経営者の述懐 下
被災地の新聞経営者の真剣な経営姿勢に対して、全国紙やブロック紙の経営者たちもなにごとか揺り動かされている。
日本経済新聞社長の喜多恒雄は、「同じ新聞記者として大変に誇りに思う」と語る。
思い切って報道活動に従事できるのは、報道機関として経営基盤が安定していてこそ、との思いを強くしました。ジャーナリズムを維持していく上で、新聞経営に携わる人間として、経営基盤の強化の重要性を再認識し、諸課題にの決に(新聞)協会として取り組んでいかなければならないと考えます。
北海道新聞社長の村田正敏は、新聞社という企業の成り立ちについて4つの要素がある、としたうえで、震災は総合的な経営の重要性を教えてくれたと語たる。
新聞の仕事は、4両編成の列車に例えられるのではないかと思います。1両目は紙面製作をするシステム部門、2両目は印刷、3両目は輸送、そして4両目が配達です。この一両でも脱線すると文字通り立ち往生します。
原爆の被災地である広島に本拠を置く中国新聞社の社主兼会長の山本治朗は、原爆投下後の新聞社と、大震災後の新聞社を重ね合わせる。
中国新聞は爆心地から約1キロメートルの距離にありました。一瞬でガラスは粉々に砕け、400人いた社員のうち、113人が亡くなりました。社屋は全焼しました。被害をみると、中国新聞は存続することがあり得ない状況だったと思われます。当時は国策として新聞社の「相互援助契約」があり朝日新聞(西部本社)、毎日新聞(西部本社)、西日本新聞、当時の島根新聞の4社から代行印刷紙を送っていただき、(原爆投下3日後の)8月9日から新聞を配りました。
被爆の日、22万部あった発行部数は、9月時点で3分の1以下の6万部まで落ちました。これを22万部にまで戻すのに15年かかりました。
いついかなることが起きるか、人智の及ばないところがあります。私も全国紙、地方紙の枠組みを超えた大きな災害援助ネットワークが新聞界に必要だと考えます。
読売新聞社長の白石興二郎は、自社の被害について述べた上で、競争を超えた協力が必要であることを強調する。
地方紙のみならず、全国紙も大きな影響を受けました。当社の仙台工場も輪転機が毀損し、いまだに隣県の福島、茨城で代替印刷をしています。競争関係はそれとして、全国紙、地方紙を超えた協調関係を構築されることを望んでおり、それに協力していきたいと考えています。
関東大震災後の新聞業界の激しい競争は、首都の業界地図を一変させた。列島の広範囲に被害をもたらした東日本大震災は、業界にまず、印刷分野での協力の必要性を痛感させた。この協調体制が、経営そのものの統合に向かうかどうか、しばらく時間の経過をみなければならないのだろう。
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参考文献
新聞研究 2011年12月号
第64回新聞大会・研究座談会 パネルディスカッション
新聞界が直面する諸課題