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「大杉事件」封殺されたスクープ 下

 関東大震災の直後の流言が飛び交う騒然としたなかで、社会主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝、その甥で6歳だった橘宗一を、陸軍憲兵大尉の甘粕正彦とその部下が虐殺した事件が起きた。「大杉事件」である。事件が起きたのは、9月16日だった。大杉を監視していた警視庁は、憲兵隊が連行した後、消息を絶ったことに不信感を抱いて、陸軍省に問い合わせたが、軍は事実を隠蔽しようとしていた。

  大震災の混乱のなかでも懸命に取材にあたっていた新聞社のなかで、時事新報社と読売新聞の記者は、事件を突き止めた。両紙は、9月20日付の夕刊で報道することを決めた。しかしながら、警視庁がこの号外を差し押さえた。封殺されたスクープとなったのである。

      警視庁から報告を受けた陸軍省は、報道機関に察知されたことに狼狽し、これ以上事実を隠すことは不可能と判断した。そしてまず9月20日に関東戒厳令司令官福田雅太郎大将を更迭して山梨半造大将を着任させ、憲兵司令官小泉六一少将、東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐を停職処分として甘粕憲兵大尉とその部下を軍法会議に付すことに決定した。

   と同時に、一般民衆の反応を恐れて新聞報道を厳しく抑圧する必要を感じ、内務省警保局に依頼して、

   「憲兵司令官及び憲兵隊長の停職並びに甘粕大尉の軍法会議に付せられたる事件の記事差止め

    社会主義者の行衛不明其の他之に類する一切の記事掲載差止め」

   という通牒を発令させた。

 

 「大杉事件」のスクープが封印される、その前提は政府によって整えられていたのであった。内務省は、9月16日に新聞、雑誌の記事を漏れなく検閲する命令を出した。この命令の背景として、朝鮮人の暴動の流言を新聞が伝え、自警団の団員らが殺傷を繰り返したことがあった、と吉村は指摘している。「報道の自由を失った」と吉村は冷徹に分析している。

 

   大地震発生後新聞報道は、たしかに重大な過失をおかした。その朝鮮人襲来に関する記事は、庶民を恐怖におとしいれ、多くの虐殺事件の発生もうながした。その結果、記事原稿の検閲も受けなければならなくなったのだ。

   しかし、それは同時に新聞の最大の存在意義である報道の自由を失うことにもつながった。記事原稿は、治安維持を乱す恐れのあるものを発表禁止にするという条項によって、内務省の手で徹底的な発禁と削除を受けた。

   政府機関は、一つの有力な武器をにぎったも同然であった。政府の好ましくないと思われる事実を、記事検閲によって隠蔽することも可能になったのだ。

 ――

 

参考文献

 

朝日新聞社史 大正・昭和戦前編

朝日新聞社

1991年10月

 

別冊新聞研究 No.5

石井光次郎

1977年10月

 

吉村昭

関東大震災  文春文庫 2004年8月

 

 

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「大杉事件」封殺されたスクープ 上

 新聞社の情報収集の手段である通信網は、大震災によって、壊滅的な打撃を受けた。

 『関東大震災』のなかで、吉村昭は、流言が飛び交った大きな背景として、通信崩壊のさまを描いている。

   電話も東京市内の電話局20局のうち焼失14、大破2で4局のみが残されていたが、これらも機械、電池等が破損して使用不能におちいっていた。それに、電話の地下線路も徹底的に寸断され、電柱の焼失、転倒等約6万本にも及んで、その機能は完全に失われた。

   横浜市でも交換局は全滅し、加入者の電話機の90パーセントが焼失し、その復旧は絶望的であった。

   通信機関の杜絶は、すべての連絡を不可能にした。警察、官庁も情報の入手方法を断たれて、指令を受けることも報告することも出来ず右往左往するばかりであった。そして、庶民は、人の動きにつれて路上を彷徨するのみであった。かれらは、何も知ることは出来なかった。かれらが知っているのは、大地震の起こったこととそれにつづく大火災によって眼にふれる範囲内の地域が死の世界と化し、しかも自分の生命も保持できる保証がないということだけであった。

   通信は断絶し、直後から流言が飛び交った。皇居前広場に避難した、東京朝日の経理部長の石井光次郎の証言を続ける。警視庁の元同僚であった正力松太郎のところに部下を派遣し、食糧の調達を指示すると同時に、石井は震災に関する情報を聞いてこい、と命じたのであった。

    (部下は)朝鮮人騒ぎが起こった話を聞いて来た。「どうも怪しいから用心してくれ。何かあったら知らせてくれ」と正力君がいったという。あそこが(朝鮮人に関する流言の)火元です。そのとき「そんなことはあり得ない」とそこにおった下村(海南専務)さんが一言のもとに言った。「これは何か計画したものならばあり得ることだが、こんな震災なんか何月何日におこるとだれも予期したものはないのだからその時に暴動おこすなんでだれも計画するわけがない」。と言ってね。そこで「朝日」では、「それはウソです。(取材の)タネをとりに回る時、一緒に「朝鮮人騒ぎはウソです。騒いではいけません」といって回った。これは下村さんの判断です。

  『朝日新聞社史』は、そのときの事情を振り返る。

    震災の状況、朝鮮人暴動のデマ、山本権兵衛新内閣成立など、報道すべきことは山ほどあった。しかし通信と交通機関が途絶した。社員たちは、自分の家や家族の罹災をかえりみるいとまもなく、社屋の防火につとめる一方、新聞発送用のトラックの車体に紙をはり、これにニュースを大書きし、同乗した記者たちがメガホンを使って速報にあたった。

  『関東大震災』は、新聞社が報道に困難になった状況のなかで、震災地の住民がどのような不安定な状態に陥ったかついて、述べている。

    かれらが自分をとり巻く状況を知る唯一の手段は、新聞報道のみであった。かれらは、毎日配達される新聞の活字によって、欧米各国の動きを知り、国内の政治、経済、社会の動向も察知していた。かれらは、新聞の知識から知識を吸収すると同時に、知るということによって精神的な安定も得ていた。

   大地震と大火にさらされた庶民は、自分たちがおかれている立場がどのようなものであるか知りたがった。かれらの中には、被害が自分の身を置く地域のみではなく日本全体に及んでいるのではないかと疑う者もいたし、中には地球全体の震害ではないかと考える者さえいた。

   そのような疑惑に答える有力な手段は、新聞報道であったが、新聞社にはそれに応ずる力は皆無だった。

  ――

参考文献

 

朝日新聞社史 大正・昭和戦前編

朝日新聞社

1991年10月

 

別冊新聞研究 No.5

石井光次郎

1977年10月

 

吉村昭

関東大震災  文春文庫 2004年8月

 

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電通は動いた 下

 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、大震災は、電通の社屋も大きく揺さぶった。地震によって社屋は破壊されず、屋内の器物もほとんど倒れなかった、と『電通社史』(1938年刊)は記す。しかしながら、大火にまかれてついに午後5時ごろ焼け落ちてしまう。                                                                                 

   二階の通信部も、一階の営業部も別に震動のために、破損を受けたり、取り乱されたりはしなかったが、それでも掛け時計は全部横にひん曲がってしまって、運動を停止していた。余震がひっきりなしに来る。それに電話線が全部切断されて、外部との通話が一切出来ない、余震が来るたびに通信部の社員は全部浮き腰になる落ち着いて仕事ができぬ、外へ出ようと言って、電通の社屋の前の篠宮と言う俥宿のひさしの下に、卓をすえて、そこで原稿をとりまとめることにした。

   社屋が焼け落ちるのは間違いないとみて、光永社長が社員を連れて、まず新橋駅に、そして帝国ホテルの一室を借り、さらに9月13日には丸の内の10号館を駆り営業所をして借りて移転した。この仮本社から、銀座に本社を新築するまで12年間を要している。この新本社は現在の電通銀座ビルである。このビルが面している道を「電通道路」と俗称されているのは、これによる。

 電通の社員が避難する直前、宮内省の記者クラブと本社をつなぐ専用電話がなった。電話が不通になったなかで、これだけが通じたのである。宮内省担当の記者からもたらされたのは、昭和天皇となる摂政が無事であるとの一報であった。しかしながら、この記事を送る手段は絶えていた。

  電通は、謄写版による印刷によってニュースを伝えようと考える。『電通社史』は、「お手のものの謄写版号外」の見出しを立てる。「通信社のことととて、(謄写版の)印刷機は数十台あり、(謄写版印刷にかける蝋引きの紙に原稿を刻む)鉄筆係も十何名という多数、しかも本職の熟練社員のこととて、瞬く間に数千枚を刷り上げて」とある。

 先の波多の証言と合わせないと理解が難しい。通信社の電通は、原稿を新聞社に配る際に謄写版印刷をひごろから利用していたのである。

   震災のためどの新聞社も活字ケースはひっくり返されて、どうすることもできず、ことに電線の切断による動力の停止は印刷機械の回転を不能ならしめ、号外を出そうにとするにも出きないことになってしまった。

  我が社にとって、謄写版はお手のものであり、手際よく短時間に数千部を刷って、これをばら撒いたわけで、おそらく各社に先立って数時間早くこの号外を発行し得たことであろう。この号外には、摂政殿下の御無事であらせらるることを拝記して、まず国民に安心を与うるとともに、折りしも内務省にいっている係の記者から受電した、中央気象台発表「余震はあるが、これ以上のものは決してこないから安心せよ」のニュースを大書きして掲載したものであった。なおこの謄写版号外は翌日帝国ホテルに移転後も、時々これを出して、行人に手渡しいまだニュースに恵まれない市民たちに、干天の慈雨のごとく悦ばれたものであった。

 ――

参考文献

 

新聞研究 別冊No.14

波多尚

1982年9月

 

新聞研究 別冊No.22

石橋恒喜

1987年10月

 

電通社史

日本電報通信社発行

1938年10月

 

 

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電通は動いた 上

  日本最大の広告代理店である電通が、大震災のそのとき、どのように動いたかを論じるためには、電通の略史を紐解いて補助線としたい。電通の前身である日本電報通信社は、通信社と広告会社の業態が一体化していたのである。創業者である光永星郎は、日清戦争の従軍記者とされ、戦地の通信事情が悪く記事を十分に送ることができなかったことから、通信社を創業しようと思い立ったという。通信社の経営を強固なものとするためにまず、新聞社に広告と配信することから始めたのであった。

 光永は1901(明治34)年、日本広告株式会社を設立、その4カ月後に通信社機能を持つ電報通信社を併設したのだった。その後、1906(明治39)年、電報通信社を改組する形で、電通の前身である株式会社日本電報通信社とした。

 この通信部門は、新聞社と競うと同時に、同業の新聞聨合社と激しい特ダネ競争を繰り広げた。

 1931(昭和6)年、満州事変が起きると、政府は国内の通信機能の統一を企て、日本電報通信社の通信部門と、新聞聨合社の合併を促した。光永はこれに反対したが、抗し切れず、通信部門を切り離して広告専業となった。「電聨合併」と称される。この結果誕生したのが、同盟通信である。

日本電報通信社は当時から、略称として電通といわれていた。正式に社名として、株式会社電通となるのは、戦後の1955年(昭和30)年のことである。 しかしながら、戦前の1938年発刊の社史も『電通社史』と題して、電通の名称を誇っていることもあり、これからの記述も電通とする。

  電通の通信社としての機能は、大震災の前後でどのようなものであったろうか。通信部門を通信部といった。その部門に大学卒業生としては第1期生にあたらる波多尚は、次のように証言している。波多は、「電聨合併」後、同盟通信で働き、戦後は新しい新聞の創業にかかわった。

 大震災の前年の1922(大正11)年9月に東京市内15社の新聞社と同時送稿用の専用線「同報電話」が開設された。

   「号外物、号外物」と言ってガラガラとやってました。満州事変のころは、この回線でしきりに号外ものを送ってました。

  ガラガラ、とは通話するまえに、専用電話にとりつかれた相手方にベルを鳴らす小さなとってのようものを操作する音である。専用線のことを「ガラガラ」と通称した理由でもある。原稿は「電話で吹き込む」という。つまり、電話で読み上げる原稿を相手先の新聞社は書き取ったのである。

  この同報電話がなかった時代はどうしていたのか。波多によれば、自転車で原稿を新聞社に運んでいたという。

  東京と大阪間など幹線に専用電話網が引かれるのは、大震災の翌年1924(大正13)年7月1日のことである。それ以外の都市にはどのように原稿を送っていたのか。

    予約電話です。大阪から支線で北へ回すとか、北陸や東北は東京から予約電話で回すとか。朝刊時間、夕刊時間、締め切りをにらみ合わせてみなでるようになっている。

  「予約電話」も解説が必要である。回線が少ない通信事情のなかで、あらかじめ通話することを予約しておいて、回線を予約しておくのである。新聞社の支局や通信局・通信部から戦後しばらく、締め切りをにらんで、その日の記事の出稿を連絡する「定時連絡」もまた、通信のインフラの整備がなされていなかった時代のなごりである。

  さらに、そのときの電通について振り返る前に、その後の昭和史のなかで、通信社として最後の光りをみせたエピソードについて証言を通じて綴りたい。大震災の際の電通の通信社としての矜持を持った活動を知るうえで、電通の記者たちが特ダネをとった瞬間を見ることは意味がある。広告代理店としての電通の現在のイメージをいった払拭したうえで、大震災に戻りたいからである。

 東京日日の社会部記者として長く陸軍を担当した石橋恒喜は、電通が放った満州事変勃発のスクープについて語っている。石橋は戦後、日本新聞協会に入って、業界を支える功労者となった。

    満州事変勃発のニュースは、朝刊1面トップはみんな奉天発「電通」です。というのは、攻城砲でドカーンとやっているので、当時の特派員の連中は知らんはずはありません。ところが関東軍で電報を抑えちゃって、「打ってはいかん」ということになり、電報はすべて握り潰されたんです。

   そこで、「電通」の奉天の支局長が、頭を働かして、京城と連絡をとったらどうかということを考えたらしいんです。それで京城の支局を呼び出してみたら、真夜中のことですから、すぐに出たわけです。で、実は「奉天で日支両軍が衝突せり」という電報を京城経由で打ったんです。だからほかの社は、電報が着いているものと思っているのに、実は全部握り潰されていた。

   当時、私は、夜中に社から呼び出されて、駆けつけて来た時に、「おい、ゲラを持っていけ」と言われてゲラを見たら、「奉天発、日支両軍交戦中」という記事が「電通発」で、載っているのです。「電通」の大特ダネですよ。

 

――

参考文献

 

新聞研究 別冊No.14

波多尚

1982年9月

 

新聞研究 別冊No.22

石橋恒喜

1987年10月

 

電通社史

日本電報通信社発行

1938年10月

 

 

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野間の決意 下

 上智大学名誉教授の渡部昇一は、『野間清治に学ぶ運命好転の法則』のなかで、大震災の記録集について、それまでにない宣伝方法を評価する。いまでは一般的に行われている手法であるが、当時としては卓抜であった。

 

      ポスターを使うという方法だった。ポスターをいたるところに掲げたのである。それから、ダイレクトメールを出した。少年に金を持たせて各地の郵便局に使いに出し、まずハガキを60万枚集めた。いまのようにパソコンがあるわけではないから、宛名書きはすべて手作業である。それだけの数のハガキを出すのも大変だった。市内では受け付けてくれないところもあったから、少年たちを四方に飛ばして、浦和や熊谷まで行って投函させたものもあった。

 

 野間のそばにあった笛木は、野間と社員の奮戦ぶりを次のように活写する。

   ポスターなども印刷が間に合わないために、肉筆でどんどん書いて、それを書店に送るのだ。社長も陣頭に立って、立て看板などを書いた。本邸のひろいお勝手元の板の間に紙を広げて皆がポスター書きをやっていると、社長が奥から出てきて、「私がひとつ手本を示してやろう」などと言いながら筆を執って墨痕淋漓『大正大震災大火災』と書いた。それは実に見事がものであった。

   この記録集はどのぐらい売れたのか。完売であったのは間違いなさそうである

  渡部は諸説ある、としたうえで「部数は50万部と野間は書いているが、実際は50万部も刷れず、35万部だったという説もある」としている。いずれにしても、当時はもとより、今日でも大ベストセラーである。

 笛木は「売れ行き予想投票」という見出しを著作のなかで掲げて、野間の50万部説をとっている。野間の面目躍如のシーンである。

    ある晩、少年10人ばかりが社長の室に呼ばれ、

   「『大正大震災大火災』は、非常な売れ行きで喜んでいる。最初20万部造ったがとても足りない。此の上あとどの位売れると思うか、それぞれ自分の考えを書いて出してもらいたい」

    とそんな話があったので、皆自分のかんがえるところを紙に書いて提出した。開かれた結果は、5万から10万までが殆どであった。私だけが飛び抜けた30万であった。社長は「予想はなかなか難しいが、多分笛木の考えが一番近い結果となるであろう。私も大体そのように考えている」と言われた。社長の予想は的中し、講談社の盤石の基礎を堅める結果となったのであった。

 ――

参考文献

 

「仕事の達人」の哲学

野間清治に学ぶ運命好転の法則

渡部昇一

致知出版

2003年12月

 

私の見た野間清治

講談社創始者・その人と語録

笛木悌治

1979年10月

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