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「そのとき、メディアは――大震災のなかで」第1部 ⑥ あの声がまだ聞こえる

2012年4月9日

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あの声がまだ聞こえる

 仙台市に本社を置く東北放送の報道部記者の武田弘克は、そのとき、津波による大きな被害が出ることになる荒浜地区にいた。武田は津波にのまれた町の水没したビルに逃げ込んだ。

 

 あの日午後、私は仙台市若林区荒浜で産業廃棄物の取材をしていた。緊急地震速報を伝える携帯電話のアラームが鳴った。タクシーを横道に止めると、間もなく激しい揺れが始まり、デジタルカメラを手に外に飛び出した。経験したことのない激しい揺れは一旦おさまり、タクシーに戻るとラジオは大津波警報が出たことを伝えていた。

 避難誘導にあたっていた警官が避難を始めた。「津波が来ます。高台に避難してください」と言い残しパトカーで走り去った。それをきっかけに、渋滞の車列もパトカーを追うように、丁字路降参店でUターンしていった。津波は間もなくやってきた。

 私と運転手は、道の反対側にあった電機メーカーの事務所に避難することにした。走っている途中、側溝からは黒い下水が溢れ出し、道路を覆っていく。事務所の2階へ上がる階段に辿り着き後ろを振り返ると、私たちが車で走ってきた道路の向こう側、およそ50メートル先で白波が立つのが見えた。この間もカメラを回し続けた。逃げなければという焦りと、津波を撮らなければならないという思いが交錯していた。階段では高齢女性が腰が抜けた状態で一段一段登っている。女性の弟だという人にカメラを預け、女性が階段を登るのを手伝った。次の瞬間、背後から凄まじい轟音が響いてきた。振り返ると材木を巻き込んだ激流が流れ込んできた。白波が立つのを見てからわずか20秒から30秒だった。

 なんとか3階まで辿り着くと、私たちがさっきまでいた場所は、一面茶色い水に覆われ、ありとあらゆるものが押し流されていた。ヘッドライトがついたままの乗用車やトラックのほか、貨物用コンテナも次から次へと押し流され、私たちの居る事務所にぶつかってくる。その様子を撮影していると、電柱に引っかかった車の窓から身を乗り出し、子供2人を両脇に抱えている男性を見つけた。

 私たちが避難した事務所には、消防団の経験がある2人の男性がいて、彼らが中心となって、救助活動が始まった。一人また一人と取り残されていた人たちが、流れ着いた貨物コンテナを伝って救助されていく。私は彼らの横でカメラを回しつつ悩んでいた。このまま撮影を続けるべきか?撮影を止めて共に助けるべきか……。

 50メートルほど離れたコンビニエンスストアの屋根に子供1人を含む3人が取り残され、その裏側には車の屋根に取り残された女性が1人確認できた。

 夜になると星空が広がった。その光に温かみはなく、ただ大気を冷やしていくばかりに思えた。足元は寒さで凍りついている。空を飛びかうヘリコプターの音とサーチライトが恨めしかった。「大丈夫ですかー」。ほの暗い闇に向かって声をかけると「もう限界です」と女性の声が返ってきた。他にも至る所から男性や女性の叫びがこだまする。何を言っているのかも聞き取れない叫びがほとんどだ。ただ、必死で助けを求めていることだけは分かる。

 私は事務所の中で一夜を過ごした。しかし、夜が明けると、車の屋根に横たわっている女性が見えた。寒さで息絶えていたのだ。もっと、もっと声をかけ続けていればよかったと、私は未だに悔やんでいる。もしかしたら助けることができた命だったかもしれない。

 本社に辿り着いたのは、地震発生から27時間後の午後6時だった。

 あの日から3カ月、被災地の状況は日々変化している。しかし、津波から避難したあの夜、四方八方から響いていた助けを求める叫び声は未だに耳から離れない。

 

 記者たちはそのとき、死と隣り合った。現地からのルポルタージュは、緊迫した震災地と避難民の姿がはっきりとみえた。ただ、「客観報道」という名の呪縛から解き放たれ、自らの苦悩を語ることはなかったように思う。彼らの魂の叫びは、紙面や誌面、画面には現れなかったといえるだろう。そして、彼らは日本新聞協会の機関誌など、許される空間のなかで、思いを綴ったのであった。客観報道という仮想の現実を超えて、多くの人に肉声を届けることが、震災後の世界を築く大きな力になるのではないか、と筆者は考える。

 

――

参考文献

新聞研究(日本新聞協会刊)2011年6月
膨大な被災者の今を伝え続ける  河北新報社・編集局長 太田巌
地方の視点で震災と原発に向き合う  福島民報社・編集局次長 安田信二
求められる情報、総力で迫る  朝日新聞東京本社・社会グループ 石田博士 | 朝日新聞名古屋本社・報道センター次長 日浦統
最初の6時間 テレビは何を伝えたか  日本放送協会「ニュース7」編集責任者・等々木健

新聞研究2011年7月号
危機に問われる新聞力  岩手日報社・常務取締役編集局長 東根千万億
未曾有の災害連鎖を伝える報道  福島民友新聞社・編集局長 加藤卓哉
総合力で新聞の力を示すために  読売新聞東京本社・編集局総務 松田陽三
特別紙面「希望新聞」の取り組み  毎日新聞東京本社・生活報道部長 尾崎敦
現場取材で感じる人々の思い  茨城新聞社・日立支社 川崎勉
被災者基点と共助を座標軸に  河北新報社・論説委員長 鈴木素雄

新聞研究2011年8月号
激動の原発事故報道  朝日新聞東京本社・前科学医療エディター 大牟田透 | 朝日新聞東京本社・政治グループ 林尚行
率直な疑問をぶつけていく  東京新聞・科学部 永井理
地元の安全対策論議に応える  静岡新聞社・社会部長 植松恒裕
食の安全・安心と報道の役割  日本農業新聞・農政経済部長 吉田聡
市民による震災報道プロジェクト  OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代

新聞研究9月号
地域社会との新たな関係づくり  河北新報社・メディア局長 佐藤和文
原発災害報道にツイッターを利用  日本放送協会 科学・文化部長 木俣晃
新聞社の高い取材力を実感  グーグル・プロダクトマーケティングマネージャー 長谷川泰
長野県栄の震災をどう報じたか  信濃毎日新聞社・飯山支局長 東圭吾
感情を抑えて、被災地に寄り添う  河北新報社・写真部 佐々木 浩明

新聞研究2011年10月号
取材で感じた報道写真の役割  毎日新聞東京本社 編集編成写真部 手塚耕一郎
後世に「教訓」を伝える  岩手日報社・編集局報道部次長 熊谷真也
全社的訓練とノウハウが結実  日本放送協会・福島放送局放送部 鉾井喬
頼られる存在であり続けるために  岩手日報社・編集局報道部長 川村公司
震災のさなかのある地から  河北新報社・編集局長 太田巌

調査情報(TBS刊)2011年7-8月号
未だ蘇る声  東北放送・報道部 武田弘克
震災特番 Web配信  TBSテレビ 報道局デジタル編集部担当部長 鈴木宏友

調査情報2011年9-10月号
テレビ報道が信頼を回復するために  映画作家 想田和弘
震災の前と後で日本の政治は変わっていないし、私も変わらない  文芸評論家・文化史研究家 坪内祐三
「災後」社会を「つなぐ」  政治学者 御厨貴
「焼け太り」のひとつだに無きぞ悲しき  フリープロデューサー 藤岡和賀夫
気仙沼で生まれた自分しか話せないことがあると思うから  スポーツジャーナリスト 生島淳
三陸彷徨 魂と出会う地で  JNN三陸臨時支局長 龍崎孝
結局私は、記者ではなかった  TBSテレビ・報道ニュース部「Nスタ」 森岡梢

放送研究と調査(NHK放送文化研究所刊)2011年6月号
東日本大震災発生時 テレビは何を伝えたか(2)  メディア研究部 番組研究グループ
東日本大震災・放送事業者はインターネットをどう活用したか  メディア研究部 村上聖一

放送研究と調査2011年7月号
3月11日、東日本大震災の緊急報道はどのように見られたのか  メディア研究部 瓜知生
東日本大震災に見る大震災時のソーシャルメディアの役割  メディア研究部 吉次由美

放送研究と調査2011年8月号
東日本大震災・ネットユーザーはソーシャルメディアをどのように利用したか  メディア研究部 執行文子

放送研究と調査2011年9月号
原子力災害と避難情報・メディア  メディア研究部 福長秀彦
東日本大震災・被災者はメディアをどのように利用したか  世論調査部 執行文子
大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか  メディア研究部 井上裕之

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