ブログ

ドキュメンタリー

このエントリーをはてなブックマークに追加

皇居前広場に避難

 『読売新聞八十年史』は、大震災直前までに、部数の増加や広告料金を引き上げるのに成功したことを述べたあとに、「関東大震災で画べい(餅)に帰す」との見出しを掲げる。

読売新聞は、大正12(1923)年8月19日鉄筋3階建ての新社屋が、現在の銀座に完成し、新築記念号を発行するとともに、大震災が発生した9月1日午後6時から丸の内の東京會舘で落成祝賀会を開こうとしていたのである。

 

   第一回の激震と同時にわが社の電気、ガス、水道は一斉に停止して輪転機の運転は不可能となり、活字ケースは全部転覆してこれまた使用不可能となった。しかし、新築の社屋そのものはさしたる被害がなかったので、関係社員は通信機能を失った社屋内に踏みとどまり、その後も断続的に襲来する激しい余震をおかしてガリ版ずりの号外を数回にわたって発行し、危険をおかして各方面に配布した。また、特報ビラ・ニュースを市中の主要な場所にはりつかるなど、地震の実況と情報報道に奮闘した。だが、同日夜に入って、日本橋方面を一なめにした大火は銀座方面に延焼し、本社を護っていた社員らはついに二重橋広場に避難するの余儀なきにいたり、新築早々の本社社屋は無残にも焼失するに至ったのである。

  『八十年史』は、関東大震災の項の最後に当時の松山社長が翌大正13(1924)年2月、経営不振の責任をとって退いたことを記して、「讀賣新聞社史は、ここにその前史を終わり」として、灰燼に帰した新聞社を立て直す正力松太郎による社業に筆を継いでいる。関東大震災が読売新聞に致命的な打撃を与えたことを物語っている。あるいはこういう言い方もできるだろう。大震災がなかったとしたら、内務官僚だった正力が新聞業界に入ることはなかったかもしれない。

  東京朝日の経理部長だった石井光次郎もまた、皇居前広場に避難した新聞人のひとりである。石井は内務省の官僚で警視庁勤務の経験もある。創業者の村山龍平に乞われて、大震災の前年の大正11(1922)年7月に朝日新聞社に入社、編集部門を担った緒方竹虎とともに日本の代表紙に育てた功績者である。専務まで務めた後、政界に入り閣僚を経験し、衆院議長までなった。

 当時の東京朝日の本社は、京橋区滝山町にあった。大正9(1920)年11月に新築されたばかりの鉄筋コンクリート四階建だった。

石井はそのときを振り返る。

    「朝日」の社屋に火が入ったのは夕方でしたね。わたしは最後までおりました。とにかく独身ものだけ残れ。家族持ちはいっぺん家へ帰って様子をみてこい。そして無事だったら帰ってこいといって独身者だけのこしった。そのうち、火が新橋の方に向いていたのに、銀座を回って、逆に新橋の方から滝山町の裏側に燃えてきた。若い奴らが暫くは、もみ消していたが、そのうち回りが焼けて「朝日」だけが残ってしまった。そこで皆、大事なものだけを持って、二重橋の真ん前に逃れ、「朝日」の本部とした。

  火の回りが早くて、3~4時間たって、どうなっているか見ようとしたら、「朝日」はすっかり焼けて、巻き取り紙(新聞用紙)なんかすっかり燃えてしまっていた。その晩のうちに帝国ホテルに使いをやって食糧を分けてもらい、部屋を借りた。警視庁に使いをやって、正力松太郎が官房主事をやっていたので、元の役人仲間だから正力のところへ行って「あそこ非常食があるだろうから、できるだけ食糧をもってこい」といってパンと、なにがうんともらってきた。二重橋前、何もありませんからね。

  『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』は、そのときの東京朝日の内部を証言によって再現している。

    通信部長美土路昌一は「東京版」を創設するため、記者や印刷要員を増員することになり、その日午後1時に面接のため、応募者20人を集めていた。窓外に目をやると、隣家の壁がバケツで水を流すように、ザーッとくずれ落ちてゆく。美土路はとっさに「活字台が倒れていはしないか」と考えた。活字が散乱しては、号外が出せぬ、夕刊発行もあぶない。まだゆれている社内を工場へかけ下りた。工場は予想どおり、活字が床に散乱し、みな呆然自失の有り様だった。「号外は出せるか」と美土路はどなった。「子の有り様です。無理かも知れない」という声が返ってきた。美土路はその声を後ろに編輯局へかけ上がった。「そうだ。一刻も早く『大阪朝日』へ連絡せねば」と思ったのである。しかし、電話はすでに普通で、回復の見込みは不明ということだった。

  号外は出た。しかしながら、その部数は300枚ほどだった。工場内の活字ケースのほとんどが大音響とともに倒れ、見出し用の大きな活字と本文用の活字が混ざったような状態になったのである。できあがった号外は、本文用の2号活字がそろわなかったので、見出し用の活字が混じったものであった。

    整理部長緒方竹虎は1日の前夜、会社に泊まっていた。ちょうど加藤友三郎内閣がつぶれ、後任の首相山本権兵衛が組閣中だったので、かれは社内で夜を徹することになttなおである。その緒方の話はこうだ。「朝、編輯局に出て早版の整理をやっていたら、地震がきた。しばらくたって、揺り返しがやってきたが、その時がとてもひどく、写真室の硫酸が流れだしたり、社内はひどい有り様だった。工場の連中には、割合に社の近い月島あたりから通っている者が多かったので、“家がつぶれているかも知れないから、近い人は帰ってみろ。無事だったら戻って来てくれ、やられていたらもどらなくてもよいが――”といって帰した。しかし大体全員もどって来た。あの時はほうとうに涙ぐましい気がした」

 

 大震災が起きた時、東京朝日の編輯局長の安藤正純と、社会部長の原田譲二は欧米視察に海外出張中で不在だった。そして、社長の村山龍平は本拠地である大阪にいたのである。しかし、のちに社長となる緒方と美土路、そして石井という朝日の経営を担う人材がいたのである。

 ――

参考文献

 読売新聞80史

読売新聞

1955年12月

 

朝日新聞社史 大正・昭和戦前編

朝日新聞社

1991年10月

 

 別冊新聞研究 No.5

石井光次郎

1977年10月

 

毎日新聞七十年

毎日新聞社

1952年2月

 

日本経済新聞百年史

日本経済新聞社

1976年

 

新聞研究 別冊No.13

務臺光雄

1981年10月

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

河北はとらえた 

  通信が途絶したために、大震災に見舞われた首都の様子を他の地域から知ることは難しかった。ほぼ正確な第一報を放ったのは、河北新報であった。

 鉄道担当記者が、国鉄の鉄道電話による連絡に着目したのである。ほとんどの国の鉄道と軍隊は、一般の電話網とは別に独自の有線あるいは無線の連絡網を持っている。いったん急あるときに備えるためである。

 『関東大震災』のなかで、著者の吉村昭も河北の報道について特筆している。

 

   仙台の河北新報は、仙台鉄道局の鉄道電話によっていち早く正確な情報をとらえた。

   同社は、9月1日午後1時、仙台鉄道局に大火災発生の第一報が入ったのを察知し、1ページ大の号外を発行し、東 北六県の通信網を通じて各県に特報を出した。そして、9月2日の夕刊には「東京横浜殆ど全滅」の見出しでその惨状を克明に報じた。

  『河北新報の百年』は、「関東大震災の報道で独走」の誇らしい見出しで、震災1周年の回顧記事などをもとに、そのときを描いている。

    この地震は仙台でもかなり強く感じられた。同時に、東京との電話は不通になり、辛うじて鉄道電話だけがつながっていた。それによって、常磐線土浦付近の列車脱線転覆の第一報が入った。1日発行の2日付夕刊と朝刊は、東北大学理学部の地震計の針がとぶほとの大地震だったことと、この列車事故のもようを伝えるにとどまった。大災害らしいとの予想はついたものの、その時は知る手段がない。本社は仙台鉄道局の特別の許可をもらって、電話室に速記者を張り付け、情報を求めた。

   鉄道担当記者からの連絡は「万世橋駅は、すでに猛火に包まれ、付近一帯火は止め度もなく狂い回る」「東京駅危うし」などだった。「全員は愕然として驚いた。ともあれ、号外、二報、三報と続く魂消る報告を活字にして、号外を発行した。これがその日の12時(2日午前零時)近くであった」(回顧記事)この号外によって初めて、震災の概略が読者にもたらされた。

   また、仙台市内各官庁への電報など各方面からの情報を総合して、生々しい状況がまとまって伝えられるのは、2日発行の3日付夕刊と、3日付朝刊からである。

   トップは「昨日の地震の惨害 東京横浜殆ど全滅 下町各区既に全焼 東京駅猛火に包まる 横須賀も全滅す」や、「未曾有の大惨害 東京全市焦土と化す 大廈高楼続いて倒壊消失し 各所に死者の山を築く」など、四段、五段見出し。大きな活字が目立つ紙面は、記事ごとに「宇都宮電話」「宇都宮経由東京電話」「新潟経由東京電話」「新潟経由長野電報」などことわり書きがあり、苦労がしのばれる。

  福島県磐城市(現在のいわき市)にあった、磐城無線電信局が、河北新報の報道を世界に伝えたことも記している。

    震災を海外に知らせたのは、磐城無線電信局だった。横浜港にあった船舶の電報を傍受して米国に第一報を送り、6日間送信を続けた。当時の無線局長米村嘉一郎は「あのころ富岡地方には河北新報しか配達されず、その記事を翻訳して送信した」(昭和31年5月11日付本紙)という。

 ――

参考文献

 吉村昭

関東大震災  文春文庫 2004年8月

 

 河北新報の百年

河北新報社

1997年9月

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

グーグルは得意技で 下

 さらに、グーグルは6月7日、被災地の地元紙である7社と組んで、ユーチューブに「東日本ビジネス支援チャンネル」を立ち上げた。東奥日報(青森市)とデーリー東北(八戸市)、岩手日報(盛岡市)、岩手日日(同)、河北新報(仙台市)、福島民報(福島市)、福島民友(同)である。

 「支援チャンネル」に至る足取りについて、グーグル・ジャパンのプロダクトマーケティング、マネジャーである長谷川泰は振り返る。

 

   震災から1週間が経過して、パーソナルファインディングと同じコンセプトの取り組みを動画でできないか、と思い立って、「消息情報チャンネル」を始めた。テレビ朝日とTBS系列の地方局が避難所で撮影した動画を掲載していった。名前や避難所によって検索できるようにした。

   その次に、復興支援をユーチューブで行いたいと考え、社内で議論を重ねた。実際にグーグルの社員が被災地を訪問し、復興や経済支援といった観点から、何が必要とされているかを取材した。

  この結果が「支援チャンネル」である。ユーチューブは動画の投稿サイトであり、取材はできない。グーグルが眼をつけたのは、地元の企業や経済に詳しい地元紙だった。被災地の企業などを取材したのは、記者がした場合もあり、営業担当者がした場合もあった。

 グーグルはこのサービスについて、テレビCMを使って広く宣伝した。その結果、登場した被災地の企業に関西から注文が入ったケースもあった。 「支援チャンネル」で視聴可能な動画本数は、8月15日までに415本に達した。

  プロジェクトのパートナーである地方紙について、長谷川は次のように評価する。

    頭ではわかっていたことだが、実際に一緒に活動させていただく中で、肌で感じる新聞社のみなさんの取材力の高さには、心から驚いた。地元の企業についての情報量や、関連するニーズの把握も的確で、幅広く企画のないようにマッチした取材対象を選んでいただけた。インターネットに対応できるインフラもきちんと整っていおり、お寄せいただいた各社の動画から、媒体が紙から動画に変わっても取材対象の魅力を引き出しているのを見て、新聞の良さをアピールできるのではないか、とも感じた。

  長谷川の指摘は、こらからメディアが目指すべき方向も示唆している。地方紙の側からみると、紙ばかりではなく、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャル・ネットワーク・サービスに加えて、自らが動画の配信もできることを確認したといえる。

(第2部 完)

 ――

参考文献

 

新聞研究 2011年9月号

<インタビュー>新聞社の高い取材力を実感――グーグルと被災地の地元紙との連携

グーグル プロダクトマーケティングマネジャー 長谷川 泰

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

グーグルは得意技で 上

 グーグル・ジャパンは震災当日の3月11日、「パーソナルファインディング」のサービスを開始した。このサービスは、2005年に米国南部を襲った、ハリケーン・カトリーナの災害に対応して生まれたものだ。多くのウェブサイトが安否確認のサービスを開始したが、それぞれが別個にやっていたので、利用者が統合したサービスを求めたことから出発している。安否確認の巨大なサイト―それがパーソナルファインディングである。

 このサービスに登録された情報元は、被災地の宮城、岩手、福島の3県、警察庁、携帯電話各社の災害掲示などのほか、NHKや朝日新聞、毎日新聞といったメディアの安否情報である。

 日本語以外にも、英語、韓国語、中国語、ポルトガル語、スペイン語の情報も共有された。

 6月時点のデータ数は、約67万件だった。この数字は、2010年のハイチ地震の約5万5000件、チリ地震の約7万7100件を大きく上回っている。

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

原発報道にツイッター 下

 NHK科学・文化部長の木俣晃は、ツイッターを活用したことについて、プラス面を次のように評価している。

 ツイートは当初、一方的な呼びかけや情報提供で始まったが、フォロワーが増え、質問が増えるにつれて、質問への回答も多くなっていった。さらに、放射線量への関心が高まってからは、ツイッターでブログへいざない、詳しい情報はブログで伝えるという手法も増えていった。結果的には、ツイッターの「速報性・簡便性」とブログの「記録性・無限性」を組み合わせて使うことで、テレビ・ラジオの放送を補う一定の効果があったのではないかと思う。

 ツイッターやブログに多くの意見が寄せられたため、人々の関心事や思いを感じながら仕事をすることができ、テレビの解説などにフィードバックすることもできた。さらに、ツイッターでは、1人の質問に答えることが同時に多くの人に伝えることになるため、結果として、新しい形の視聴者対応の役割を担うことになったと言える。

 その一方で、「ツイッターを使うことには覚悟がいる」と、木俣は率直に述べている。

 そもそもツイッターは簡単に情報を発信できる一方、一歩間違えると混乱を生む要因にもなり、相応の怖さを抱えている。安易に手を出すと大やけどをする代物である。

(科学・文化部ではツイッターに先立って)まずブログを運営することにし、利用を申請した。(NHKの)ツイッターについては業務利用ガイドラインに「厳選された者に限り例外的に利用を認める」と記され、厳しく審査される。ポイントは幾つかある。▽NHKの情報として世界中に公開されることの意味と危険性をよく理解していること、▽一定レベル以上のネットリテラシーとある種の覚悟があること、▽継続的に行える態勢があること――などだ。

 担当者は、まさに昼も夜もなく、ツイートを続けることになった。また、フォロワーとの関係があるため「親しみ」を込めて、日常会話的な表現をした方が自然なことも多い。さりとてくだけすぎても良くない。なかなか難しいものだと思う。ツイートについては、踏み込みの度合いや表現ぶりを含め、まさに模索しながら進んできたが、あらゆる意味において「視聴者のために」という意識があって初めて成り立っている取り組みであることは、肝に命じておきたいと思う。

――

参考文献

新聞研究 2011年9月号
原発災害報道にツイッターを活用――テレビ・ラジオを補う効果
日本放送協会 科学・文化部長 木俣晃

このエントリーをはてなブックマークに追加