経営者の述懐 上
東日本大震災から7カ月余りが経った2011年10月18日、京都市のホテルで、第64回新聞大会が開かれた。日本新聞協会に加盟している新聞社などが年に一度会して、メディアが直面している課題について話し合うものである。
この年のテーマのなかで、「震災と新聞」、「デジタル・電子新聞」が大きな課題としてとりあげられた。
震災地に本拠を置く地方紙のトップは、シンポジウムのなかで次のように震災を振り返った。
河北新報社社長の一力雅彦は、「未曾有の大災害は新聞社にとって即、非常事態になりました」と語り始めた
新聞は無事に発行できましたが、地震直後から大規模な停電が続き、通信は途絶え、交通は完全に麻痺しまし た。冷たい雪も追い討ちをかけました。その中で、何とか戸別配達を維持し、多くの避難所に新聞を届けることができました。社員は全員無事でした。しかし、沿岸部の取材拠点と販売店は甚大な被害を受けました。宮城県の沿岸部では、多く販売店が津波にのみ込まれ13店舗が全壊しました。
被災者に寄り添う報道・紙面が徹しています。3月11日に広い範囲で起きた事実と、その日を境にして起きた変化をきちんと伝えることが、新聞の役割だと思っています。大震災以降、生活に欠かすことのできない情報インフラと して新聞に対する期待、評価は確実に高まっています。どんな困難な状況でも一部一部が確実に読者に届けられる態勢は、これかれもぜひ維持していかなければなりません。
「ライフラインから人の動きまで、すべてが途絶した中で、現状や明日の動きをどう伝えるか苦悩しました」と、岩手日報社長の三浦宏はいう。
新聞が発行されていること自体が被災地の大きな励みになるという多くの人の声を聞きました。沿岸部の販売店の前に一部売りを求める人たちの行列もできました。新聞が絶対に必要なメディアであるということを、いま改めて実感 しています。岩手日報では販売店の店主3人、配達員12人が死亡、12店舗が流出しました。しかし、1カ月後までに、 すべての店で配達を再開しました。
地震と津波、そして原発事故の三重の被害に遭遇している福島県では、ふたつの地方紙が拮抗して存在している。福島民報社長の渡辺世一は、とくに原発事故による影響について述べる。
県内の販売店は浜通り(太平洋岸の地域)を中心に壊滅的な打撃を受けました。特に、東京電力福島第1発電所 がある双葉郡では、11店舗がいまだに営業できない状態です。
これからしていくべきことは、放射能の不安に駆られる住民が1日でも早く地元の帰れるような報道を展開することだと考えています。 福島、郡山といった福島県中通り地方の放射線量はそれほど高くはありません。それでも不安で子供を県外に転 校させるといった状況が見られました。現在、県民の避難者は14万5千人ですが、そのうち、5万6千人が県外に逃げています。
福島県が通常の状態に戻るには、まだまだ時間がかかると思います。緊急時避難準備区域の解除はありましたが、除染はされぬままです。問題のひとつひとつを追及しながら、行政、国の施策に注文をつけていきたいと考えます。
福島民友新聞社長の神田俊甫は、「痛恨の極み」と記者に犠牲者がでたことに悔やみきれない思いを打ち明ける。
今回の震災で入社3年目の若い記者が、南相馬で津波を取材している最中に殉職しました。付近の人たちに津波が来ると伝えながら避難誘導していたとの彼に関する目撃証言があります。痛恨の極みです。警察・消防が命を賭 して、住民の生命・安全を守る。それと同様に、新聞社も命を賭して情報を集め、どんな困難な状況でも読者のもとに届けるという社会的使命があるのだと改めて痛感しました。
いま福島県は、地震、津波、原発事故、風評被害の四重苦に悩まされています。避難民の自動車の放射性物質の測定が行われるなど、風評被害をされにエスカレートさせる「福島いじめ」とも言える状況が生じています。
こうした中で、福島県民あるいは全国の人たちに何を伝えていくのか。新聞になにができるのかを自問自答している毎日です。
大震災の最前線で取材活動に取り組んでいる記者も、経営者も震災によって、ジャーナリズムとは何なのか、を日々考えている。被災地の地方紙の経営者もまた、記者と同じように震災報道のなかで、ジャーナリズムの担い手としての自分自身の変革に迫られている。