世紀の恋の舞台となったテニス場を過ぎて、鳩山通りを下る。両側に広い別荘地が連なる、軽井沢の並木道は、「風立ちぬ」の作家堀辰雄が歩いたという。
「ご注意ください!ツキノワグマ情報 ハチの巣を食べた痕跡情報」。道路工事のたて看板のような掲示板に驚く。
地元のNPOの呼びかけである。保護したクマ22頭に発信機をつけて、24時間体制で監視。別荘地や住宅地に近づくと、駆けつけて山に戻す。
ニホンシカやサルの出没も増えている。軽井沢町のニホンシカの捕獲数は昨年128頭で、前年のほぼ2倍。生態学者の結論は出ていないが、ニホンシカの繁殖によって、ツキノワグマが追われるようにして、里へ下ってきている可能性もある。
旧中仙道の宿場町だった軽井沢は明治維新後、廃れた。避暑地として軽井沢を発見したのは、宣教師たちだった。高度成長経済の1970年代、リゾート地として脚光を浴びる。そして、バブル経済の時代には、投資先として。
この町はいま、新幹線通勤で東京に通う住宅地として、さらには団塊の世代を中心とする人々によって、終(つい)の棲家として「再発見」されている。7月1日現在、1万9493人。平成2年の1万5000人台から比べると約4000人も新住民が加わった。
人生の終着点をみつめるとき、生活を築き上げたいま住むところか、故郷を思うのではないか。地方から都市への民族の大移動のような時代を経て、人々は帰るべき故郷を失った。第三の選択肢として、自然にあふれた町を目指すのはよくわかる。過疎に悩む町村が、格安な土地を斡旋したり、空き家となった農家を無償で貸したりして誘致を競っている。新しい民族の移動の先頭に、軽井沢は立っている。
「都市デザイン室」――軽井沢町役場に3人の新しいチームが4月発足した。50年後あるいは100年後の町の計画を立てる、という。コンサルティング会社に計画作りをまる投げするのではなく、町内の3つの地域ごとに住民の意見を吸い上げていく。そのたたき台として、堀辰雄らが宿泊した古い旅館や、空き店舗を活用した街づくりなどの案を住民に示したばかりだ。
「50年計画」に取り組む職員たちが、バイブルと呼ぶ冊子がある。昭和47年に制定された「自然保護対策要綱」である。別荘の敷地面積を約1000平方㍍としたり、建ぺい率を20%にしたり、法律よりも厳しい規制を課した。バブル時代の投資ブームの際にはマンションに対しても規制を加えた。バブル経済のなかで、列島の各地にリゾート地が生まれたが、いまは見る影もない。バイブルがなかったのである。
軽井沢の「50年計画」は、少子高齢化が進む日本のなかで、豊かな自然と共生する街づくりの新しいバイブルを作り出してくれるだろうか。
帰りしなに見上げた浅間山の山麓を、発信機を付けたツキノワグマが動き回っているさまを想像すると、この町を愛する人々の気持ちが伝わってきて、きっとよい計画ができると思った。
(2012年9 月4 日 フジサンケイビジネスアイ フロントコラム に加筆しました)