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「そのときメディアは」 関東大震災編 ⑦ 講談社 野間の決意 上

2012年7月25日

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野間の決意 上

  講談社の創業者である野間清治は、明治維新で没落した士族の三男として生まれ、苦学して地元の高等小学校の教師、旧制沖縄中学校の教師などを経て、東京帝国大学の書記となった。

 東大弁論部の設立にかかわったのが縁となり、その速記録の販売を思い立ち、1909(明治42)年、大日本雄弁会を設立した。その後、講談の速記録を販売して成功、1911(明治44)年講談社を設立した。両社はのちに、1925(大正14)年大日本雄弁会講談社となる。

 

 講談社設立から、「少年倶楽部」、「現代」、「婦人倶楽部」、「少女倶楽部」の草創期の4誌を発刊して、出版社としての地位を築いた。

 そのとき、大震災は起きた。

 講談社の草創期の社員でのちに「幼年倶楽部」編集長などを務めた笛木悌治は『私の見た野間清治』でその瞬間を記した。笛木は青年の社員とは別に「少年」と呼ばれた見習いで1919(大正8)年に入社した。

 

   社長は本邸の雁の間で、岡本洋紙店の岡本正五郎と対談中であったが、すぐ部屋から外に出られた。

   余震は絶え間なく襲って来る。社長は、社員や少年達に怪我はなかったかと、それを一番心配され、早く調べて報告するように言われたので、幾人かの少年に命じて、本邸にいる人たちを全部点検したら、誰もかすり傷一 つ受けた者はない。

     やがて本社からの使いが到着して、本社も無事であった、返品倉庫が潰れ ただけで誰も怪我をした者はなかった。この報告を受けた社長は、「全くこれは幸運であった。建物が潰れた事などより、社員や少年に怪我があっ てはならないと、そればかりを心配していたのだが、それは本当によかった」

 

 野間は無事だった社員たちを総動員して、『大正大震災大火災』の写真を多数使った、記録出版に向かうことになる。日本新聞協会の新聞博物館(横浜市)の常設展示場のなかで、新聞広告のコーナーで、大日本雄弁会の名称と住所、連絡先を掲載して、この記録集の購読を募る、縦が新聞の5段にも相当する広告はひときわ目立つ。「天皇皇后両陛下」「皇太子殿下、妃殿下」が見たという惹句が大きく躍っている。

 野間の出版に対する決意について、笛木は野間自身の言葉を引いている。

    「東京の大部分が灰燼に帰してしまった。日本の首都東京に縁故のある人達は、全国的に相当の数にのぼっているであろう。その人達は、東京は一体どうなっているだろうか。自分の知っているあの人はどうしたろうかと、心配をし、様子を知りたいと思っているであろう。

   東京の報道の機能は全滅に近い状態となり、新聞もでない、雑誌も出ない。しかし、何とかして此の実状を全国に知らせなければならない。それが出版人の責務ではないか。どんな苦労をしてでもこれをやらなければ、世間に申し訳けがない。否、お国対しても、、申し訳けない」

 

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参考文献

 

「仕事の達人」の哲学

野間清治に学ぶ運命好転の法則

渡部昇一

致知出版

2003年12月

 

私の見た野間清治

講談社創始者・その人と語録

笛木悌治

1979年10月

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