野間の決意 下
上智大学名誉教授の渡部昇一は、『野間清治に学ぶ運命好転の法則』のなかで、大震災の記録集について、それまでにない宣伝方法を評価する。いまでは一般的に行われている手法であるが、当時としては卓抜であった。
ポスターを使うという方法だった。ポスターをいたるところに掲げたのである。それから、ダイレクトメールを出した。少年に金を持たせて各地の郵便局に使いに出し、まずハガキを60万枚集めた。いまのようにパソコンがあるわけではないから、宛名書きはすべて手作業である。それだけの数のハガキを出すのも大変だった。市内では受け付けてくれないところもあったから、少年たちを四方に飛ばして、浦和や熊谷まで行って投函させたものもあった。
野間のそばにあった笛木は、野間と社員の奮戦ぶりを次のように活写する。
ポスターなども印刷が間に合わないために、肉筆でどんどん書いて、それを書店に送るのだ。社長も陣頭に立って、立て看板などを書いた。本邸のひろいお勝手元の板の間に紙を広げて皆がポスター書きをやっていると、社長が奥から出てきて、「私がひとつ手本を示してやろう」などと言いながら筆を執って墨痕淋漓『大正大震災大火災』と書いた。それは実に見事がものであった。
この記録集はどのぐらい売れたのか。完売であったのは間違いなさそうである
渡部は諸説ある、としたうえで「部数は50万部と野間は書いているが、実際は50万部も刷れず、35万部だったという説もある」としている。いずれにしても、当時はもとより、今日でも大ベストセラーである。
笛木は「売れ行き予想投票」という見出しを著作のなかで掲げて、野間の50万部説をとっている。野間の面目躍如のシーンである。
ある晩、少年10人ばかりが社長の室に呼ばれ、
「『大正大震災大火災』は、非常な売れ行きで喜んでいる。最初20万部造ったがとても足りない。此の上あとどの位売れると思うか、それぞれ自分の考えを書いて出してもらいたい」
とそんな話があったので、皆自分のかんがえるところを紙に書いて提出した。開かれた結果は、5万から10万までが殆どであった。私だけが飛び抜けた30万であった。社長は「予想はなかなか難しいが、多分笛木の考えが一番近い結果となるであろう。私も大体そのように考えている」と言われた。社長の予想は的中し、講談社の盤石の基礎を堅める結果となったのであった。
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参考文献
「仕事の達人」の哲学
野間清治に学ぶ運命好転の法則
渡部昇一
致知出版
2003年12月
私の見た野間清治
講談社創始者・その人と語録
笛木悌治
1979年10月