新聞を発行せよ
仙台市にある河北新報社の本社を地震が襲ったのは、夕刊の降版つまり紙面が作成し終わった直後のことだった。その時、編集局長の太田巌は、新聞を発行できるだろうか、と思った。
午後2時46分。仙台市で震度6強を観測した地震は、市中心部にある8階建ての河北新報本社ビルをも約3分間、縦、横、斜めへと激しく揺さぶった。
激烈を極める揺れの中、新聞制作系の報道部のワークステーション、整理部の組み版端末が何とか所定の場所にとどまっているのが、むしろ不思議に思えた。本社から北に12キロほど離れた、最新の免震構造が自慢の印刷センターとも連絡を取り、4セットの輪転機とも無傷で、停電に見舞われているものの自家発電で当分の新聞印刷に支障はなさそう、という回答を得た。
新聞づくりには大きく、取材・出稿、整理・紙面づくり、印刷の3工程がある。何とか三つのうち二つの見通しが付いた。
残る一つがそろわなかった。ビル8階に設置してある組み版基本サーバーが、横倒しになったのだ。
整理・紙面づくりの工程が自社でどう努力しても欠ける、と判断せざるを得なかった時点で、新潟日報社に紙面づくりをお願いすることを決めた。友好社の新潟日報はとは災害時の紙面制作協定を結んでいる。直近の今年2月にも、記事・画像を送り合い、お互いの8ページ建て紙面を作って印刷する訓練を実施していた。
新潟日報が作ってくれた号外の紙面データを受信終了は、午後6時55分。7時半には1万部を刷り終えた。本震発生から約5時間。翌日朝刊の発行を、いつものように絶対確実なものとして受け止めた瞬間だった。
盛岡市にある岩手日報社の本社ビルも大きくまた揺れの時間がいように長い地震に襲われた。編集局長の東根千万億は、発生直後からの編集局内が意外と落ち着いていた印象が残っている。
総合デスクの女性は喪服姿だった。祖父の葬儀中、弔辞が始まった途端に強い地震に見舞われた。全員が本堂の外に退避、彼女はそのまま本社に駆け付けたという。日中の地震だったため緊急呼び出し指令を出すまでもなく外勤記者たちは本社に続々参集した。
盛岡市の本社から沿岸の被災現場までは車で2時間以上かかる。総動員態勢が必要と分かり、局デスクは、取材応援に出向く本社記者たちに持たせる現金を総務局に手配した。現地で食料調達などに使うためだ。
地震発生から1時間後、連絡が取れない沿岸支局もある中、援軍の記者たちは2、3人1組で陸前高田市、宮古市、久慈市など沿岸各地に次々と出動した。続いて「人間バック」班が後を追った。撮影した現場写真を収めたメモリーカードを陸路本社に持ち帰るためだ。高度情報通信社会が当たり前の中でついつい忘れがちだが、非常事態下で確実なのはやはり「人力」だった。
三陸沿岸をはじめ、太平洋沿岸の各地に点在している新聞社の取材拠点を巨大津波が襲ったとき、記者たちは死と隣りあわせで、取材の使命を果たそうと動いた。
宮城県南三陸町にある志津川にある河北新報社の支局は、局舎が跡形もなく流された。
11日の本地震発生時、取材で町役場にいた記者は、防災無線が大津波警報を伝える中、車で支局近くの幼稚園に向かった。妻が仙台に出掛けていたために預けていた息子を受け取り、高台に避難するためだ。2人で、高台の志津川高校に退避できた。午後3時35分。見たこともない大きな津波が襲ってきて、町の中心部をのみ込んだ。自分たちの町が大変なことになっている。カメラのシャッターを切り続けた。
携帯電話を持って、あちこちを歩き回って、本社報道部の電話への発信を続けた。午後7時ごろ。偶然か、必然かは確かめようがないが、つながった。報道部デスクに吹き込んだ迫真の記事は、社会面全体を横切る「大津波 消えた」の2段トッパンに、6段の大見出しで掲載された。
翌12日、一夜明けた町を取材後、通信が途絶えたままで、道路も寸断されていることを知った彼は、被災の様子、津波の瞬間を撮った写真を紙面に載せようと、息子の手を取り仙台の本社へと歩き始めた。午後1時ごろ。途中、親切な人の車に乗せてもらったり、また歩いたりして、午後6時過ぎ、やっと本社に着いた。必死の思いで届けた、津波来襲を撮り続けた写真は、翌13日朝刊の見開き2ページの写真グラフ面に、5枚組みの連続写真として載った。
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参考文献
新聞研究(日本新聞協会刊)2011年6月
膨大な被災者の今を伝え続ける 河北新報社・編集局長 太田巌
地方の視点で震災と原発に向き合う 福島民報社・編集局次長 安田信二
求められる情報、総力で迫る 朝日新聞東京本社・社会グループ 石田博士 | 朝日新聞名古屋本社・報道センター次長 日浦統
最初の6時間 テレビは何を伝えたか 日本放送協会「ニュース7」編集責任者・等々木健
新聞研究2011年7月号
危機に問われる新聞力 岩手日報社・常務取締役編集局長 東根千万億
未曾有の災害連鎖を伝える報道 福島民友新聞社・編集局長 加藤卓哉
総合力で新聞の力を示すために 読売新聞東京本社・編集局総務 松田陽三
特別紙面「希望新聞」の取り組み 毎日新聞東京本社・生活報道部長 尾崎敦
現場取材で感じる人々の思い 茨城新聞社・日立支社 川崎勉
被災者基点と共助を座標軸に 河北新報社・論説委員長 鈴木素雄
新聞研究2011年8月号
激動の原発事故報道 朝日新聞東京本社・前科学医療エディター 大牟田透 | 朝日新聞東京本社・政治グループ 林尚行
率直な疑問をぶつけていく 東京新聞・科学部 永井理
地元の安全対策論議に応える 静岡新聞社・社会部長 植松恒裕
食の安全・安心と報道の役割 日本農業新聞・農政経済部長 吉田聡
市民による震災報道プロジェクト OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代
新聞研究9月号
地域社会との新たな関係づくり 河北新報社・メディア局長 佐藤和文
原発災害報道にツイッターを利用 日本放送協会 科学・文化部長 木俣晃
新聞社の高い取材力を実感 グーグル・プロダクトマーケティングマネージャー 長谷川泰
長野県栄の震災をどう報じたか 信濃毎日新聞社・飯山支局長 東圭吾
感情を抑えて、被災地に寄り添う 河北新報社・写真部 佐々木 浩明
新聞研究2011年10月号
取材で感じた報道写真の役割 毎日新聞東京本社 編集編成写真部 手塚耕一郎
後世に「教訓」を伝える 岩手日報社・編集局報道部次長 熊谷真也
全社的訓練とノウハウが結実 日本放送協会・福島放送局放送部 鉾井喬
頼られる存在であり続けるために 岩手日報社・編集局報道部長 川村公司
震災のさなかのある地から 河北新報社・編集局長 太田巌
調査情報(TBS刊)2011年7-8月号
未だ蘇る声 東北放送・報道部 武田弘克
震災特番 Web配信 TBSテレビ 報道局デジタル編集部担当部長 鈴木宏友
調査情報2011年9-10月号
テレビ報道が信頼を回復するために 映画作家 想田和弘
震災の前と後で日本の政治は変わっていないし、私も変わらない 文芸評論家・文化史研究家 坪内祐三
「災後」社会を「つなぐ」 政治学者 御厨貴
「焼け太り」のひとつだに無きぞ悲しき フリープロデューサー 藤岡和賀夫
気仙沼で生まれた自分しか話せないことがあると思うから スポーツジャーナリスト 生島淳
三陸彷徨 魂と出会う地で JNN三陸臨時支局長 龍崎孝
結局私は、記者ではなかった TBSテレビ・報道ニュース部「Nスタ」 森岡梢
放送研究と調査(NHK放送文化研究所刊)2011年6月号
東日本大震災発生時 テレビは何を伝えたか(2) メディア研究部 番組研究グループ
東日本大震災・放送事業者はインターネットをどう活用したか メディア研究部 村上聖一
放送研究と調査2011年7月号
3月11日、東日本大震災の緊急報道はどのように見られたのか メディア研究部 瓜知生
東日本大震災に見る大震災時のソーシャルメディアの役割 メディア研究部 吉次由美
放送研究と調査2011年8月号
東日本大震災・ネットユーザーはソーシャルメディアをどのように利用したか メディア研究部 執行文子
放送研究と調査2011年9月号
原子力災害と避難情報・メディア メディア研究部 福長秀彦
東日本大震災・被災者はメディアをどのように利用したか 世論調査部 執行文子
大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか メディア研究部 井上裕之