電通は動いた 上
日本最大の広告代理店である電通が、大震災のそのとき、どのように動いたかを論じるためには、電通の略史を紐解いて補助線としたい。電通の前身である日本電報通信社は、通信社と広告会社の業態が一体化していたのである。創業者である光永星郎は、日清戦争の従軍記者とされ、戦地の通信事情が悪く記事を十分に送ることができなかったことから、通信社を創業しようと思い立ったという。通信社の経営を強固なものとするためにまず、新聞社に広告と配信することから始めたのであった。
光永は1901(明治34)年、日本広告株式会社を設立、その4カ月後に通信社機能を持つ電報通信社を併設したのだった。その後、1906(明治39)年、電報通信社を改組する形で、電通の前身である株式会社日本電報通信社とした。
この通信部門は、新聞社と競うと同時に、同業の新聞聨合社と激しい特ダネ競争を繰り広げた。
1931(昭和6)年、満州事変が起きると、政府は国内の通信機能の統一を企て、日本電報通信社の通信部門と、新聞聨合社の合併を促した。光永はこれに反対したが、抗し切れず、通信部門を切り離して広告専業となった。「電聨合併」と称される。この結果誕生したのが、同盟通信である。
日本電報通信社は当時から、略称として電通といわれていた。正式に社名として、株式会社電通となるのは、戦後の1955年(昭和30)年のことである。 しかしながら、戦前の1938年発刊の社史も『電通社史』と題して、電通の名称を誇っていることもあり、これからの記述も電通とする。
電通の通信社としての機能は、大震災の前後でどのようなものであったろうか。通信部門を通信部といった。その部門に大学卒業生としては第1期生にあたらる波多尚は、次のように証言している。波多は、「電聨合併」後、同盟通信で働き、戦後は新しい新聞の創業にかかわった。
大震災の前年の1922(大正11)年9月に東京市内15社の新聞社と同時送稿用の専用線「同報電話」が開設された。
「号外物、号外物」と言ってガラガラとやってました。満州事変のころは、この回線でしきりに号外ものを送ってました。
ガラガラ、とは通話するまえに、専用電話にとりつかれた相手方にベルを鳴らす小さなとってのようものを操作する音である。専用線のことを「ガラガラ」と通称した理由でもある。原稿は「電話で吹き込む」という。つまり、電話で読み上げる原稿を相手先の新聞社は書き取ったのである。
この同報電話がなかった時代はどうしていたのか。波多によれば、自転車で原稿を新聞社に運んでいたという。
東京と大阪間など幹線に専用電話網が引かれるのは、大震災の翌年1924(大正13)年7月1日のことである。それ以外の都市にはどのように原稿を送っていたのか。
予約電話です。大阪から支線で北へ回すとか、北陸や東北は東京から予約電話で回すとか。朝刊時間、夕刊時間、締め切りをにらみ合わせてみなでるようになっている。
「予約電話」も解説が必要である。回線が少ない通信事情のなかで、あらかじめ通話することを予約しておいて、回線を予約しておくのである。新聞社の支局や通信局・通信部から戦後しばらく、締め切りをにらんで、その日の記事の出稿を連絡する「定時連絡」もまた、通信のインフラの整備がなされていなかった時代のなごりである。
さらに、そのときの電通について振り返る前に、その後の昭和史のなかで、通信社として最後の光りをみせたエピソードについて証言を通じて綴りたい。大震災の際の電通の通信社としての矜持を持った活動を知るうえで、電通の記者たちが特ダネをとった瞬間を見ることは意味がある。広告代理店としての電通の現在のイメージをいった払拭したうえで、大震災に戻りたいからである。
東京日日の社会部記者として長く陸軍を担当した石橋恒喜は、電通が放った満州事変勃発のスクープについて語っている。石橋は戦後、日本新聞協会に入って、業界を支える功労者となった。
満州事変勃発のニュースは、朝刊1面トップはみんな奉天発「電通」です。というのは、攻城砲でドカーンとやっているので、当時の特派員の連中は知らんはずはありません。ところが関東軍で電報を抑えちゃって、「打ってはいかん」ということになり、電報はすべて握り潰されたんです。
そこで、「電通」の奉天の支局長が、頭を働かして、京城と連絡をとったらどうかということを考えたらしいんです。それで京城の支局を呼び出してみたら、真夜中のことですから、すぐに出たわけです。で、実は「奉天で日支両軍が衝突せり」という電報を京城経由で打ったんです。だからほかの社は、電報が着いているものと思っているのに、実は全部握り潰されていた。
当時、私は、夜中に社から呼び出されて、駆けつけて来た時に、「おい、ゲラを持っていけ」と言われてゲラを見たら、「奉天発、日支両軍交戦中」という記事が「電通発」で、載っているのです。「電通」の大特ダネですよ。
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参考文献
新聞研究 別冊No.14
波多尚
1982年9月
新聞研究 別冊No.22
石橋恒喜
1987年10月
電通社史
日本電報通信社発行
1938年10月