リクルート事件は終わらない。政官財を巻き込んだ戦後最大の疑獄事件は四半世紀近い時を経て、新たな光が当てられようとしている。
『リクルート事件・江副浩正の真実』(中央公論新社)は、当事者である江副が、克明な記録と記憶によって記した。
「メディア・スクラム」――怒涛のように取材に押し寄せるメディアに対して、広報パーソンたちがどのように動いたのか。リクルート事件は、尽きせぬ教訓を含んでいる。
事件の発端は、川崎市の助役にリクルートから、上場が近いリクルート・コスモス株が譲渡された、とする1988年6月の朝日新聞横浜支局の報道だった。その後、コスモス株の譲渡は自民党政権の首相経験者や当時の竹下登首相周辺まで及んでいたことが明らかになる。
大きなターニング・ポイントは、コスモスの取締役社長室長で広報を担当していた松原弘が、社会民主連合の代議士である楢崎弥之助を訪ね、現金の贈与を申し出た瞬間だった。日本テレビが隠し撮りをして繰り返し放映した。
「私は衝撃を受けた」と江副は振り返る。
「松原から聞いた話では、七月以降、楢崎氏が……『コスモス株の譲受人の名簿をすべて提出せよ』と執拗に強談判された……危機管理を専門に研究していると、松原に自ら売り込んでリクルートに中途入社した田中辰巳が、楢崎氏の要請は金銭の要求だと強く主張。それを受け、リクルート常務の間宮舜二郎が……松原に指示した」
田中辰巳とは、危機管理の専門家として知られる株式会社リスクヘッジ代表取締役社長である。企業の不祥事の際に新聞などで、田中が発するコメントは、いわゆる結果論ではなく傾聴に値する。
江副の記述は伝聞である。田中は1983年にリクルート入社後、秘書課長、広報課長など要職を務めた。
『企業危機管理 実践編』(文春新書)のなかで、田中は次のように述べる。
「(リクルート事件で)何度か参考人として事情聴取を受けた。しかし、調書は一枚も取られていない。何故なら、『便宜供与の見返りは未公開株』という筋書きに合致する供述をしなかったからである」と。
世間の常識という正義を背にして取材攻勢をかけてくるメディアに対して、広報パーソンはときとして、自分の属する組織の非常識と戦わなければならない。
代議士に対する金銭の贈与がどのような意味を持つのか。それは明らかだ。あのとき、リクルートの中で誰が発案したのか。それは「藪の中」である。ただ、非常識と戦うべき広報部門のトップが実行し、グループの総帥は知らなかった。江副は痛恨の極みであろう。
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誉れもなく
訾(そしり)もなく 荘子『山木篇』
(誉れにも、謗りにも気にかけず、 臨機応変にしてとらわれない)
新聞記者から広報パーソン、そして経営者となり、独立して、再びペンを握った筆者が、「広報マンの攻防戦」を綴りたい。 (敬称略)
エルネオス ぼまれもなく そしりもなく
田部康喜 広報マンの攻防 ①
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