最初の6時間
日本放送協会(NHK)「ニュース7」編集責任者の等々力健は、「はじまりは、いつもの警報音だった」と、 気象庁の高度利用者向け緊急地震速報の受信端末が鳴らした警報で始まった、最初の6時間を振り返る。
2時46分48秒、緊急地震速報が発令された。総合テレビは参議院決算委員会の中継放送中だった。
菅総理大臣の外国人献金問題などでこの日の国会は注目度が高い……、緊急地震速報は外れる可能性がゼロではない……と思っているうちに、放送センターが大きく揺れた。しかも長い。
「間違いない!」。2時48分18秒、NHKは、すべての放送波8波で地震報道を始めた。
スタジオの第一声は「国会中継の途中ですが、地震・津波関係の情報をお伝えします。いま東京のスタジオも揺れています」だった。
放送からしばらくは「東北地方で強い地震、念のため津波に注意」という地震速報を、仙台・青葉区と石巻の固定カメラの激しく揺れる映像とともに繰り返した。
大津波はいつ来るんだ、そんな思いがよぎった矢先、午後3時14分、釜石の固定カメラが異常を捉えた。
港の岸壁を海水が乗り越え始めた。一気に流れ込む海水、1分もたたないうちに、トラックが流された。
宮古、気仙沼、銚子、さらに八戸で、車が、漁船が、港湾施設が押し流され、街が津波に飲み込まれていった。
想像を超える大津波の威力、私たちはさらにそのすさまじさを目撃する。午後3時54分、仙台平野の上空のNHKのヘリコプターが名取川河口付近に押し寄せた大津波を捉えた。田畑・住宅・車を黒い渦が次々に巻き込んでいく。ヘリはこのあとも海上を進む大津波を捉え、さらに仙台空港が水没し、多くの人がターミナルビルの屋上から救助を求めている様子を伝えた。そして、放送は1時間近く、このヘリが送ってくる宮城県から福島県にかけて海岸沿いの映像を中心に組み立てた。
交通や通信の事情が極端に悪い中、この日の午後、東北の被災地から届く映像は、仙台や福島、郡山などの市街地からのものを除いては、このヘリの映像と各地の固定カメラの中継映像がほとんどすべてだった。しかし、ヘリのフライト時間には限りがある。仙台平野のヘリは午後5時前には海岸線を離れた。各地の固定カメラも非常用バッテリー(2-4時間分)の電源が落ちて、夕方から夜にかけてはほとんど使えなくなっていった。
放送は途切れることが許されない。そして後戻りもできない。放送を出しながら、次はなに、次はなに、と選んでいくのが編責の役目だ。
午後4時半ごろから、首都圏の情報を中心に津波以外のさまざまな情報が入るようになった。目だったのは、製油所の火災の中継映像で、ほかにも首都圏の鉄道の運転見合わせ、地震による土砂崩れの被害の情報などがあった。午後5時前には、東京電力福島第一原発で非常用ディーゼル発電機が一部使えなくなったという情報も入ってきた。
伝えるべき情報がより多様になる中で、放送が大きく変わったのは、午後6時前の枝野幸男官房長官による「職場待機」の呼びかけだった。「帰宅困難者」による混乱が現実のものになろうとしていた。
午後7時、通常ならば、「ニュース7」はその日のニュースをまとめて伝える。だが、休まず放送を出し続けてきたため、情報と映像を十分にせき止めるだけの時間がない。7-8時台も、大津波警報と帰宅困難者という二つの現在進行形のテーマをめぐって、いま何が起きているのか、何に注意が必要かを中心に伝えていくことになった。
その中で、増えてきたのが原子力発電所にかかわる情報だった。女川原発1号機の火災、福島第二原発の「10条通報」(同法第10条に基づく原子力事業所から主務大臣への通報)、そして、7時台後半には福島第1原発の「原子力緊急事態」宣言と続いた。「緊急事態宣言」については、枝野官房長官の記者会見を中継し、専門記者がそれを解説するという、その後“定番”となる方法で10分以上伝えた。ただ、内容は、この時点では放射性物質が漏れ出ていないことを強調し、住民に落ち着いて行動するように呼びかけることに主眼を置くものだった。
この時間帯、むしろより切迫感が増したと感じられたのは都内の帰宅困難者の状況だった。黙々と歩き続ける人びと、まったく動かない都心部の渋滞の車列、ターミナル駅の人だかり……。8時台後半は、主にこうした映像を流したりしながら、津波に対する警戒の呼びかけや、停電などのライフラインについての情報、それに新たな被害情報を伝えていった。
そうして放送をはじめて6時間10分、東京駅の映像を最後に、編責業務を引き継いだ。
中継映像を多用する中で、目に見える事象にとらわれて、肝心の情報を十分に伝えられないという問題が残った。大津
波が確認されるまでの30分間、大津波警報が出されていたのに、放送は一時、東京都内の地震被害や火災の情報に振り向けられた。優先順位はどちらにあったのか。放送として単調なものになっても、愚直に繰り返し避難を呼びかけるべきではなかったか。反省すべき点だ。
東京の「帰宅困難者」は目に見えた。被災地の「避難住民」は目に見えなかった。映像はなくても、被災地からの電話リポートなどで、もう一歩踏み込んだ情報提供ができなかったかと思う。
さらにもう一つ、原発事故という目に見えない情報の扱いも難しかった。「緊急事態」が宣言されたことで、尋常ではないとの意識は確かにあったし、その分、時間をかけて伝えもした。ただ、その伝え方には「住民に無用の混乱を起こしたくない」という配慮が強く働いた。放送を引き継いでまもなく、午後9時23分、3キロ圏内の住民に退避指示が出された。残念ながら、そうした事態の展開を見通すことはできなかった。
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参考文献
新聞研究(日本新聞協会刊)2011年6月
膨大な被災者の今を伝え続ける 河北新報社・編集局長 太田巌
地方の視点で震災と原発に向き合う 福島民報社・編集局次長 安田信二
求められる情報、総力で迫る 朝日新聞東京本社・社会グループ 石田博士 | 朝日新聞名古屋本社・報道センター次長 日浦統
最初の6時間 テレビは何を伝えたか 日本放送協会「ニュース7」編集責任者・等々木健
新聞研究2011年7月号
危機に問われる新聞力 岩手日報社・常務取締役編集局長 東根千万億
未曾有の災害連鎖を伝える報道 福島民友新聞社・編集局長 加藤卓哉
総合力で新聞の力を示すために 読売新聞東京本社・編集局総務 松田陽三
特別紙面「希望新聞」の取り組み 毎日新聞東京本社・生活報道部長 尾崎敦
現場取材で感じる人々の思い 茨城新聞社・日立支社 川崎勉
被災者基点と共助を座標軸に 河北新報社・論説委員長 鈴木素雄
新聞研究2011年8月号
激動の原発事故報道 朝日新聞東京本社・前科学医療エディター 大牟田透 | 朝日新聞東京本社・政治グループ 林尚行
率直な疑問をぶつけていく 東京新聞・科学部 永井理
地元の安全対策論議に応える 静岡新聞社・社会部長 植松恒裕
食の安全・安心と報道の役割 日本農業新聞・農政経済部長 吉田聡
市民による震災報道プロジェクト OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代
新聞研究9月号
地域社会との新たな関係づくり 河北新報社・メディア局長 佐藤和文
原発災害報道にツイッターを利用 日本放送協会 科学・文化部長 木俣晃
新聞社の高い取材力を実感 グーグル・プロダクトマーケティングマネージャー 長谷川泰
長野県栄の震災をどう報じたか 信濃毎日新聞社・飯山支局長 東圭吾
感情を抑えて、被災地に寄り添う 河北新報社・写真部 佐々木 浩明
新聞研究2011年10月号
取材で感じた報道写真の役割 毎日新聞東京本社 編集編成写真部 手塚耕一郎
後世に「教訓」を伝える 岩手日報社・編集局報道部次長 熊谷真也
全社的訓練とノウハウが結実 日本放送協会・福島放送局放送部 鉾井喬
頼られる存在であり続けるために 岩手日報社・編集局報道部長 川村公司
震災のさなかのある地から 河北新報社・編集局長 太田巌
調査情報(TBS刊)2011年7-8月号
未だ蘇る声 東北放送・報道部 武田弘克
震災特番 Web配信 TBSテレビ 報道局デジタル編集部担当部長 鈴木宏友
調査情報2011年9-10月号
テレビ報道が信頼を回復するために 映画作家 想田和弘
震災の前と後で日本の政治は変わっていないし、私も変わらない 文芸評論家・文化史研究家 坪内祐三
「災後」社会を「つなぐ」 政治学者 御厨貴
「焼け太り」のひとつだに無きぞ悲しき フリープロデューサー 藤岡和賀夫
気仙沼で生まれた自分しか話せないことがあると思うから スポーツジャーナリスト 生島淳
三陸彷徨 魂と出会う地で JNN三陸臨時支局長 龍崎孝
結局私は、記者ではなかった TBSテレビ・報道ニュース部「Nスタ」 森岡梢
放送研究と調査(NHK放送文化研究所刊)2011年6月号
東日本大震災発生時 テレビは何を伝えたか(2) メディア研究部 番組研究グループ
東日本大震災・放送事業者はインターネットをどう活用したか メディア研究部 村上聖一
放送研究と調査2011年7月号
3月11日、東日本大震災の緊急報道はどのように見られたのか メディア研究部 瓜知生
東日本大震災に見る大震災時のソーシャルメディアの役割 メディア研究部 吉次由美
放送研究と調査2011年8月号
東日本大震災・ネットユーザーはソーシャルメディアをどのように利用したか メディア研究部 執行文子
放送研究と調査2011年9月号
原子力災害と避難情報・メディア メディア研究部 福長秀彦
東日本大震災・被災者はメディアをどのように利用したか 世論調査部 執行文子
大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか メディア研究部 井上裕之