ブログ

ドキュメンタリー

このエントリーをはてなブックマークに追加

務台の述懐

 大震災後の東京の新聞界における販売合戦の渦中に、その後に読売入りして販売面で正力を助けるとともに、戦後の読売の大発展の戦略を描いた務台光雄がいたのである。早稲田大学専門部政治経済学科を卒業後、紡績会社の幹部を務めた務台が、報知新聞に入社したのは、震災直前の1922(大正12)年3月のことであった。発送部長兼販売部市内課長として、関西二大新聞の攻勢を東京の新聞の側から、見ることになった。

日本新聞協会が、1977(昭和52)年4月、5月に4回にわたった聞き取りのなかで、上記の販売合戦を振り返った務台は、この経験こそ、その後に朝日と毎日を闘う原点となったことを打ち明けている。

   大震災以後というのは、私に言わせれば強盗です。とにかくやるだけのことはやった。何でもやった。拡張紙(販促のために無料で配達する新聞)もやれば押し紙(販売店に販売部数よりもかなり多い部数を送る)もするし、値引きもやる。「朝日」と「毎日」(「東日」)があらゆることをやって東京の新聞をつぶそうとしたことははっきりしている。そこで2年間やるだけやって、このへんで各紙が音をあげるというところまでやって、それから後は算盤をとっていこうということでやったんです。

  東京の新聞は、戦国時代に朝・毎に半殺しにされたんですから、これは感情の問題ではない。「国民」にしたって「時事」にしたって「報知」だってそうです。その怨みというのは大変なものです。われわれも率直にいって「報知」をやめてからもどんなことがあっても、朝・毎と戦って何とかしなくていかんといいうのが、今日までの考えです。おそらく、東京の新聞人は皆、腹ではそう思っていたでしょう。だからそれは当然です。

「関東大震災編」 了

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

敗れ去りしものたち

大震災後、東京朝日と東京日日の販売攻勢は激しさを加えた。両紙がまずとった戦術は、値下げと付録、福引であった。東京の新聞は当時、朝刊8頁、夕刊4頁で月額定価1円だった。両紙は80銭に値下げし、これに名画の複製などを付けたのである。

 両紙の標的の第一は、震災の被害をまぬがれた報知であった。販売店網も整っており、部数も50万前後だった。

 1925(大正14)年秋、両紙は定価を1円に値上げしたうえ、各地の販売店の組織「新聞定価売即行会」をつくり、定価80銭だった報知に値上げを迫った。報知はこの要求をけった。これに対して、この即行会は報知の取り扱いを停止する通告を行った。報知は独自に販売店網を拡充することも検討したが、経費がかかることから断念し、90銭に値下げした。資本力にまさる関西二大紙が、付録や福引を絡めて攻勢をかけ、紙面の内容も充実して、報知の読者を奪っていった。

  次の標的は時事新報だった。福沢諭吉が創刊した名門紙である。先の販売店の組織である即行会は、時事が値引きの乱売が激しいと抗議、さらに千葉県内の販売店が定価を守っていないという理由をつけて、担当社員の更迭まで要求した。これに対して、時事新報は、各地に専売店を増やしとともに安売り合戦になだれ込んで対抗した。これが時事新報の経営の悪化をもたらし、ついに1936(昭和11)年、東京日日に吸収されてしまう。

 徳富蘇峰が創刊した国民新聞もまた、関西二大新聞の攻勢の前に経営が悪化し、雑誌社や経済界に資金の援助を仰いだが及ばず、蘇峰が1929(昭和4)年退社するに至った。

  

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

読売、追い込まれる

   関西での成功を土台とした資本力で、大震災後に東京を本格的に攻める東京朝日と東京日日は、在京の新聞に戦いを挑むことになる。

 新聞販売店は当時、東京市内は1紙だけを扱う専売店だったが、地方は複数の新聞を扱う「諸紙屋」と呼ばれた。東京の新聞社が大震災の影響で発行が困難になると、東京朝日と東京日日はこうした地方の販売店に対して攻勢をかけた。両紙は震災前22、3万部の発行部数だったのが、震災後2年目には60万から70万部に達する勢いとなった。

  『読売新聞百二十年史』は、両紙の販売戦略について俯瞰的な視点を保っている。大震災によって本社を失い、壊滅的な打撃を受けた読売は、こうした競争の埒外にあった。

    1923(大正12)年8月19日、本社は46年ぶりに銀座1丁目を離れて、京橋区西紺屋町(現在の中央区銀座3丁目、デパートの「銀座プランタン」が建っている)に、新社屋を移転した。

   (大震災によって)社屋そのものは倒壊しなかったので、社員は社屋に踏みとどまり、激しい余震の最中にガリ版すりの号外を数回にわたって発行、特報ビラを市内の主な場所に張り出すなど奮闘した。

  その夜、松山(忠二郎社長)が前途に望みを託して完成させた新社屋は、落成披露を目前に天井と外壁を残して、ついに見るも無残に焼け落ちてしまったのである。

   大震災による新聞界の被害は甚大だった。東京17紙のうち社屋焼失を免れたのは、東京日日、報知、都の3社だけで、これらは比較的早く平常通りの新聞発行をすることが出来た。東京朝日も被災したとはいえ、大阪朝日の応援でいち早く復旧に取りかかることが出来た。しかし本社をはじめ東京系新聞社の復興は大きく遅れ、経営は窮迫した。

   なかでも新社屋焼失という悲運に見舞われた本社の打撃は大きく、その後部数は半減して5万部台を低迷する。24年(大正13)年2月、松山はついに社長の地位を退くことを決意した。

   大震災後は、資本力のある朝日、毎日の関西系二大紙がめきめき勢力を伸ばして、寡占体制を築いて行った。

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

東朝の攻勢

  東京朝日が大火に見舞われた社屋を修復して、帝国ホテルの仮事務所を引き上げたのは、10月14日だった。そして、震災前の朝刊8頁、夕刊4頁の紙面に復帰したのは12月1日だった。

 東京朝日は、震災翌年1月15日、復興記念の福引をつけた部数の拡張の結果、純増が13万4130部と発表した。東京日日が震災の年の年末に同様の拡張方法によって、純増は8万4030部であった。東京朝日と東京日日が激しい販売合戦をしていたことがわかる。

 もとより、東京朝日は、大阪朝日の系列であり、東京日日と並んで「西風が東風を圧する」動きが急であった。東京朝日は、1924年(大正13)年4月に発行部数が41万212部となった。

 ただ、これでも、当時の東京を拠点する新聞の部数の順位は、報知、時事、国民、東京日日、東京朝日の順であった。

『朝日新聞社史』は、大震災と新聞の業界地図の変化について、展望してみせる。

  この大震災が大きな原因となって時事、やまと、国民、万朝報、中央など、伝統ある新聞がやがて消えていき、かわって、大毎、大朝につながる東日、東朝が延び、毎日、朝日両紙の全国制覇の途がひらかれていった。読売も松山社長が退き、「虎の門事件」(昭和天皇となる摂政が銃撃された事件)の責任を負って警視庁警務部長を辞していた正力松太郎と交代し、再建への第一歩を踏み出した。関東大震災は、新聞界に多大な影響を与えた、日本新聞史上の大事件でもあった。

 

 

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

 東日に「案内公告」殺到

東京の新聞が壊滅的な打撃を受けて、正常な発行ができないなかで、東京日日が休刊しなかったことによって、いわゆる「案内広告」の注文が殺到する事態となった。「尋ね人」や無事でいることを知らせる短行の広告である。

 広告関係では「尋ね人」「避難通知」などの案内原稿が、無休刊の東日に殺到、14、15、16の3日間は増ページしたくらいであった。その案内広告を読むために東日を求める読者さえできて、震災を契機として東日の発行部数のぶりは、吉武(鶴次郎)理事の言葉によれば「まるで落ちているものを拾って歩く」ようであった。

 東京日日の発行部数は、大震災の年が明けた1924(大正13)年元旦付が、70万9811部であった。前年は、37万3997部であったから、約90%増、倍増といってもよい急成長ぶりであった。

 

このエントリーをはてなブックマークに追加