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 原発報道にツイッター 上

  福島第1原発の事故に際して、NHKがツイッターによって報道をした。ソーシャル・ネットワーク・サービスとメディアの関係が大きく変わる瞬間だった。

 その主体は、科学・文化部である。ツイッターのアカウントを取得したのは、大震災が起きた2011年の初めのことだった。災害報道に活用しようと考えていたわけではなかった。原発事故の直後は、ツイッターでつぶやかれている被災者の情報をチェックして、選択して放送することに利用していた。

 科学・文化部長の木俣晃は、災害報道にNHKのツイッターがつぶやき始めた瞬間を振り返る。

 

 担当デスクがツイッターでつぶやき始めたのは、(3月)11日夜8時を回ってからだ。翌12日の明け方までのツイート  は12件ほど。しかし12日午前9時すぎから急激につぶやきが増えている。この頃からは、ニュースを短く伝えたほか、菅総理や枝野官房長官の記者会見の内容を10から20の連続ツイートで伝えたり、テレビで伝えた記者解説の内容をツイートしたりしている。この日のツイート数は、293に上っている。その後も4月にかけてはツイート数が100を超える日も多く、かなりのヘビーユーザーだったと言える。

 フォロワーの数は、震災前日の3月10日に3千人ほどだったが、1カ月後には8万人を超え、3カ月後に12万人に達した。この間、フォロワーとのやりとりを繰り返す中で化学反応のようなものが生じ、その使い方や、伝える内容に少しずつ工夫が加えられていった。そして、テレビ解説と同じように、ツイッターにも次第に「新たな役割」が加わっていった。

 ◇     3月12日 避難20キロ圏に拡大

・     【原発19:22】みなさん念のため、テレビでこれまで放送した内容とおなじものをつぶやいています。

・     【原発19:22】原子力発電所から放射性物質が放出された場合、ヨウ素や希ガスといった気体のような状態で出るため、これらの物質から出る放射線の被曝を防ぐ必要があります。

◇     3月13 日頃 3号機で水素爆発

・     【被爆とは①】ご質問の多い被爆について、ご説明します。「被ばく」とは、放射線を浴びることです。私たちは、日常の生活の中でも、宇宙から降ってくる放射線や食べ物の中に入っている放射線などを、平均で、年間2400マイクロシーベルトを浴びています。

◇     4月17日 質問に答えるツイート例

・     3号機では584体の燃料集合体のうち32本、5.8%がMOX燃料でしたRT@×××3号機はMOX燃料を使っていると認識しています。間違いないですか?

・     私たちも当初から注視して複数の関係者に取材していますが、現在の炉の状態では、かなり条件が重ならないかぎり再臨界の可能性は少ないと見られます。RT@再臨界の可能性はないのでしょうか?

◇     ブログと連動したツイート例

・     【子どもの被ばく限度は1ミリなのか?20ミリなのか?】学校の安全目安をめぐってわき起こる多くの疑問。藤原記者の解説をブログに掲載しました。引き続きご意見、募集しています。http://bit.ly/h17O6Q

 ――

参考文献

新聞研究 2011年9月号
原発災害報道にツイッターを活用――テレビ・ラジオを補う効果
日本放送協会 科学・文化部長 木俣晃

 

 

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こちらは「とめさいがいFM」

 宮城県の北部にある登米市に本拠を置く、登米コミュニティエフエムは、震災のほぼ1年前の2010年4月4日に産声をあげた。震災発生のそのとき、音楽CDを紹介する番組を放送していた。

 代表取締役兼局長の斉藤恵一は、「防災を目的に作られた局でしたので、マニュアルこそ作っていなかったが、日ごろから話しあっていた災害時の行動に沿ってスタッフは対応しました」という。

 登米コミュニティーエフエムは、社員が3人、契約社員1人、パーソナリティーは全員パートである。現在「とめさいがいFM」として、従来の出力20Wから100Wに増力して放送している。

 

 こういう言い方は変ですが、もし津波が来なかったら、たぶん登米市が最大の被災地だったと思います。家屋などに被害が出たのは5360棟です。災害時、登米市は沿岸部の復旧復興の支援に当たる方針を出しましたので われわれもその方針に則って、現在も南三陸町の支援に回っています。

 局舎がある通りは、20軒から30軒程度の建物が全壊しましたが、放送を続けました。3月31日まで、24時間態勢でパーソナリティーはじめスタッフはスタジオに寝泊まりして常時、放送にあたりました。

 登米には、南三陸町から5時間歩いて避難された方、津波でずぶ濡れになりながら避難所までたどり着いた方、登米に来る途中の杉林で枝に子どもの遺体が引っかかっていたのを降ろしたり、足元が遺体だらけで踏まないと歩けないぐらいで「ごめんなさい」と言いながら避難してきた方、そういった方がたくさんいらっしゃいます。

 われわれは、仮設住宅で暮らす南三陸町の方々に、南三陸町の情報を届けようと一生懸命やっています。行政もそれを理解し、あと2年間、臨時災害放送局を継続する意向です。まだまだわれわれは、被災地の支援をしていきたいと思います。いずれ町を出て行った若い人たちが戻ってくれるよう、戻る場所があるよう、がんばっていきたいと思います。

 ――

参考文献

新聞研究2011年8月号
市民による震災報道プロジェクト        OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代
月刊民放 2002年1月号
被災地のメディアは何を伝え、被害者にどう利用されたか
――民放連研究所「東日本大震災時のメディアの役割に関する総合調査」報告会から

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 ラジオも「つぶやいた」

 福島市にあるラジオ福島はそのとき、ワイド番組を放送中だった。アナウンサーは安全の確保を繰り返しよびかけた。このときから、350時間連続の生放送が続くことになる。東京キーステーションとのラインや、インターネットが使えなくなった。番組スタッフが使っているスマートフォンでネットに接続することに気付いた。

 編成制作報道部長の伊藤直樹は、即座にネットを利用すると判断した。

  番組スタッフが持っていたiPhoneでネット接続ができることが判明し、早速Gメールのアカウントを取り、情報提供を呼びかけました。これが地震発生からおよそ2時間後です。この時点で、リスナーからメールで寄せられた情報をラジオとツイッターで発信する、ネット連動の災害放送がスタートしました。

 情報が欲しい、水が欲しい、携帯電話の充電器が欲しい、そんな声を放送と一緒にツイッターに出しますと、あっという間に情報が集まりました。ほかにも、避難所での過ごし方、哺乳瓶がないときのミルクの飲ませ方など、医師をはじめ、いろいろな専門家の方からも情報をいただきました。寄せられた情報は放送し、順次ネットにアップしていきました。

 課題としては、届いた情報を確認せずに全部放送していましたから、リスナーを混乱させるおそれがあったことです。1週間ぐらいで電話が復旧してからは確認した上で情報を取捨選択して伝えました。安否情報も、よせられてきたものをどこまでネットにあげていいのか、かなり大変でした。

 特に気をつけたのは、安心情報を伝えようということです。パニックを起こさせない、ストレスを感じさせない。リスナーに寄り添う。そして、聞きなれたアナウンサーの声で話すことに努めました。

――

参考文献

新聞研究2011年8月号
市民による震災報道プロジェクト        OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代
月刊民放 2002年1月号
被災地のメディアは何を伝え、被害者にどう利用されたか
――民放連研究所「東日本大震災時のメディアの役割に関する総合調査」報告会から

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チリ地震津波の教訓

 過去の津波の経験が生きた三陸の地域紙があった。岩手県大船渡市に本拠を置く東海新報社である。津波が襲った沿岸部の大船渡市、陸前高田市、住田町の2市1町、気仙郡と呼ばれるエリアの新聞である。東海新報社は、パソコンと2台のプリンターをつないで新聞を発行し続けた。

 取締役編集局長の佐々木克孝は、1958(昭和33)年のチリ地震津波が今回の新聞の製作に結びついたことを明らかにする。

 

 創刊した2年後にチリ地震津波で社屋が被災し、1週間、新聞が発行できませんでした。その悔しさから、1988(昭和63)年に、高台に社屋を移転しました。そして、2年前に停電に備えて社屋内に自家発電装置を設置しまし  た。被災直後は、電気も何もシャットダウンしましたが、自家発電により翌日の号外を発行することができたのです。

 しかし、被災当日は、輪転機が動かせませんでした。技術者が道路事情で来ることができなかったため、パソコンから2台のプリンターでプリントアウトしました。カラーA3版で2000枚、これが限度でした。これを自分たちで避難場所に届けました。

 社員40人のうち、家を流された人は15人、家族を失った人が5人、亡くなった社員1人。こういった非常に限られた人数で、何とか連日、新聞を発行いたしました。

  新聞は、3月12日の号外から3月末までは無料で避難所に届けました。4月1日からは通常どおいの料金をいただきました。そのためには、きちんとした自分たちの心構えが必要だと考え、4月1日号では、初めてカラーを使いました。そしてテーマを「子どもと笑顔」と決め、8人の記者で一番いい写真を撮ってきたものを採用することにいたしました。

  振り返って考えてみると、われわれにとって被災直後から1週間が大事だったと思います。情報を収集し、伝達できた。それは地域にとっても、当社にとっても生命線になったということは間違いないだろうと思います。

――

参考文献

新聞研究2011年8月号
市民による震災報道プロジェクト        OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代
月刊民放 2002年1月号
被災地のメディアは何を伝え、被害者にどう利用されたか
――民放連研究所「東日本大震災時のメディアの役割に関する総合調査」報告会から

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NHKがUstで流れた

 ユーストリームでNHKの放送が流れるという、歴史的な出来事をつくったのは、広島県内に住む中学2年生の男子生徒だった。それは、後日わかる。時刻は、地震発生直後の午後3時3分だった。

  ユーストリームアジアは、違法な利用がないかどうか、24時間体制で監視している。NHK総合テレビの地震の特別番組が流れていることをつかんだのである。通常の判断であれば、地上波の放送をユーストリームで同時に流すことは違法であり、即座に遮断することができるシステムになっている。ユーストリームアジアは、緊急事態だとして、遮断を保留して、NHKに要請した。

  ジャーナリストの高瀬毅のインタビューに対して、ユーストリームアジア(本社・東京)の代表取締役社長の中川具隆は次のように述べている。

  「ユーストリームで配信しているユーザーがいることを確認したが、万単位の人がフォローしていることがわかった。

 そこで、これは国民が必要としている重要な情報であるということと、電気が切れてテレビが観られない人や帰宅難民でユーストリームでしか情報が取れない人がいることを踏まえて判断してほしいということ。それに、NHKさんが自 身でも始めて欲しいということを伝えた」

 この要請に対して、NHKのデジタル部長の兄部純一はすぐに上層部に伝えた。そして30分後には了承の返事があったのである。兄部は、高瀬に次のように述べている。

 「本来なら認められないが、人を助けることができるなら黙認しようと即座に思った」

 ユーストリームによるNHKの地震の特別番組は、総合テレビが午後9時30分から開始された。これと並行して、NHKにはニワンゴからも同時送信の可能性の打診があり、午後7時40分、ニコニコ生放送を通じて配信が始まった。 さらに、13日午前0時過ぎから、ヤフーの同時配信も始まった。

 

――

参考文献

放送メディア研究 No.9 2012  (NHK放送文化研究所、丸善刊)
東日本大震災でテレビとネットはどう協力したか 高瀬毅

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