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被災地に住む

 TBSテレビ報道局の森岡こずえは、3月11日、たまたま岩手県沿岸部に入った。「海鮮丼」の取材中に森岡は、被災した。TBSをキーステーションとするJNNは、宮城県気仙沼市に南三陸臨時支局を開設することになる。森岡は、6月11日、臨時支局に赴任するため、気仙沼駅に降り立った。

 

 入社して7年、番組制作しかしたことがない。バラエティ局から報道局に異動してからこの1年半も、夕方の報道番組内の特集枠を制作している。つまり、私は報道局員の名刺を持ちながらも突発的な事件や事故の取材をしたことがなかった。「海鮮丼」の取材をするために岩手県沿岸部に入ったのが、たまたま3月11日だった。

 午後2時46分、釜石沖での取材を終え、宮古市へと北上する国道45号線の上で、私を含む4人態勢のクルーはあの地震に遭遇した。カーナビは山田町、船越湾を指している。土地勘がないため、海を見つめる住民に安全な場所を尋ねようと車を降りたそのとき、初めて海の異常さに気がついた。

 津波が襲い、さっきまで穏やかだった海が、町を丸ごと飲み込んでいく。私たちがいる場所は、たまたま海抜50mの場所だった。しんじがたいその惨状を伝えるために、慣れないリポートを、必死で繰り返す。夕方までに系列局のある盛岡にテープを運搬し、放送に貢献しよう。

 私たちは、避難所となっている船越公民館で一晩お世話になりながら主愛を続けた。取材することでしか自分自身の置かれている状況を把握できなかったし、取材でもしていないと、この夢のような現実に自分が身を置いていることへの不安で押しつぶされそうだった。

 臨時に作られた道路を通り盛岡の放送局まで戻ってこられたのは翌日の昼前だ。山田の状況をいち早く伝えたい。すぐさま編集にとりかかった。あの避難所で「生きている」を伝えたかった。

 しかし、その日テレビでは、津波が町を襲うシーンばかりが繰り返し流された。もどかしさを抱えながら、私は放送局の会議室で横になった。

 ラジオから「山田町の△△さんの安否をご存知の方はお知らせください」というアナウンスが聞こえてきたのは、うとうととし始めた頃だった。私はローカル局のデスクに懇願しにいった。山田町の避難所の映像を持っている。その映像は安否を知りたい人が映っているかもしれない。それをテレビで流してほしい。懇願しながら、怒っていた。怒りながら、号泣していた。

 今振り返れば、非常に冷静さを欠いた、ひとりよがりの訴えだったと思う。未曾有の大震災に直面したローカル局を前にして、あまりに視野の狭い訴えだったと思う。

 帰郷後も、私は山田町のその後が気になってしょうがない。「被災地」に女性記者を送り込むことに後ろ向きな会社の網の目をくぐって、どうにかして山田に行く手段はないかと、私は探していた。チャンスは2週間後に来た。山田町にいる親戚に会いに行くという親子を見つけ、単身ハンディカムでの密着取材をすることになったのだ。あの町はどうなっているのか。

 後になって思うと、このときの訪問が、その後の私の震災取材の姿勢を形成したと思う。震災発生からの数日間持っていた「私が発信しなきゃ」という必死感は、この訪問を境に、良くも悪くもほとんどなくなっていった。あの晩を過ごした人たちと再会を喜び、嬉しい報告や悲しい報告を聞いた。初めて出会った人とも、すぐに打ち解けた。

 しばらくしても、別の被災地で取材をしながら、時間を作っては山田町を訪ねた。まるで私の兄や、親戚の叔母のようにふるまってくれるその人たちに、ただ、会いたくて、ただ話を聞きたかった。プライベートで会いにいくこともあったし、電話をかけてきて愚痴をこぼしてくれるときには「本音」に近づけたようで嬉しくもあった。

 そんな経験をしてきた上で、6月11日、私はJNN三陸臨時支局のある気仙沼駅に降り立った。志願したわけでもなかったし、一日でも早く帰りたかったというのが本音。支局仲間の中には、もっとずっと滞在したいと言う人や、楽しいと言う人もいたので人それぞれだろう。

 今、三陸支局で自分が何を感じながら記者をしていたかを思い返してみる。すると「頑張って」と言わないようにしよう、という赴任前に思っていた意識がなくなっていることに気づく。なぜだろう。誤解を恐れずに言うと、もしかしたら私は、避難所や仮設住宅、知人の家で暮らす被災地の方と自分を重ね合わせていたのかもしれない。これは山田町でも経験していないことだった。

 本来の居場所でないところで1カ月暮らしてみると、私が気仙沼で出会った人々は、自分と違うサイド、つまり、特別な“被災地”に住んでいる“被災者”ではなく、すぐ隣にいる気仙沼で暮らしている人になったのかもしれない。だから、「“頑張って”と言わないようにしよう」という意識が必要なくなっていたのだろう。頑張ってほしい人には「頑張って」と言えばいいし、いや、むしろ「頑張って」と声をかけられることの方が多く、この言葉を意識しなくなることは私のなかの“被災”に対する特別感が薄まったことの表れのおうに感じる。仮設住宅の一部屋でお茶をご馳走になったり、道に迷って通りすがりの車に支局まで送ってもらったり、取材を抜きにした付き合いの方が記憶に残っているのも、その影響かもしれない。

 

――

参考文献

新聞研究(日本新聞協会刊)2011年6月
膨大な被災者の今を伝え続ける  河北新報社・編集局長 太田巌
地方の視点で震災と原発に向き合う  福島民報社・編集局次長 安田信二
求められる情報、総力で迫る  朝日新聞東京本社・社会グループ 石田博士 | 朝日新聞名古屋本社・報道センター次長 日浦統
最初の6時間 テレビは何を伝えたか  日本放送協会「ニュース7」編集責任者・等々木健

新聞研究2011年7月号
危機に問われる新聞力  岩手日報社・常務取締役編集局長 東根千万億
未曾有の災害連鎖を伝える報道  福島民友新聞社・編集局長 加藤卓哉
総合力で新聞の力を示すために  読売新聞東京本社・編集局総務 松田陽三
特別紙面「希望新聞」の取り組み  毎日新聞東京本社・生活報道部長 尾崎敦
現場取材で感じる人々の思い  茨城新聞社・日立支社 川崎勉
被災者基点と共助を座標軸に  河北新報社・論説委員長 鈴木素雄

新聞研究2011年8月号
激動の原発事故報道  朝日新聞東京本社・前科学医療エディター 大牟田透 | 朝日新聞東京本社・政治グループ 林尚行
率直な疑問をぶつけていく  東京新聞・科学部 永井理
地元の安全対策論議に応える  静岡新聞社・社会部長 植松恒裕
食の安全・安心と報道の役割  日本農業新聞・農政経済部長 吉田聡
市民による震災報道プロジェクト  OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代

新聞研究9月号
地域社会との新たな関係づくり  河北新報社・メディア局長 佐藤和文
原発災害報道にツイッターを利用  日本放送協会 科学・文化部長 木俣晃
新聞社の高い取材力を実感  グーグル・プロダクトマーケティングマネージャー 長谷川泰
長野県栄の震災をどう報じたか  信濃毎日新聞社・飯山支局長 東圭吾
感情を抑えて、被災地に寄り添う  河北新報社・写真部 佐々木 浩明

新聞研究2011年10月号
取材で感じた報道写真の役割  毎日新聞東京本社 編集編成写真部 手塚耕一郎
後世に「教訓」を伝える  岩手日報社・編集局報道部次長 熊谷真也
全社的訓練とノウハウが結実  日本放送協会・福島放送局放送部 鉾井喬
頼られる存在であり続けるために  岩手日報社・編集局報道部長 川村公司
震災のさなかのある地から  河北新報社・編集局長 太田巌

調査情報(TBS刊)2011年7-8月号
未だ蘇る声  東北放送・報道部 武田弘克
震災特番 Web配信  TBSテレビ 報道局デジタル編集部担当部長 鈴木宏友

調査情報2011年9-10月号
テレビ報道が信頼を回復するために  映画作家 想田和弘
震災の前と後で日本の政治は変わっていないし、私も変わらない  文芸評論家・文化史研究家 坪内祐三
「災後」社会を「つなぐ」  政治学者 御厨貴
「焼け太り」のひとつだに無きぞ悲しき  フリープロデューサー 藤岡和賀夫
気仙沼で生まれた自分しか話せないことがあると思うから  スポーツジャーナリスト 生島淳
三陸彷徨 魂と出会う地で  JNN三陸臨時支局長 龍崎孝
結局私は、記者ではなかった  TBSテレビ・報道ニュース部「Nスタ」 森岡梢

放送研究と調査(NHK放送文化研究所刊)2011年6月号
東日本大震災発生時 テレビは何を伝えたか(2)  メディア研究部 番組研究グループ
東日本大震災・放送事業者はインターネットをどう活用したか  メディア研究部 村上聖一

放送研究と調査2011年7月号
3月11日、東日本大震災の緊急報道はどのように見られたのか  メディア研究部 瓜知生
東日本大震災に見る大震災時のソーシャルメディアの役割  メディア研究部 吉次由美

放送研究と調査2011年8月号
東日本大震災・ネットユーザーはソーシャルメディアをどのように利用したか  メディア研究部 執行文子

放送研究と調査2011年9月号
原子力災害と避難情報・メディア  メディア研究部 福長秀彦
東日本大震災・被災者はメディアをどのように利用したか  世論調査部 執行文子
大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか  メディア研究部 井上裕之

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火の海のなかで

 読売新聞東京本社。編集局のナンバー2である総務の松田陽三は、編集局にいた。

 永遠に続くかと思われた揺れの中、伝川幹・編集局長(当時)が席からすくっと立ち上がった。両手を大きく広げ、仁王立ちになって叫んだ。「みんな落ち着け、まず身の安全を図れ。次に号外の準備だ」

 読売新聞の取材拠点も津波で大きな被害を受けた。宮城県・石巻支局や岩手県・大船渡通信部の建物が水没した。幸いなことに現地の支局、通信部の記者は全員無事だった。

 九死に一生を得た記者もいる。気仙沼通信部の中根圭一記者は、公民館に避難した住民を取材中に津波に遭遇した。市街地に流れ込んできた津波は見る見る間に水位を上げ、公民館2階の天井に迫った。3階屋上に逃げた中根記者は「あと数メートル水位が上がっていたら、命がなかった」と振り返る。

 さらに、気仙沼港の石油タンクが津波に流され、漏れた重油に火がつき、公民館の周囲は文字通り「火の海」となった。中根記者は450人の住民とともに公民館に残され、ほとんど飲まず食わずで、二晩を過ごした。底冷えのする床の上の冷たさに、被災者はぐっすりと眠ることもままならず、立って寝るひともいたという。

 孤立した中根記者がようやくヘリで救出されたのは43時間後。こうした状況を取材カメラで撮影した動画は、ユーチューブにもアップされ、閲覧回数は6月上旬現在で630万回を超えた。

 

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参考文献

新聞研究(日本新聞協会刊)2011年6月
膨大な被災者の今を伝え続ける  河北新報社・編集局長 太田巌
地方の視点で震災と原発に向き合う  福島民報社・編集局次長 安田信二
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新聞研究9月号
地域社会との新たな関係づくり  河北新報社・メディア局長 佐藤和文
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未だ蘇る声  東北放送・報道部 武田弘克
震災特番 Web配信  TBSテレビ 報道局デジタル編集部担当部長 鈴木宏友

調査情報2011年9-10月号
テレビ報道が信頼を回復するために  映画作家 想田和弘
震災の前と後で日本の政治は変わっていないし、私も変わらない  文芸評論家・文化史研究家 坪内祐三
「災後」社会を「つなぐ」  政治学者 御厨貴
「焼け太り」のひとつだに無きぞ悲しき  フリープロデューサー 藤岡和賀夫
気仙沼で生まれた自分しか話せないことがあると思うから  スポーツジャーナリスト 生島淳
三陸彷徨 魂と出会う地で  JNN三陸臨時支局長 龍崎孝
結局私は、記者ではなかった  TBSテレビ・報道ニュース部「Nスタ」 森岡梢

放送研究と調査(NHK放送文化研究所刊)2011年6月号
東日本大震災発生時 テレビは何を伝えたか(2)  メディア研究部 番組研究グループ
東日本大震災・放送事業者はインターネットをどう活用したか  メディア研究部 村上聖一

放送研究と調査2011年7月号
3月11日、東日本大震災の緊急報道はどのように見られたのか  メディア研究部 瓜知生
東日本大震災に見る大震災時のソーシャルメディアの役割  メディア研究部 吉次由美

放送研究と調査2011年8月号
東日本大震災・ネットユーザーはソーシャルメディアをどのように利用したか  メディア研究部 執行文子

放送研究と調査2011年9月号
原子力災害と避難情報・メディア  メディア研究部 福長秀彦
東日本大震災・被災者はメディアをどのように利用したか  世論調査部 執行文子
大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか  メディア研究部 井上裕之

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痛恨の極み

 東日本大震災の報道活動のなかで、記者の犠牲者はひとりだった。福島民友新聞社の南相馬市にある相双支社の記者だった。編集局長の加藤拓哉は、「痛恨の極み」だと書き記す。

 3月11日午後2時46分。東日本大震災が発生したこと時から、すべてが始まった。

 ド、ド、ド、ド、ドという不気味な地鳴りが聞こえたかと思うと、縦へ横への大きな揺れが3分近くも続いた。

 11日は、地震直前まで晴れのおだやかな天候だった。しかし、地震発生と時を同じくするように黒い雲が立て込めて雨が降り出し、まもなく吹雪になった。地震発生とともに取材に飛び出した記者やカメラマンたちは、市内の至るところで車が使えず、徒歩や自転車での取材を余儀なくされば。社内の固定電話や携帯電話もほとんど使えなくなり、かろじて連絡が取れるのは携帯電話のメールぐらい。モバイルパソコンでもメールで連絡がついたが、バッテリーがなくなれば使えなくなった。

 福島民友新聞社は、福島市にある本社を含め県内外に28の取材拠点をもつ。今回の大震災と原発事故を受けて、福島第1原発の10キロ県内にある浪江、富岡両支局に出入りができなくなった。30キロ圏の南相馬市にある相双支社、いわき支社や相馬支局一時ライフラインのストップや、原発事故による危険を回避するために、記者を一時避難させ、本社や郡山市を拠点に取材活動を続けた。

 相双支社の記者一人を津波で失った。地震直後に支社長が電話で無事を確認したが、その後連絡が取れなくなった。生存を信じ、家族らとともに捜索を続けたが4月2日に遺体で発見された。前途ある若い記者を失った悲しみは筆舌に尽くしがたく痛恨の極みだ。

 

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参考文献

新聞研究(日本新聞協会刊)2011年6月
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あの声がまだ聞こえる

 仙台市に本社を置く東北放送の報道部記者の武田弘克は、そのとき、津波による大きな被害が出ることになる荒浜地区にいた。武田は津波にのまれた町の水没したビルに逃げ込んだ。

 

 あの日午後、私は仙台市若林区荒浜で産業廃棄物の取材をしていた。緊急地震速報を伝える携帯電話のアラームが鳴った。タクシーを横道に止めると、間もなく激しい揺れが始まり、デジタルカメラを手に外に飛び出した。経験したことのない激しい揺れは一旦おさまり、タクシーに戻るとラジオは大津波警報が出たことを伝えていた。

 避難誘導にあたっていた警官が避難を始めた。「津波が来ます。高台に避難してください」と言い残しパトカーで走り去った。それをきっかけに、渋滞の車列もパトカーを追うように、丁字路降参店でUターンしていった。津波は間もなくやってきた。

 私と運転手は、道の反対側にあった電機メーカーの事務所に避難することにした。走っている途中、側溝からは黒い下水が溢れ出し、道路を覆っていく。事務所の2階へ上がる階段に辿り着き後ろを振り返ると、私たちが車で走ってきた道路の向こう側、およそ50メートル先で白波が立つのが見えた。この間もカメラを回し続けた。逃げなければという焦りと、津波を撮らなければならないという思いが交錯していた。階段では高齢女性が腰が抜けた状態で一段一段登っている。女性の弟だという人にカメラを預け、女性が階段を登るのを手伝った。次の瞬間、背後から凄まじい轟音が響いてきた。振り返ると材木を巻き込んだ激流が流れ込んできた。白波が立つのを見てからわずか20秒から30秒だった。

 なんとか3階まで辿り着くと、私たちがさっきまでいた場所は、一面茶色い水に覆われ、ありとあらゆるものが押し流されていた。ヘッドライトがついたままの乗用車やトラックのほか、貨物用コンテナも次から次へと押し流され、私たちの居る事務所にぶつかってくる。その様子を撮影していると、電柱に引っかかった車の窓から身を乗り出し、子供2人を両脇に抱えている男性を見つけた。

 私たちが避難した事務所には、消防団の経験がある2人の男性がいて、彼らが中心となって、救助活動が始まった。一人また一人と取り残されていた人たちが、流れ着いた貨物コンテナを伝って救助されていく。私は彼らの横でカメラを回しつつ悩んでいた。このまま撮影を続けるべきか?撮影を止めて共に助けるべきか……。

 50メートルほど離れたコンビニエンスストアの屋根に子供1人を含む3人が取り残され、その裏側には車の屋根に取り残された女性が1人確認できた。

 夜になると星空が広がった。その光に温かみはなく、ただ大気を冷やしていくばかりに思えた。足元は寒さで凍りついている。空を飛びかうヘリコプターの音とサーチライトが恨めしかった。「大丈夫ですかー」。ほの暗い闇に向かって声をかけると「もう限界です」と女性の声が返ってきた。他にも至る所から男性や女性の叫びがこだまする。何を言っているのかも聞き取れない叫びがほとんどだ。ただ、必死で助けを求めていることだけは分かる。

 私は事務所の中で一夜を過ごした。しかし、夜が明けると、車の屋根に横たわっている女性が見えた。寒さで息絶えていたのだ。もっと、もっと声をかけ続けていればよかったと、私は未だに悔やんでいる。もしかしたら助けることができた命だったかもしれない。

 本社に辿り着いたのは、地震発生から27時間後の午後6時だった。

 あの日から3カ月、被災地の状況は日々変化している。しかし、津波から避難したあの夜、四方八方から響いていた助けを求める叫び声は未だに耳から離れない。

 

 記者たちはそのとき、死と隣り合った。現地からのルポルタージュは、緊迫した震災地と避難民の姿がはっきりとみえた。ただ、「客観報道」という名の呪縛から解き放たれ、自らの苦悩を語ることはなかったように思う。彼らの魂の叫びは、紙面や誌面、画面には現れなかったといえるだろう。そして、彼らは日本新聞協会の機関誌など、許される空間のなかで、思いを綴ったのであった。客観報道という仮想の現実を超えて、多くの人に肉声を届けることが、震災後の世界を築く大きな力になるのではないか、と筆者は考える。

 

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参考文献

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未だ蘇る声  東北放送・報道部 武田弘克
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東日本大震災・被災者はメディアをどのように利用したか  世論調査部 執行文子
大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか  メディア研究部 井上裕之

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4歳の詩人の肖像

 作家の曽野綾子が月刊誌に寄せた次のような文章は、読売新聞東京本社写真部の立石紀和の撮影した写真が   生んだものだ。曽野はいう。

 「3月31日付の読売新聞はこの災害の中でもっとも胸迫る詩を書いた4歳の詩人の作品を載せた」と。

 

  震災発生から1週間後、まだ報道すらされていない辺鄙な地域に焦点をあてたいと思った写真部の立石紀和記者は、岩手県のリアス式海岸に点在する漁村を歩いていた。

 宮古市の重茂半島・千鶏地区に入った時だった。漁港は跡形もなかった。集落の大部分が流され、残った家屋は十数軒しかない。高台にある家を訪ね、「こんにちは」と声をかけると、引き戸が開き、おばあちゃんが出てきた。背中の後ろから顔をのぞかせたのが4歳の女児、昆愛海ちゃんだった。漁師をしていた父親と母親、妹を津波に流され、愛海ちゃんだけが漁網に引っかかって奇跡的に助かったという。恐怖の体験をした女の子は心を閉ざし、笑顔はなかった。

 立石記者は、会った当日はカメラを向けなかった。その後、何度も愛海ちゃん宅に通い、トランプをしたて遊んだり、絵本を読み聞かせたりして、少しずつ距離を縮めていった。ある日、いつものようにババ抜きをしていると、愛海ちゃんが突然、「ママに手紙を書く」と言い出した。愛海ちゃんは、覚えたてのひらがなで、1文字ずつ、ゆっくりと思いをつづった。分からない文字は幼児学習雑誌『めばえ』を開いて確かめた。

 「ままへ。いきているといいね。おげんきですか」

 そこまで書き終えると、疲れたのか、すやすやと寝入ってしまった。立石記者はノートにつっぷして眠る姿をそっとカメラに収めた。

 震災から2カ月後の5月10日には、少しずつ笑顔を取り戻した愛海ちゃんを再び紙面に取り上げた。

 

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参考文献

 

新聞研究(日本新聞協会刊)2011年6月
膨大な被災者の今を伝え続ける  河北新報社・編集局長 太田巌
地方の視点で震災と原発に向き合う  福島民報社・編集局次長 安田信二
求められる情報、総力で迫る  朝日新聞東京本社・社会グループ 石田博士 | 朝日新聞名古屋本社・報道センター次長 日浦統
最初の6時間 テレビは何を伝えたか  日本放送協会「ニュース7」編集責任者・等々木健

新聞研究2011年7月号
危機に問われる新聞力  岩手日報社・常務取締役編集局長 東根千万億
未曾有の災害連鎖を伝える報道  福島民友新聞社・編集局長 加藤卓哉
総合力で新聞の力を示すために  読売新聞東京本社・編集局総務 松田陽三
特別紙面「希望新聞」の取り組み  毎日新聞東京本社・生活報道部長 尾崎敦
現場取材で感じる人々の思い  茨城新聞社・日立支社 川崎勉
被災者基点と共助を座標軸に  河北新報社・論説委員長 鈴木素雄

新聞研究2011年8月号
激動の原発事故報道  朝日新聞東京本社・前科学医療エディター 大牟田透 | 朝日新聞東京本社・政治グループ 林尚行
率直な疑問をぶつけていく  東京新聞・科学部 永井理
地元の安全対策論議に応える  静岡新聞社・社会部長 植松恒裕
食の安全・安心と報道の役割  日本農業新聞・農政経済部長 吉田聡
市民による震災報道プロジェクト  OurPlanet-TV・副代表理事 池田佳代

新聞研究9月号
地域社会との新たな関係づくり  河北新報社・メディア局長 佐藤和文
原発災害報道にツイッターを利用  日本放送協会 科学・文化部長 木俣晃
新聞社の高い取材力を実感  グーグル・プロダクトマーケティングマネージャー 長谷川泰
長野県栄の震災をどう報じたか  信濃毎日新聞社・飯山支局長 東圭吾
感情を抑えて、被災地に寄り添う  河北新報社・写真部 佐々木 浩明

新聞研究2011年10月号
取材で感じた報道写真の役割  毎日新聞東京本社 編集編成写真部 手塚耕一郎
後世に「教訓」を伝える  岩手日報社・編集局報道部次長 熊谷真也
全社的訓練とノウハウが結実  日本放送協会・福島放送局放送部 鉾井喬
頼られる存在であり続けるために  岩手日報社・編集局報道部長 川村公司
震災のさなかのある地から  河北新報社・編集局長 太田巌

調査情報(TBS刊)2011年7-8月号
未だ蘇る声  東北放送・報道部 武田弘克
震災特番 Web配信  TBSテレビ 報道局デジタル編集部担当部長 鈴木宏友

調査情報2011年9-10月号
テレビ報道が信頼を回復するために  映画作家 想田和弘
震災の前と後で日本の政治は変わっていないし、私も変わらない  文芸評論家・文化史研究家 坪内祐三
「災後」社会を「つなぐ」  政治学者 御厨貴
「焼け太り」のひとつだに無きぞ悲しき  フリープロデューサー 藤岡和賀夫
気仙沼で生まれた自分しか話せないことがあると思うから  スポーツジャーナリスト 生島淳
三陸彷徨 魂と出会う地で  JNN三陸臨時支局長 龍崎孝
結局私は、記者ではなかった  TBSテレビ・報道ニュース部「Nスタ」 森岡梢

放送研究と調査(NHK放送文化研究所刊)2011年6月号
東日本大震災発生時 テレビは何を伝えたか(2)  メディア研究部 番組研究グループ
東日本大震災・放送事業者はインターネットをどう活用したか  メディア研究部 村上聖一

放送研究と調査2011年7月号
3月11日、東日本大震災の緊急報道はどのように見られたのか  メディア研究部 瓜知生
東日本大震災に見る大震災時のソーシャルメディアの役割  メディア研究部 吉次由美

放送研究と調査2011年8月号
東日本大震災・ネットユーザーはソーシャルメディアをどのように利用したか  メディア研究部 執行文子

放送研究と調査2011年9月号
原子力災害と避難情報・メディア  メディア研究部 福長秀彦
東日本大震災・被災者はメディアをどのように利用したか  世論調査部 執行文子
大洗町はなぜ「避難せよ」と呼びかけたのか  メディア研究部 井上裕之

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