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「そのときメディアは」 関東大震災編 ① 河北はとらえた 

2012年7月9日

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河北はとらえた 

  通信が途絶したために、大震災に見舞われた首都の様子を他の地域から知ることは難しかった。ほぼ正確な第一報を放ったのは、河北新報であった。

 鉄道担当記者が、国鉄の鉄道電話による連絡に着目したのである。ほとんどの国の鉄道と軍隊は、一般の電話網とは別に独自の有線あるいは無線の連絡網を持っている。いったん急あるときに備えるためである。

 『関東大震災』のなかで、著者の吉村昭も河北の報道について特筆している。

 

   仙台の河北新報は、仙台鉄道局の鉄道電話によっていち早く正確な情報をとらえた。

   同社は、9月1日午後1時、仙台鉄道局に大火災発生の第一報が入ったのを察知し、1ページ大の号外を発行し、東 北六県の通信網を通じて各県に特報を出した。そして、9月2日の夕刊には「東京横浜殆ど全滅」の見出しでその惨状を克明に報じた。

  『河北新報の百年』は、「関東大震災の報道で独走」の誇らしい見出しで、震災1周年の回顧記事などをもとに、そのときを描いている。

    この地震は仙台でもかなり強く感じられた。同時に、東京との電話は不通になり、辛うじて鉄道電話だけがつながっていた。それによって、常磐線土浦付近の列車脱線転覆の第一報が入った。1日発行の2日付夕刊と朝刊は、東北大学理学部の地震計の針がとぶほとの大地震だったことと、この列車事故のもようを伝えるにとどまった。大災害らしいとの予想はついたものの、その時は知る手段がない。本社は仙台鉄道局の特別の許可をもらって、電話室に速記者を張り付け、情報を求めた。

   鉄道担当記者からの連絡は「万世橋駅は、すでに猛火に包まれ、付近一帯火は止め度もなく狂い回る」「東京駅危うし」などだった。「全員は愕然として驚いた。ともあれ、号外、二報、三報と続く魂消る報告を活字にして、号外を発行した。これがその日の12時(2日午前零時)近くであった」(回顧記事)この号外によって初めて、震災の概略が読者にもたらされた。

   また、仙台市内各官庁への電報など各方面からの情報を総合して、生々しい状況がまとまって伝えられるのは、2日発行の3日付夕刊と、3日付朝刊からである。

   トップは「昨日の地震の惨害 東京横浜殆ど全滅 下町各区既に全焼 東京駅猛火に包まる 横須賀も全滅す」や、「未曾有の大惨害 東京全市焦土と化す 大廈高楼続いて倒壊消失し 各所に死者の山を築く」など、四段、五段見出し。大きな活字が目立つ紙面は、記事ごとに「宇都宮電話」「宇都宮経由東京電話」「新潟経由東京電話」「新潟経由長野電報」などことわり書きがあり、苦労がしのばれる。

  福島県磐城市(現在のいわき市)にあった、磐城無線電信局が、河北新報の報道を世界に伝えたことも記している。

    震災を海外に知らせたのは、磐城無線電信局だった。横浜港にあった船舶の電報を傍受して米国に第一報を送り、6日間送信を続けた。当時の無線局長米村嘉一郎は「あのころ富岡地方には河北新報しか配達されず、その記事を翻訳して送信した」(昭和31年5月11日付本紙)という。

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参考文献

 吉村昭

関東大震災  文春文庫 2004年8月

 

 河北新報の百年

河北新報社

1997年9月

 

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