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「そのときメディアは」 関東大震災編 ② 皇居前広場に避難して

2012年7月11日

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皇居前広場に避難

 『読売新聞八十年史』は、大震災直前までに、部数の増加や広告料金を引き上げるのに成功したことを述べたあとに、「関東大震災で画べい(餅)に帰す」との見出しを掲げる。

読売新聞は、大正12(1923)年8月19日鉄筋3階建ての新社屋が、現在の銀座に完成し、新築記念号を発行するとともに、大震災が発生した9月1日午後6時から丸の内の東京會舘で落成祝賀会を開こうとしていたのである。

 

   第一回の激震と同時にわが社の電気、ガス、水道は一斉に停止して輪転機の運転は不可能となり、活字ケースは全部転覆してこれまた使用不可能となった。しかし、新築の社屋そのものはさしたる被害がなかったので、関係社員は通信機能を失った社屋内に踏みとどまり、その後も断続的に襲来する激しい余震をおかしてガリ版ずりの号外を数回にわたって発行し、危険をおかして各方面に配布した。また、特報ビラ・ニュースを市中の主要な場所にはりつかるなど、地震の実況と情報報道に奮闘した。だが、同日夜に入って、日本橋方面を一なめにした大火は銀座方面に延焼し、本社を護っていた社員らはついに二重橋広場に避難するの余儀なきにいたり、新築早々の本社社屋は無残にも焼失するに至ったのである。

  『八十年史』は、関東大震災の項の最後に当時の松山社長が翌大正13(1924)年2月、経営不振の責任をとって退いたことを記して、「讀賣新聞社史は、ここにその前史を終わり」として、灰燼に帰した新聞社を立て直す正力松太郎による社業に筆を継いでいる。関東大震災が読売新聞に致命的な打撃を与えたことを物語っている。あるいはこういう言い方もできるだろう。大震災がなかったとしたら、内務官僚だった正力が新聞業界に入ることはなかったかもしれない。

  東京朝日の経理部長だった石井光次郎もまた、皇居前広場に避難した新聞人のひとりである。石井は内務省の官僚で警視庁勤務の経験もある。創業者の村山龍平に乞われて、大震災の前年の大正11(1922)年7月に朝日新聞社に入社、編集部門を担った緒方竹虎とともに日本の代表紙に育てた功績者である。専務まで務めた後、政界に入り閣僚を経験し、衆院議長までなった。

 当時の東京朝日の本社は、京橋区滝山町にあった。大正9(1920)年11月に新築されたばかりの鉄筋コンクリート四階建だった。

石井はそのときを振り返る。

    「朝日」の社屋に火が入ったのは夕方でしたね。わたしは最後までおりました。とにかく独身ものだけ残れ。家族持ちはいっぺん家へ帰って様子をみてこい。そして無事だったら帰ってこいといって独身者だけのこしった。そのうち、火が新橋の方に向いていたのに、銀座を回って、逆に新橋の方から滝山町の裏側に燃えてきた。若い奴らが暫くは、もみ消していたが、そのうち回りが焼けて「朝日」だけが残ってしまった。そこで皆、大事なものだけを持って、二重橋の真ん前に逃れ、「朝日」の本部とした。

  火の回りが早くて、3~4時間たって、どうなっているか見ようとしたら、「朝日」はすっかり焼けて、巻き取り紙(新聞用紙)なんかすっかり燃えてしまっていた。その晩のうちに帝国ホテルに使いをやって食糧を分けてもらい、部屋を借りた。警視庁に使いをやって、正力松太郎が官房主事をやっていたので、元の役人仲間だから正力のところへ行って「あそこ非常食があるだろうから、できるだけ食糧をもってこい」といってパンと、なにがうんともらってきた。二重橋前、何もありませんからね。

  『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』は、そのときの東京朝日の内部を証言によって再現している。

    通信部長美土路昌一は「東京版」を創設するため、記者や印刷要員を増員することになり、その日午後1時に面接のため、応募者20人を集めていた。窓外に目をやると、隣家の壁がバケツで水を流すように、ザーッとくずれ落ちてゆく。美土路はとっさに「活字台が倒れていはしないか」と考えた。活字が散乱しては、号外が出せぬ、夕刊発行もあぶない。まだゆれている社内を工場へかけ下りた。工場は予想どおり、活字が床に散乱し、みな呆然自失の有り様だった。「号外は出せるか」と美土路はどなった。「子の有り様です。無理かも知れない」という声が返ってきた。美土路はその声を後ろに編輯局へかけ上がった。「そうだ。一刻も早く『大阪朝日』へ連絡せねば」と思ったのである。しかし、電話はすでに普通で、回復の見込みは不明ということだった。

  号外は出た。しかしながら、その部数は300枚ほどだった。工場内の活字ケースのほとんどが大音響とともに倒れ、見出し用の大きな活字と本文用の活字が混ざったような状態になったのである。できあがった号外は、本文用の2号活字がそろわなかったので、見出し用の活字が混じったものであった。

    整理部長緒方竹虎は1日の前夜、会社に泊まっていた。ちょうど加藤友三郎内閣がつぶれ、後任の首相山本権兵衛が組閣中だったので、かれは社内で夜を徹することになttなおである。その緒方の話はこうだ。「朝、編輯局に出て早版の整理をやっていたら、地震がきた。しばらくたって、揺り返しがやってきたが、その時がとてもひどく、写真室の硫酸が流れだしたり、社内はひどい有り様だった。工場の連中には、割合に社の近い月島あたりから通っている者が多かったので、“家がつぶれているかも知れないから、近い人は帰ってみろ。無事だったら戻って来てくれ、やられていたらもどらなくてもよいが――”といって帰した。しかし大体全員もどって来た。あの時はほうとうに涙ぐましい気がした」

 

 大震災が起きた時、東京朝日の編輯局長の安藤正純と、社会部長の原田譲二は欧米視察に海外出張中で不在だった。そして、社長の村山龍平は本拠地である大阪にいたのである。しかし、のちに社長となる緒方と美土路、そして石井という朝日の経営を担う人材がいたのである。

 ――

参考文献

 読売新聞80史

読売新聞

1955年12月

 

朝日新聞社史 大正・昭和戦前編

朝日新聞社

1991年10月

 

 別冊新聞研究 No.5

石井光次郎

1977年10月

 

毎日新聞七十年

毎日新聞社

1952年2月

 

日本経済新聞百年史

日本経済新聞社

1976年

 

新聞研究 別冊No.13

務臺光雄

1981年10月

 

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