野間の決意 上
講談社の創業者である野間清治は、明治維新で没落した士族の三男として生まれ、苦学して地元の高等小学校の教師、旧制沖縄中学校の教師などを経て、東京帝国大学の書記となった。
東大弁論部の設立にかかわったのが縁となり、その速記録の販売を思い立ち、1909(明治42)年、大日本雄弁会を設立した。その後、講談の速記録を販売して成功、1911(明治44)年講談社を設立した。両社はのちに、1925(大正14)年大日本雄弁会講談社となる。
講談社設立から、「少年倶楽部」、「現代」、「婦人倶楽部」、「少女倶楽部」の草創期の4誌を発刊して、出版社としての地位を築いた。
そのとき、大震災は起きた。
講談社の草創期の社員でのちに「幼年倶楽部」編集長などを務めた笛木悌治は『私の見た野間清治』でその瞬間を記した。笛木は青年の社員とは別に「少年」と呼ばれた見習いで1919(大正8)年に入社した。
社長は本邸の雁の間で、岡本洋紙店の岡本正五郎と対談中であったが、すぐ部屋から外に出られた。
余震は絶え間なく襲って来る。社長は、社員や少年達に怪我はなかったかと、それを一番心配され、早く調べて報告するように言われたので、幾人かの少年に命じて、本邸にいる人たちを全部点検したら、誰もかすり傷一 つ受けた者はない。
やがて本社からの使いが到着して、本社も無事であった、返品倉庫が潰れ ただけで誰も怪我をした者はなかった。この報告を受けた社長は、「全くこれは幸運であった。建物が潰れた事などより、社員や少年に怪我があっ てはならないと、そればかりを心配していたのだが、それは本当によかった」
野間は無事だった社員たちを総動員して、『大正大震災大火災』の写真を多数使った、記録出版に向かうことになる。日本新聞協会の新聞博物館(横浜市)の常設展示場のなかで、新聞広告のコーナーで、大日本雄弁会の名称と住所、連絡先を掲載して、この記録集の購読を募る、縦が新聞の5段にも相当する広告はひときわ目立つ。「天皇皇后両陛下」「皇太子殿下、妃殿下」が見たという惹句が大きく躍っている。
野間の出版に対する決意について、笛木は野間自身の言葉を引いている。
「東京の大部分が灰燼に帰してしまった。日本の首都東京に縁故のある人達は、全国的に相当の数にのぼっているであろう。その人達は、東京は一体どうなっているだろうか。自分の知っているあの人はどうしたろうかと、心配をし、様子を知りたいと思っているであろう。
東京の報道の機能は全滅に近い状態となり、新聞もでない、雑誌も出ない。しかし、何とかして此の実状を全国に知らせなければならない。それが出版人の責務ではないか。どんな苦労をしてでもこれをやらなければ、世間に申し訳けがない。否、お国対しても、、申し訳けない」
――
参考文献
「仕事の達人」の哲学
野間清治に学ぶ運命好転の法則
渡部昇一
致知出版
2003年12月
私の見た野間清治
講談社創始者・その人と語録
笛木悌治
1979年10月