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「そのときメディアは」 関東大震災編 ③ 泥だらけで大阪に到着

2012年7月13日

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泥だらけで大阪に到着

  通信が断絶する中で、東京朝日は大阪朝日に大震災の情報を伝えようと、独身者を中心に3班を編成して、地震発生の当日に西を目指させた。翌日第4班も出発した。横浜から東海道線を目指す班、中央線沿い、東海道沿い、そして最後の班は北陸から大阪に向かった。

 4日午前8時半、徒歩と自動車、列車を乗り継いで、大阪朝日にどろだらけの姿で到着したのは、東海道沿いのルートをとった東京社会部の福馬謙造だった。

 『朝日新聞社史』は、福馬の手記をもって綴っている。

 

   玄関から入ろうとすると、忽ち守衛にとめられた。全身泥まみれ、風来坊のような侵入者を、守衛がとめたのはもっともである。「どこへ行くのだ」「編輯へ行くのです。編輯室は二階ですか」「勝手に入られては困る。何の用事かね」「東京から来たのだ。急いでいるんだ」「そんなこと言っても……、手に持っているのは何かね」「写真の包みだ。僕は東京朝日の記者だよ」

  広い編輯室は人で一ぱいであるのに驚かされた。 「東京を1日夜立って、やっとやって来ました」というと、「やぁ、ご苦労、すぐ号外を出すから、東京を立ってから大阪に着くまでのことを書いてくれ給え」

  私は鉛筆をとり上げた。すぐそばには大江さん(社会部長大江素天)が立っている。社会部も整理部も原稿の出来るのを待って、一枚々々書くそばから持って行く。私は張り切って一気呵成に、新聞一頁の原稿を書きなぐった。書き終えて飲んだサイダーがうまかった。編輯局長室に連れて行かれた。そこには村山社長が居られた。私はこの時初めてお目に掛かった。社長は「御苦労じゃった」と言って私の手をとって堅く握った。

  福馬が書いた4日朝の1頁の号外には、東京本社から大事に持ってきた大震災の被害を写した未現像の写真が4枚使われた。「日比谷公園松本楼の焼失」「初震より3時間後の中央気象台――大時計は11時50分辺でピッタリと止まっている」「崩壊した京橋電話局――屋上飾がまず落下し下を通行中の人馬が惨死したところ」「芝浦の避難民」である。その後、福馬とは別班の記者たちも次々に大阪朝日に到着した。東京の震災の写真は、4日の夕刊、5日の朝刊にも多数掲載された。大阪のライバル紙は5日朝刊になっても1枚もなかった。

 福馬は泥だらけの服装のままで、5日夜、中之島公会堂で開かれた「震災報告大講演会」の壇上に立った。会場は超満員となり場外にまで聴衆はあふれた。

 

 東京朝日は新聞用紙の確保に幹部が奔走するとともに、社外の日清印刷と博文館の協力と得て、新聞発行の再開を果たした。9月6日から号外を出し、12日には11日ぶりの朝刊となる4頁をだした。25日には夕刊4頁も復刊した。

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参考文献

 

読売新聞80史

読売新聞

1955年12月

 

朝日新聞社史 大正・昭和戦前編

朝日新聞社

1991年10月

 

別冊新聞研究 No.5

石井光次郎

1977年10月

 

毎日新聞七十年

毎日新聞社

1952年2月

 

日本経済新聞百年史

日本経済新聞社

1976年

 

新聞研究 別冊No.13

務臺光雄

1981年10月

 

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