被災地に住む
TBSテレビ報道局の森岡こずえは、3月11日、たまたま岩手県沿岸部に入った。「海鮮丼」の取材中に森岡は、被災した。TBSをキーステーションとするJNNは、宮城県気仙沼市に南三陸臨時支局を開設することになる。森岡は、6月11日、臨時支局に赴任するため、気仙沼駅に降り立った。
入社して7年、番組制作しかしたことがない。バラエティ局から報道局に異動してからこの1年半も、夕方の報道番組内の特集枠を制作している。つまり、私は報道局員の名刺を持ちながらも突発的な事件や事故の取材をしたことがなかった。「海鮮丼」の取材をするために岩手県沿岸部に入ったのが、たまたま3月11日だった。
午後2時46分、釜石沖での取材を終え、宮古市へと北上する国道45号線の上で、私を含む4人態勢のクルーはあの地震に遭遇した。カーナビは山田町、船越湾を指している。土地勘がないため、海を見つめる住民に安全な場所を尋ねようと車を降りたそのとき、初めて海の異常さに気がついた。
津波が襲い、さっきまで穏やかだった海が、町を丸ごと飲み込んでいく。私たちがいる場所は、たまたま海抜50mの場所だった。しんじがたいその惨状を伝えるために、慣れないリポートを、必死で繰り返す。夕方までに系列局のある盛岡にテープを運搬し、放送に貢献しよう。
私たちは、避難所となっている船越公民館で一晩お世話になりながら主愛を続けた。取材することでしか自分自身の置かれている状況を把握できなかったし、取材でもしていないと、この夢のような現実に自分が身を置いていることへの不安で押しつぶされそうだった。
臨時に作られた道路を通り盛岡の放送局まで戻ってこられたのは翌日の昼前だ。山田の状況をいち早く伝えたい。すぐさま編集にとりかかった。あの避難所で「生きている」を伝えたかった。
しかし、その日テレビでは、津波が町を襲うシーンばかりが繰り返し流された。もどかしさを抱えながら、私は放送局の会議室で横になった。
ラジオから「山田町の△△さんの安否をご存知の方はお知らせください」というアナウンスが聞こえてきたのは、うとうととし始めた頃だった。私はローカル局のデスクに懇願しにいった。山田町の避難所の映像を持っている。その映像は安否を知りたい人が映っているかもしれない。それをテレビで流してほしい。懇願しながら、怒っていた。怒りながら、号泣していた。
今振り返れば、非常に冷静さを欠いた、ひとりよがりの訴えだったと思う。未曾有の大震災に直面したローカル局を前にして、あまりに視野の狭い訴えだったと思う。
帰郷後も、私は山田町のその後が気になってしょうがない。「被災地」に女性記者を送り込むことに後ろ向きな会社の網の目をくぐって、どうにかして山田に行く手段はないかと、私は探していた。チャンスは2週間後に来た。山田町にいる親戚に会いに行くという親子を見つけ、単身ハンディカムでの密着取材をすることになったのだ。あの町はどうなっているのか。
後になって思うと、このときの訪問が、その後の私の震災取材の姿勢を形成したと思う。震災発生からの数日間持っていた「私が発信しなきゃ」という必死感は、この訪問を境に、良くも悪くもほとんどなくなっていった。あの晩を過ごした人たちと再会を喜び、嬉しい報告や悲しい報告を聞いた。初めて出会った人とも、すぐに打ち解けた。
しばらくしても、別の被災地で取材をしながら、時間を作っては山田町を訪ねた。まるで私の兄や、親戚の叔母のようにふるまってくれるその人たちに、ただ、会いたくて、ただ話を聞きたかった。プライベートで会いにいくこともあったし、電話をかけてきて愚痴をこぼしてくれるときには「本音」に近づけたようで嬉しくもあった。
そんな経験をしてきた上で、6月11日、私はJNN三陸臨時支局のある気仙沼駅に降り立った。志願したわけでもなかったし、一日でも早く帰りたかったというのが本音。支局仲間の中には、もっとずっと滞在したいと言う人や、楽しいと言う人もいたので人それぞれだろう。
今、三陸支局で自分が何を感じながら記者をしていたかを思い返してみる。すると「頑張って」と言わないようにしよう、という赴任前に思っていた意識がなくなっていることに気づく。なぜだろう。誤解を恐れずに言うと、もしかしたら私は、避難所や仮設住宅、知人の家で暮らす被災地の方と自分を重ね合わせていたのかもしれない。これは山田町でも経験していないことだった。
本来の居場所でないところで1カ月暮らしてみると、私が気仙沼で出会った人々は、自分と違うサイド、つまり、特別な“被災地”に住んでいる“被災者”ではなく、すぐ隣にいる気仙沼で暮らしている人になったのかもしれない。だから、「“頑張って”と言わないようにしよう」という意識が必要なくなっていたのだろう。頑張ってほしい人には「頑張って」と言えばいいし、いや、むしろ「頑張って」と声をかけられることの方が多く、この言葉を意識しなくなることは私のなかの“被災”に対する特別感が薄まったことの表れのおうに感じる。仮設住宅の一部屋でお茶をご馳走になったり、道に迷って通りすがりの車に支局まで送ってもらったり、取材を抜きにした付き合いの方が記憶に残っているのも、その影響かもしれない。
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参考文献
新聞研究(日本新聞協会刊)2011年6月
膨大な被災者の今を伝え続ける 河北新報社・編集局長 太田巌
地方の視点で震災と原発に向き合う 福島民報社・編集局次長 安田信二
求められる情報、総力で迫る 朝日新聞東京本社・社会グループ 石田博士 | 朝日新聞名古屋本社・報道センター次長 日浦統
最初の6時間 テレビは何を伝えたか 日本放送協会「ニュース7」編集責任者・等々木健
新聞研究2011年7月号
危機に問われる新聞力 岩手日報社・常務取締役編集局長 東根千万億
未曾有の災害連鎖を伝える報道 福島民友新聞社・編集局長 加藤卓哉
総合力で新聞の力を示すために 読売新聞東京本社・編集局総務 松田陽三
特別紙面「希望新聞」の取り組み 毎日新聞東京本社・生活報道部長 尾崎敦
現場取材で感じる人々の思い 茨城新聞社・日立支社 川崎勉
被災者基点と共助を座標軸に 河北新報社・論説委員長 鈴木素雄
新聞研究2011年8月号
激動の原発事故報道 朝日新聞東京本社・前科学医療エディター 大牟田透 | 朝日新聞東京本社・政治グループ 林尚行
率直な疑問をぶつけていく 東京新聞・科学部 永井理
地元の安全対策論議に応える 静岡新聞社・社会部長 植松恒裕
食の安全・安心と報道の役割 日本農業新聞・農政経済部長 吉田聡
市民による震災報道プロジェクト OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代
新聞研究9月号
地域社会との新たな関係づくり 河北新報社・メディア局長 佐藤和文
原発災害報道にツイッターを利用 日本放送協会 科学・文化部長 木俣晃
新聞社の高い取材力を実感 グーグル・プロダクトマーケティングマネージャー 長谷川泰
長野県栄の震災をどう報じたか 信濃毎日新聞社・飯山支局長 東圭吾
感情を抑えて、被災地に寄り添う 河北新報社・写真部 佐々木 浩明
新聞研究2011年10月号
取材で感じた報道写真の役割 毎日新聞東京本社 編集編成写真部 手塚耕一郎
後世に「教訓」を伝える 岩手日報社・編集局報道部次長 熊谷真也
全社的訓練とノウハウが結実 日本放送協会・福島放送局放送部 鉾井喬
頼られる存在であり続けるために 岩手日報社・編集局報道部長 川村公司
震災のさなかのある地から 河北新報社・編集局長 太田巌
調査情報(TBS刊)2011年7-8月号
未だ蘇る声 東北放送・報道部 武田弘克
震災特番 Web配信 TBSテレビ 報道局デジタル編集部担当部長 鈴木宏友
調査情報2011年9-10月号
テレビ報道が信頼を回復するために 映画作家 想田和弘
震災の前と後で日本の政治は変わっていないし、私も変わらない 文芸評論家・文化史研究家 坪内祐三
「災後」社会を「つなぐ」 政治学者 御厨貴
「焼け太り」のひとつだに無きぞ悲しき フリープロデューサー 藤岡和賀夫
気仙沼で生まれた自分しか話せないことがあると思うから スポーツジャーナリスト 生島淳
三陸彷徨 魂と出会う地で JNN三陸臨時支局長 龍崎孝
結局私は、記者ではなかった TBSテレビ・報道ニュース部「Nスタ」 森岡梢
放送研究と調査(NHK放送文化研究所刊)2011年6月号
東日本大震災発生時 テレビは何を伝えたか(2) メディア研究部 番組研究グループ
東日本大震災・放送事業者はインターネットをどう活用したか メディア研究部 村上聖一
放送研究と調査2011年7月号
3月11日、東日本大震災の緊急報道はどのように見られたのか メディア研究部 瓜知生
東日本大震災に見る大震災時のソーシャルメディアの役割 メディア研究部 吉次由美
放送研究と調査2011年8月号
東日本大震災・ネットユーザーはソーシャルメディアをどのように利用したか メディア研究部 執行文子
放送研究と調査2011年9月号
原子力災害と避難情報・メディア メディア研究部 福長秀彦
東日本大震災・被災者はメディアをどのように利用したか 世論調査部 執行文子
大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか メディア研究部 井上裕之