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「そのとき、メディアは――大震災のなかで」第2部 ⑫ チリ地震津波の教訓

2012年6月18日

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チリ地震津波の教訓

 過去の津波の経験が生きた三陸の地域紙があった。岩手県大船渡市に本拠を置く東海新報社である。津波が襲った沿岸部の大船渡市、陸前高田市、住田町の2市1町、気仙郡と呼ばれるエリアの新聞である。東海新報社は、パソコンと2台のプリンターをつないで新聞を発行し続けた。

 取締役編集局長の佐々木克孝は、1958(昭和33)年のチリ地震津波が今回の新聞の製作に結びついたことを明らかにする。

 

 創刊した2年後にチリ地震津波で社屋が被災し、1週間、新聞が発行できませんでした。その悔しさから、1988(昭和63)年に、高台に社屋を移転しました。そして、2年前に停電に備えて社屋内に自家発電装置を設置しまし  た。被災直後は、電気も何もシャットダウンしましたが、自家発電により翌日の号外を発行することができたのです。

 しかし、被災当日は、輪転機が動かせませんでした。技術者が道路事情で来ることができなかったため、パソコンから2台のプリンターでプリントアウトしました。カラーA3版で2000枚、これが限度でした。これを自分たちで避難場所に届けました。

 社員40人のうち、家を流された人は15人、家族を失った人が5人、亡くなった社員1人。こういった非常に限られた人数で、何とか連日、新聞を発行いたしました。

  新聞は、3月12日の号外から3月末までは無料で避難所に届けました。4月1日からは通常どおいの料金をいただきました。そのためには、きちんとした自分たちの心構えが必要だと考え、4月1日号では、初めてカラーを使いました。そしてテーマを「子どもと笑顔」と決め、8人の記者で一番いい写真を撮ってきたものを採用することにいたしました。

  振り返って考えてみると、われわれにとって被災直後から1週間が大事だったと思います。情報を収集し、伝達できた。それは地域にとっても、当社にとっても生命線になったということは間違いないだろうと思います。

――

参考文献

新聞研究2011年8月号
市民による震災報道プロジェクト        OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代
月刊民放 2002年1月号
被災地のメディアは何を伝え、被害者にどう利用されたか
――民放連研究所「東日本大震災時のメディアの役割に関する総合調査」報告会から

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