デスク志願する
TBSテレビの報道局政治部の筆頭デスクだった龍崎孝は、地震から2週間ほど経った3月下旬、報道局長の星野誠に「現場に行かせてほしい」と懇願した。大規模な取材陣もいずれは徐々に撤収していく。そうではなく、現地に駐在して、デジカメを手に震災から再生の過程を報道、記録したい、と思ったのである。
龍崎には記者として苦い思い出がある。前任の毎日新聞記者時代の1985年、浦和支局の警察担当として遭遇したのは、日本航空123便が御巣鷹山で墜落した事故だった。そして、TBS入社2週間目の95年1月の阪神淡路大震災である。いずれのときにも十分な取材をできなかったという思いが龍崎をつき動かした。
龍崎の提案は、1週間後、宮城県気仙沼にTBS系列のニュース取材網の拠点として、「JNN三陸臨時支局」開設、そして支局長として赴任という、例のない形で実現した。
残念ながら「憧れた」駐在の一記者ではないが、支局長として最低1年にわたって、全国の若手、ベテラン記者と協同しながら被災地の今を伝え続けるという「望外」の立場をいただいた。
津波被害を受けた被災地に置かれる支局にはおのずと二つの使命が考えられる。ひとつは継続的な映像取材で、復興に向けた足取りや息遣いを伝えていくことだ。さらには最大余震の発生が大学の研究者などから指摘されているように、再び起きるかもしれない「悪夢」に備え、可能なかぎり海辺に近い場所から、その映像をいつも届けることができる態勢を構築することだ。
5月1日に支局を開設してから3カ月、被災地の真っただ中に位置する支局からの報道にひとつの方向性が出てきた。それは「行政に頼りきらない取材と報道」、そして「命を守るための放送」ということだ。支局は気仙沼という宮城県の最北端にあるため、仙台や盛岡からアクセスが悪い。このため国や県の情報密度が薄い分、記者たちは自らの足で街を回ってネタを稼ぐしか、放送に結びつける手がない。
臨時支局の原点として「寄り添う」というキーワードを設けた。わたしなりのひとつの答えは「被災地の今をどんな小さな話でも、また生煮えの話であっても、必要な放送する」というものだ。ニュースが伝えられる「今」に視点をおけば「質」が求められるのは当然だ。未曾有の災害を、ミクロの視点で継続的に記録に残していくという作業をやり抜くためには、少々の「質」には目をつぶっても出し続ける努力も、続けなければならない。それはJNNが「歴史に参加する」作業だと思っている。
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参考文献
調査情報(TBS刊)2011年7-8月号
未だ蘇る声 東北放送・報道部 武田弘克
調査情報2011年9-10月号
結局私は、記者ではなかった TBSテレビ・報道ニュース部「Nスタ」 森岡梢
月刊民放 2012年1月号
ふるさとは負けない!
IBC岩手放送 取締役会長 阿部正樹
同
被災地のメディアは何を伝え、被災者にどう利用されたか
新聞研究 2011年8月号
「伝え続ける」放送の責任を自覚
JNN三陸臨時支局長(TBSテレビ) 龍崎学
TBSテレビ 報道局統括次長 西崎裕文