通は、原稿を新聞社に配る際に謄写版印刷をひごろから利用していたのである。

   震災のためどの新聞社も活字ケースはひっくり返されて、どうすることもできず、ことに電線の切断による動力の停止は印刷機械の回転を不能ならしめ、号外を出そうにとするにも出きないことになってしまった。

  我が社にとって、謄写版はお手のものであり、手際よく短時間に数千部を刷って、これをばら撒いたわけで、おそらく各社に先立って数時間早くこの号外を発行し得たことであろう。この号外には、摂政殿下の御無事であらせらるることを拝記して、まず国民に安心を与うるとともに、折りしも内務省にいっている係の記者から受電した、中央気象台発表「余震はあるが、これ以上のものは決してこないから安心せよ」のニュースを大書きして掲載したものであった。なおこの謄写版号外は翌日帝国ホテルに移転後も、時々これを出して、行人に手渡しいまだニュースに恵まれない市民たちに、干天の慈雨のごとく悦ばれたものであった。

 ――

参考文献

 

新聞研究 別冊No.14

波多尚

1982年9月

 

新聞研究 別冊No.22

石橋恒喜

1987年10月

 

電通社史

日本電報通信社発行

1938年10月

 

 

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